2020年7月19日礼拝説教 マタイの福音書15章21-28節

今日もこうして、礼拝出来ることを感謝致します。子どもたちと一緒に礼拝していますので、まず子どもたちへのメッセージをします。

<子どもたちへ>
皆は、お父さんやお母さんにお願いをする時にどんな気持ちでお話ししますか。例えば、「新しい服が欲しい。新しいゲームのソフトが欲しい」と思ったら、お父さんやお母さんに相談しますよね。その時に、皆は、「お母さんは、お父さんと相談しようと言うだろうな」、そして「お父さんは、どうせ駄目と言うだろう」と予想を立てる事があるでしょうか。その結果、「どうせ駄目だろうと」結論を出したりしていませんか。でも親も子もお互いの考えを話し合うことでより良い答えが出てくると思いますよ。
 今日は、イエス様の所にお願いに来た異邦人(外国人)の母親の姿から学びましょう。

イエス様は、ある時はカペナウム、ある時は山の上で、時には歩きながら、そして会堂で、エルサレムでと色々な所で神様の言葉を教えておられました。けれどもその場所の殆どは、ユダヤ人の地域での活動となりました。なぜならイエス様がユダヤ人だからです。そしてイエス様は、まずユダヤ人が神様を見上げ、救い主への信仰へと導かれる事を願っていました。イエス様の地上での宣教は、この一点に集中していたと言っても良いでしょう。
 しかしある時イエス様は、ユダヤ人の地域を離れて外国の地ツロとシドンの地方に行かれました。それは、群衆を避けて休憩を取りたかったからだと思われます(マルコ7:24-)。イエス様は、弟子たちと本当に静かに過ごしたかったのです。ユダヤ人たちは、外国の人たちと関わりを持つことはありませんでしたし、外国人(異邦人)もユダヤ人とは距離を取っていました。だからイエス様がそこにいても静かに過ごせる予定でした。けれども、一人の異邦人の女性がイエス様の元にやって来たのです。その女性の娘が悪霊(悪い霊)に苦しめられていたからです。母親は、必死にイエス様に叫び続けました。イエス様は、どうしたでしょうか。イエス様は、「すぐに娘を連れてきなさい」と言ったでしょうか。弟子たちは、そうするだろうと思ったかもしれません。しかしイエス様は、何もお答えにはなりません。でも母親は、あきらめないで、イエス様への訴えを続けます。とうとう弟子たちが、イエス様に何とかしてくださいとお願いするほどになりました。それに答えてイエス様は、「イスラエルの失われた羊以外のところには遣わされていない」と言うのです。

母親は、それでも叫び続けます。それだけ、母親の思いが強かったのです。するとイエス様は、「子どもたちのパンを小犬にあげるのは良くない」と言われました。これまた予想外のイエス様の答えです。イエス様が言われた「子どもたち」は、ユダヤ人のことです。パンは「御言葉」のこと、「小犬」は異邦人(外国人)のことです。イエス様は、意地悪を年亭のではありません。イエス様は、まずユダヤ人に神の国のことを伝えるべきだと言われたのです。そこで母親は、「その通りです。でも、小犬でもテーブルからこぼれ落ちたパンくずは食べます」と答えました。これは、ほんの少しの憐れみを受けられれば娘は治ると言う信仰の告白です。
 イエス様は、この母親の信仰を喜ばれました。母親の言葉の意味は、「ユダヤ人であるイエス様がユダヤ人を優先するのは分かります。でも異邦人でもそのおこぼれを受けることは出来るのでないでしょうか。ほんの少しの憐れみで十分です。」と言うことです。母親は、イエス様を信じて、信頼して求めたのです。イエス様は、その信仰を喜んで娘をなおして下さいました。
 イエス様は、皆がイエス様を信じて祈り求めることを喜んで下さいます。今どんな願いがありますか。信じてイエス様に祈りましょう。イエス様はみんなの祈りに答えて下さいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様に求め続けた母親のように、僕
たちもイエス様を信じて祈り続けます。どうぞ導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。」

<適応>
それでは、続いて今日の箇所から、どんなことを心に留めるべきなのか御言葉に耳を傾けていきましょう。

Ⅰ;謙遜に求める

 私たちは、主の前に謙遜に、信じて求めましょう。
イエス様の反応は、以外なものだし、少々冷たいように思われます。弟子たちが、「イエス様あの女を去らせてください」と願うほどです。弟子たちは、イエス様が早く願いを聞いてやったら静かになるのにという思いでしょう。イエス様の対応は、弟子たちにとっても予想外だったようです。けれどもこの女性は、想定内の反応として受け止めているように思います。イエス様は、「イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていない(24)」と言われ、「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げるのは良くない(26)」と言われました。これは、イエス様の地上での宣教活動の範囲を考えれば当然のことと言えるでしょう。先ほども言ったようにイエス様は、決して意地悪をしているのではありません。イエス様の約3年間の公生涯は、ユダヤ人の地域を移動するだけで費やされました。イエス様は、神の国のことを語り、御言葉を通して、ユダヤ人が旧約聖書を正しく理解し、救い主に心を開くようになることを願っていたのです。その思いが、「イスラエルの失われた羊以外のところにには、遣わされていない」と言う表現となりました。
 このように言われてもこの母親は、あきらめることなく、熱心に求め続けます。また彼女は、イエス様の言葉をそのまま受け止めました。そして、「小犬でも食卓からのパンくずは頂きます(27)」と訴えるのです。この言葉は、「自分が異邦人であり、ユダヤ人であるイエス様から恵みを受ける資格がない」という彼女の信仰の表れです。彼女は、イエス様の前での自分の立場を素直に認め、ほんの少しのおこぼれでも十分であるという信仰に立ったのです。この態度は、神様の憐れみにすがるしかないという姿勢であり、神様に信頼しますという表明でもあります。

 私たちが祈る時、この母親のように謙遜に求める事が大切となります。人は、ことあるごとに祈ります。クリスチャンではなくても、何かに祈ります。自分は何も信じないと言う人も、お寺や神社に行ったりします。人は、何かに祈り願うことで安心感を得ようとしているのでしょうね。でもその時の動機が大切です。多くの場合人は、神は自分の祈り願いを聞いて当たり前と考えるかもしれません。それは、神という存在を自分の都合の良いように動かす自己中心の願いとなります。ある人は、「神様は自分の祈りをそのまま答えるべきだ」と考えるかもしれません。別の人は、「困ったときに神に祈ろう。神は何でも願いを叶えてくれるから」と考えるかもしれません。多くの人が、「困ったときの神頼み」的な祈りをしているのではないでしょうか。私たち自身の祈りはどうでしょうか。しかし祈りは、神様を自動販売機のように使うためのものではありません。私たちは神様を都合のいいように動かすために祈るのではありません。祈りは、父なる神様との人格的な交わりとなるべきです。私たちは祈りを通して自分自身を知り、神様の思いを知るようになります。その時私たちは、自分が罪人であり、神様の御前に出る資格はないと知るのです。そこでさらに一歩神様に近づくことが出来るのではないでしょうか。
 母親は、「自分はイエス様の御前に進み出る資格はないかもしれない、けれども、ほんの少しの憐れみを与えていただきたい。それで十分です。」と告白したのです。このように主の前にへりくだり、謙遜になって信じて祈る者となりましょう。その時、私たちは、神様からの大きな愛と恵みを与えていただくことが出来るのです。これが二つ目のことです。

Ⅱ;恵みが与えられる

 私たちは、信じて求めましょう。その時、恵みが与えられます。
 イエス様は、この母親の信仰を認めてくださいました。28節の「あなたの信仰は立派です」と言うのは、「あなたの信仰は偉大です」という意味があります。イエス様は、確かにユダヤ人を最優先に考えておられましたが、決して彼女に恥をかかせようとしたのではありません。イエス様は、人格的な交わりを通して、彼女の信仰の確かさを知ろうとされていたのです。彼女の信仰は、立派なものでした。イエス様は、彼女の信仰が確かであることを認め、娘を癒してくださいました。

 皆さん今、私たちはイエス様の御前に出て祈り求める事が出来ます。イエス様は、そのために十字架にかかって下さいました。ツロとシドンの時にイエス様は、「イスラエルの失われた羊以外のところには遣わされていない」と言われました。けれども異邦人が完全に除外されていたわけではありません。イエス様は、カペナウムでローマの百人隊長のしもべを癒されました。サマリヤ町では、ひとりの女性がイエス様によって変えられました。そしてツロとシドンでは、ひとりの母親がその信仰によって娘を癒していただきました。それだけではありません。イエス様は、地上の全ての人が救いと神様の恵みを受けられるように、十字架にかかって下さったのです。私たちは、自分の罪のために神様から離れ、神様の愛と恵みを受ける資格のないものでした。神様が、遠くにいるのではなく、私たちが神様に背を向け、遠く離れているのです。イエス様は、そんな私たちの罪を背負い、身代わりとなって神様の罰を受けて下さいました。それが、イエス様の十字架です。イエス様の十字架の贖いによって信じる全ての人は罪赦され、救いを受け、恵みと憐れみを受けるのです。私たちは、イエス様は信じる信仰によって、救いの恵みを与えられ、神の子どもとしての特権を与えられています。その特権とは、神様からの愛と神様が与えようとしておられる祝福を余すともろなく受けられるという特権です。今、私たちは、遠慮することなくイエス様に近づき求めることが出来るのです。

 そのように信じて祈り求めるとき、神様は恵みを注いで祝福を与えて下さるのです。娘を癒された母親は、とことんまでイエス様を信じる委ねると言う信仰を持って求め続けました。そして彼女は、神様は決して自分を見捨てることなく、神様のみわざが必ず成功するという確信を持っていたのです。イエス様は、その信仰を喜ばれました。
 私たちは、このような信仰を持って祈ることが大切です。神様は、私たちが信じて疑わず、求め続けることを願っておられるのです。そしてイエス様は、そのような信仰を喜んで下さり、恵みを憐れみを祝福を与えて下さるのです。

祈り
「愛する天の父なる神様。あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちは、小さな者です。罪の中を歩み、神様に愛される資格のない者でした。けれどもイエス様が、私たちの罪の身代わりとなり十字架にかかって下さったことを感謝致します。今、私たちは、神様から多くの祝福と恵みを与えて頂けることを感謝致します。そして私たちは、祈りを通して神様と交わり、心にある様々なことを打ち合け、求める事が出来る恵みをありがとうございます。主の御前に謙遜にへりくだって求めます。神様、私たちに恵みを与え、祝福と憐れみの御手によって導いて下さい。
 新型コロナウイルス感染がまた増え続けています。どうか神様、感染を終息させてください。日本を世界を憐れんでください。神様の愛と恵みが一人ひとりの心に満ちあふれますように。感染している方々が癒やされ、医療従事者が守られまるすように。私たち一人ひとりの健康をお守り下さい。豪雨被害を受け被災されている方々に神様の慰めがありますように。復興作業が守られますようにとお願いします。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」