2020年8月30日(日)礼拝説教 創世記3章1-21節

<子どもたちへ>
 皆さんの学校には、何か決まり事などがありますか?僕は、小学生の時にはあまり気にしたことがなかったけれど、中学や高校になると「校則学校の規則)」があることを知りました。その校則には、学校での過ごし方から学生服のことや髪型などのことが決められていました。高校生の時は、時々、学生服と髪型持ち物のチェックがありました。僕じゃないけど、カバンの中に漫画があると取り上げられたりしていましたね。
 細かいことでなくても、授業の時間割が決まっていますね。授業中は、友だちとおしゃべりをしないなど、何となく決まり事があるでしょう。皆は、それを守っているでしょうか?守らなかったら先生に注意させるでしょう。また、嘘をついてしまうことがあります。友だちと仲良くしたいのに、なぜか喧
嘩をしてしまうことがあるでしょうか。世界中でも争いが絶えませんね。どうしてそうなってしまうのでしょうか。

 神様が、天地を創造し、人間を造られた時、そこに「罪」はありませんでした。神様が、創造された世界は「見よ。それは非常に良かった(創世1:31)。」と言われる通り、とても素晴らしい世界でした。そこには神様の恵みと祝福が溢れ、人は喜びに満たされ、神様ととても親しく交わることが出来ました。しかし、罪が人の心の中に入って来たことによってすべてが崩れ去ってしまいました。今日は、「人類史上最初の罪」について見ていきましょう。そのために神様が、アダムに命じていた命令をまず確認しましょう。神様は、アダムを造られ、エデンの園に置かれました。そして神様は、アダムにこう言っておられました。「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』(創世2:16-17)」この神様のご命令を覚えておいて下さい。

 さて、人間は、どのように罪を犯してしまったのでしょうか。創世記3章1節では、蛇がエバを誘惑したように見えますが、悪魔が蛇を利用してエバを誘惑したのです。蛇は言います。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか(1)。」と。神様は、なんと言っておられたでしょうか。神様は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言っておられたのです。ただし「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と言われたのです。食べてはならないのは、園の中央にある木でした。しかし蛇は、「神様はどの木からも食べてはいけないと言ったのですか」と神様の禁止事項が多いかのように言い、神様は意地悪なのではないかと思わせる事で、エバの心を惑わしたのです。エバは答えます。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはいけない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。(2-3)」

 このエバの答え何かおかしいと思いませんか。エバは、神様の言葉を正確に覚えていませんでしたし、勝手に付け加えていたのです。神様は、食べてはならない。食べたら必ず死ぬ。」と言われました。けれどもエバは「食べてはいけないし、触ってもいけない。死ぬといけないから」と答えたのです。エバは、神様の禁止事項を増やし、神様が断言したことを曖昧な表現に変えてしまいました。エバは、もしかしたら神様の命令に背いても大丈夫なのではないかと思っていたのです。蛇は、そのエバの思いに寄り添って、「そう、死ぬことはありませんよ。それを食べると神のようになれるのです。だから大丈夫。」と誘惑するのです。エバは、蛇の言葉に心揺さぶられ、その実を見るとそれは美しく、美味しそうに見えました。それまでは避け続けた善悪の知識の実でしたが、エバはそれに手を伸ばし、手に取り食べました。もしかしたら「一つくらい良いだろう」と考えるようになってしまったのかもしれません。一口食べて「美味しかった」のでしょう。側にいたアダムにも渡しました。アダムは、エバの近くにいてエバを止めることをせず、蛇の誘惑に負けて食べてしまいました。こうして罪が人間の心に入ってきました。その結果、神様による裁きを受けることとなり、エデンの園を追い出され、いずれ死を迎えるようになりました。

 神様は人を造られた時、人を神様の思い通りに動くロボットのような存在として創造しませんでした。神様は、人間を神様と交わりを持つ存在としてお造りになりました。アダムとエバは、神様の戒めに従い、従順に歩むことが期待されていたのです。けれども彼らは、悪魔の誘惑に負け、神様の戒めに従うのではなく、神のようになるという言葉に惹かれてしまったのです。それは、神様なしの生き方への一歩を踏み出したことになります。アダムの罪の結果、人は、罪の性質を持って生まれてくることとなりました。

 アダムとエバは、素直に神様に「ごめんなさい」と謝る事が出来ませんでした。神様は、皆一人ひとりに罪を悔い改めて「神様、ごめんなさい」と素直になることを待っておられます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、アダムは悪魔の誘惑に負けてしまって罪を犯してしまいました。その結果、全ての人が罪の性質を持っていることを知りました。神様、僕の(私の)罪をお赦しください。いつも神様に素直に悔い改めることが出来るように導いて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>
 引き続き、今日の箇所から私たちが心に留めるべき適応を学びましょう。先ほど神様は、人間をロボットのような存在として造らなかったと言いました。もし人間に意思がなかったら、神様と交わることは出来ません。私たちも決まった動きをするロボットと人間的な関わりを持つことが出来ないのと同じです。神様は、人間と人格的な、心の通った交わりを持ちたいと願っておられたのです。人間は、神様の言葉を大切にし神様の喜ばれることを選ぶことが求められていたのです。けれどもアダムは、違う選択をしてしまいました。その結果、「罪」が人間を支配することとなってしまいました。

Ⅰ;神様に背を向けること


 「人の罪」とは、神様に背を向けることです。聖書で言う「罪」は、的を外すと言う意味の言葉が使われています。これは、神様の言葉、神様の御心という的から外れて、他の方向にずれてしまうということです。アダムが的を外し、罪を犯したことによって、それ以降の全ての人がこの罪の性質を持って生まれ、的を外した生き方をしています。
 さて、蛇は、「それを食べるそのとき、あなたがたは神のようになれる」と言って誘惑しました。エバは、この「神のように」という言葉に惑わされ食べてしまいました。アダムも食べました。その結果は、どうだったのでしょうか。罪の結果、人は神のようになったのではなく、お互いが裸であることを知りました。そしてそれが、恥ずかしいことであるのを知ったのです。そして彼らは、お互いの恥や罪を隠すようにイチジクの葉で腰の覆いを作りました。
 罪の結果、人は神様から隠れるようになります。それまでは、神様と自由に交わることが出来、神様に呼ばれれば、「はい、ここにいます。」と喜んで御前に出て行くような親しい関係があったのです。それなのに、今アダムは、神様から隠れるのです(8)。今でも、何か罪を犯すと人はそれを隠そうとします。また隠れようとします。

 罪の結果、神様はエバには出産時の苦しみが増し、アダムは苦労して食を得ることになると言われ、肉体の死を迎えることとなると言われました。アダムとエバは、すぐに死ぬことはありませんでした。しかし、彼らは、いずれ死を迎える存在となったのです。そして肉体的な死だけではなく、アダムは神様との霊的関係が崩壊するという、霊的な死を迎えるのです。それがエデンの園の追放です。神様は、アダムとエバをエデンの園から追放しました。それは、神様と人間との関係の断絶を意味します。蛇は、エバの心に神様への疑いを芽生えさせました。少しの疑いが心の中で膨らみ、神様を心から閉め出す事となるのです。アダムは、神様の言葉よりもエバの言葉を信頼し、心の中心に神様ではなく、自分の欲望、自分の考えを置いてしまったのです。

 神様と人間との関係が崩壊し、人間関係も崩壊しました。神様に問い詰められた時、アダムはエバの責任だと言います。さらには「あなたが私の側に置かれた」と言って神様の責任にもしています(3:12)。エバは蛇の責任だといいます(13)。それぞれ自分には責任がなく、周りが悪かった自分にはどうしようもなかったと言っているのです。罪によって人間関係が破壊され、誰も自分の過ちを認めることが出来なくなったのです。この自己中心や自己保身と言った姿が、すべての争いの原因です。私たちの世界は罪に満ち溢れていると言っていいでしょう。

 皆さん、悪魔は、私たちが神様を信じなくなること、神様の言葉に疑いを持つことを喜びます。悪魔は今でも私たちに疑いの心を起こさせます。その方法は、エバの時と同じです。悪魔は、神様の言葉を使いながら、その言葉を巧みに言い換えて私たちを惑わします。ですから私たちは、聖書の御言葉をしっかりと聞き、正しい心で受け止めることが出来るようにいつも祈り求めましょう。

Ⅱ;救いの御手


 私たちは、人の罪に対する「神様の憐れみ」があることを忘れてはいけません。今週の御言葉(ローマ6:23)のように「罪の報酬は死です。」人は、罪のために肉体的な死を迎える存在となり、神様との関係の断絶により霊的に死にました。しかし神様は、このような罪の結果だけではなく、人を見捨てることをせず、憐れみの御手を差し伸ばしてくださるのです。ローマ6:23 の続きは「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。
 神様の裁きの言葉は創世記3章14節からとなります。この部分、アダムとエバについては、申し開きをする機会が与えられていました。11-13節です。しかしアダムとエバは、この申し開きの機会で悔い改めることが出来ず、罪に罪を重ねてしまう結果となりました。蛇については、どうかというと、蛇に関しては弁解の余地がありませんでした(14)。エバには、出産の苦しみが増し加わることとなりました。また妻は夫を慕うが、夫は妻を支配するようになると言われています。これは、神様を中心としない結婚関係の破綻を意味しているのではないでしょうか。アダムには、苦労して糧を得なければならないことと、人は死ぬ存在となったのでいずれ、土に帰ることが語られます。こうして人間はエデンの園を追い出されてしまいます。

 けれども神様は裁きの中でも憐れみを示しておられました。15 節は原福音と呼ばれています。蛇に対する裁きですが、これは悪魔に対する裁きでもあります。女の子孫が蛇に勝利する。人間が悪魔に勝利するのは、イエス様の十字架の贖い以外にありません。ここに、神様の救いの計画が語られ、人間が神様の前に回復することが含まれているのです。まさにパウロが言うように「しかし、神の賜物(プレゼント)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」なのです(ローマ6:23)。また、21 節では神様が皮の衣を作ってくださったとあります。イチジクの葉で作った腰の覆いはすぐに枯れてしまいます。神様は、より丈夫な皮の衣を作り二人に着せて下さいました。これで安心して生活することが出来ます。この皮の衣は、神様の憐れみです。神様は、人が裸であることを憐れみ、その恥を覆うために「皮の衣」を作って、着せてくださったのです。人は、神様に捨てられて当然であるのに、神様は人に対する愛を少しもやることなく、愛することが当然のように御手を差し伸ばしておられるのです。

 アダムに対する「神様の憐れみ」を考えたとき、創世記3章9節の神様の言葉を忘れてはいけないと思います。神様は、アダムに呼びかけ「あなたはどこにいるのか」と声をかけて下さったのです。この神様の御声に対して、アダムは裸であるので恥ずかしくて隠れました。それは、罪を犯したので恥ずかしく、恐ろしく神様の御顔を避けたということなのです。この神様の御声は、アダムの居場所を知らなかったからではありません。神様は、アダムの自発的な応答、悔い改めを求めておられたのです。悔い改めは、「方向転換」をすることです。アダムは、罪によって神様という方向ではなく、自我、この世という方向に向いてしまいました。それは、罪に支配された生き方です。悔い改めると言うのは、罪に支配された生き方から、神様による生き方へと向きを変え、180 度の方向転換をすることなのです。神様は、「あなたはどこにいるのか」という問いかけでそのきっかけを与えて下さったのです。けれどもアダムは、神様の前に悔い改める事をしませんでした。
 皆さん、今でも神様は、「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられます。それは、「あなたは何を見ているのか、あなたの目はどこに向いているのか」という問いかけてでもあるでしょう。神様は、聖書の御言葉を通して私たちの心にそっと語りかけ、憐れみの御手を差し伸ばしてくださるのです。神様は、私たちのことを決して諦めたりせず、私たちがいつも神様の方向をむくことを待っておられるのです。私たちは、自分の罪が分かったらすぐに悔い改めましょう。神様は、待っておられます。神様は、私たちにご自身の大きな愛を注いでおられます。この神様の愛に憐れみに答えて信仰を持って歩みましょう。

祈り
 「天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。人は、神様の御言葉よりも悪魔の声に惑わされ、神様の御心を求めるより、自分の欲望を優先させ罪を犯しました。そのために人類に罪が入り、私たち自身も罪の中にいます。しかし神様は、このような罪人を愛してくださり、救いの道を備えて下さり感謝致します。悪魔は、今も私たちの心を惑わそうと誘惑をしてきます。神様、誘惑に負けることなく、いつも神様を見上げ続ける事が出来るように助け、導いて下さい。神様が差し伸ばしてくださる憐れみの御手をしっかりと握り、主と共に歩ませて下さい。
イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。」