2020年9月6日(日)礼拝説教 創世記4章1-16節

中心聖句:箴言21章2節
「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される。」

<子どもたちへ>
 みなさんは、兄弟姉妹がいますね。私も3人兄弟で、下に弟と妹がいます。4つ下の弟とはよくケンカしましたよ。覚えている最初のトラブルは、弟が生まれてすぐの時でした。ベビーベッドで寝ている赤ちゃんをじーっと見ていると、なんだか憎らしく思えたのです。お父さんとお母さんを取られたような気がしたんですね。それで思わず赤ちゃんのほっぺたをぎゅうっとつねってしまったのです。こっそり見ていたお母さんに止められて、そこまでになりました。兄弟ってケンカしてみたり、やきもちを焼いてみたり、なかなか難しい存在ですね。世界で最初の殺人事件は、兄弟間で発生しています。今日はそのお話しです。

 ここにある兄弟がいました。お兄さんはカイン、弟はアベル。アダムとエバのこどもです。2人の男の子はぐんぐん成長し、立派な大人になりました。お兄さんのカインは農夫になり、弟のアベルは羊飼いになりました。2人ともアダムとエバから神様のことを聞いて、信じていました。
 ある時2人は、神様にささげ物をしようとしました。お父さんに言われたのかもしれないし、どちらかが言い出したのかもしれません。2人はそれぞれ自分の仕事の中から持ち寄ることにしました。カインは野菜や果物をじーっと見ました。「えーっと、どれにしようかな。これは良すぎてもったいない。こっちのいらないのを適当に選べばいいかな。」それでいくつかを持ってきて神様にささげました。アベルは羊を捧げることにしました。「かわいい羊たちだけど、いつも守って下さる神様への感謝に捧げよう。よし、一番コロコロ太っていて可愛い、この小羊にしよう。」アベルは最初に生まれた記念の小羊の中から、一番良いのを選んでささげました。
 そしてお祈りしました。「神様、僕たちのささげ物をお受け下さい!」ところが神様は、アベルに言われました。「アベル、お前のささげ物を私は喜んで受け取ろう。」ところがカインには…何にも言ってくださいました。そして怒りが湧いてきてムカムカしました。「何でアベルのやつだけほめられるんだ!神様は野菜は嫌で肉が好きってことか?」違いますね。神様は「アベルとその捧げ物」の両方に目を留めたと聖書にあります。一番いいものを感謝をもって捧げようとした、アベルの心を喜んで下さったのです。神様はカインを心配して「罪があなたを待ち伏せしている。罪に負けずに乗り越えなければいけないよ。」と言ってくださいましたが、カインの心には届きませんでした。

 カインは怒り狂ってひどいことを考えました。「おいアベル。野原に行こうぜ。」野原にいくと、何とカインはアベルに襲い掛かって殺してしまいました。神様がカインに言いました。「弟はどこにいるのか?」カインはドキッとしましたが、「知りませんよ!私は弟の番人じゃないです」と憎まれ口を聞きました。悔い改める気などなかったのです。すると神様は悲しそうにおっしゃいました。「アベルの血によって、あなたは土地に呪われてしまったぞ。今後あなたがいくら耕しても作物は出来ない。あなたは地上をさまよい歩くしかなくなるのだ。」

 カインはやっと、犯した罪の大きさに気づいて怖くなりました。「ああ神様、私はもう神様の近くで暮らせないのですね。さまよい歩くうちに私も誰かに殺されてしまうかもしれません!」すると神様は、カインを守るというしるしをカインに下さいました。そしてカインはエデンの園から去って、東の方に住み着きました。皆さん、悲しい家族の事件ですね。でも心に湧いて来る罪にしっかり向き合って乗り越えれば、こうはならなかったのかもしれません。アダムとエバ以来、こどものカインにも、その子孫の私たちにも罪は広がってしまいました。一番近い家族の間や、自分の普段の生活の中に、罪は入り込みます。注意深く、何が神様に受け入れられることか、見分けていきましょう。神様に助けて頂いて、罪の誘惑を乗り越えさせて頂きましょう。

<適用>
 「蒔いた種を刈り取る」という諺があります。人は、良くも悪くも自分の行いの結果をこうむることになるということです。勉強を怠れば良い成績をとることが出来ません。スポーツでも練習をしないでいると、良いプレーをする事が出来なくなります。逆に出来る限りの備え(自主勉強)をしていると突然のテストでも慌てることはありません。基本練習をしっかりとしてれば、その場に応じたプレーをすることが出来ます。
 私は、筋力アップのために少しつづでもトレーニングをしなければと思っています。けれども「この夏の猛暑の中では大変だ。」となり、そろそろとも思うのですが、「残暑が厳しいから」となり、未だに筋力アップとはいきません。難しいものです。
 先週は、アダムの最初の罪を学びました。この最初の罪の結果、人は神様との関係が崩れ、エデンの園を追い出され、死を迎える存在となりました。さらにアダムとエバの人間関係にもその影響は出ていき、今日のカインとアベルとの間の出来事となってしまいました。このカインとアベルの出来事で、説教題を「心を見られる神様」としました。それは、根本的な問題は、彼らの心の問題であり、神様は、それをご覧になったということだからです。

Ⅰ;神の前の自分の心

 神様は、私たちの心を見られます。神様は、私たちの心の内側の思いを見られるのです。
 先ほどの先ほどの先ほどの話にあったように、カインは地の産物から、アベルは羊の初子の肥えたもの(最上のもの)を持って来て主に捧げました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められ、カインとそのささげ物には目を留めなかったのです。何が問題だったのでしょうか。ささげ物に問題があったのでしょうか。ささげ方が問題となったのでしょうか。続く神様の言葉から分かることは、問題となったのはささげる人だったのではないかと思います。神様は「アベルと・・・、カインと・・・」と言っています。神様は、ささげ物の前にそれをささげる人の心を見られるのです。ヘブル11章4節には「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に捧げ、そのいけにえによって彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。」とあります。

 問題となったのは、主への信仰があるかないかでした。神様ご自身もカインに言っています。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているなら、受入れられる。・・・(創世記4:6-7)」。この時のカインの心の状態がどのようなものであったのかは、分かりません。しかし明らかなことは、カインの心が正しくなかったと言うことです。
 アベルは、羊の中でも「初子」を選び、その初子の中でも肥えたもの(状態の良いもの)を選び、主の前に持って来ました。アベルは、神様が何を喜ばれるのか、考え、神様の喜ばれる姿を思い巡らしてささげ物を選んだのではないでしょうか。そこには、神様への感謝の思いが溢れているように思います。けれどもカインの一連の行動には、神様への感謝が見られませんし、必ずしも神様の喜ばれることを求めていたとは思えないのです。その証拠に、カインは、自分のささげものが受入れられなかった時、激しく怒るのです。それは、自分自身への怒りではなく、神様への怒りでしょうし、アベルに対する怒りだったでしょう。

 ここで問題になっていることは、神様の前にどのような心で進み出るのか、そこに神様への礼拝の心、感謝の心があるのかどうかということです。今でも神様は、礼拝者の心をご覧になります。私たちは、礼拝すれば良いのではありません。賛美していれば良いというのでもありません。賛美しながら「ガスの元栓どうだったかな、今日の午後はどうしようかな」と考えることはありませんか。イエス様は、真の礼拝者は、「神を礼拝する人は、
御霊の真理によって礼拝しなければならない(ヨハネ4:23‐24)。」と言われました。これは、真心を込めて、主の前にひれ伏し礼拝すると言うことなのです。私たちは、どのような心で主の御前に出るでしょうか。

Ⅱ;御言葉に対する自分の心

神様は、私たちの心をご覧になります。神様は、私たちの心が神様の御言葉に開かれているだろうかを見られるのです。
 カインは、神様に対する信仰が問題でした。彼の心は、神様に向いていませんでした。そのことが、次の彼の行動を生み出すこととなりました。カインは、自分のささげ物が受け入れられず、アベルのいけにえが受け入れられたのを見て憤りました。カインは、人と比較をしてどうして弟だけが受け入れられて、自分はだめだったのだろうか。と考え、アベルとの違いにだけを見ていたのではないでしょうか。カインは、「どうして、どうして」と目を外に向け、自分中心に物事を考えていたのです。そしてその怒りは、神様に向けられ、弟アベルに向けられて行くのです。だから、神様がカインに語り掛けても彼は、その言葉に信仰を持って応答することが出来なかったのです。神様は、「なぜ、怒るのか。なぜ顔を伏せているのか」と語り掛けまし
た。そして7節で神様は、カインの行動、その心が正しくなかったと言っておられます。そして罪を犯すことがないように、しっかりと主なる神様を見上げるべきであると言われたのです。これは、カインに対する神様の悔い改めの促しです。けれどもカインは、神様の悔い改めの促しに応じることをせず、神様の言葉に心を開くことをしませんでした。カインの心の中にはすでに神様の居場所はなく、アベルへの憎しみに溢れていくのです。最
終的にカインは、アベルを野に誘い出し、アベルを殺してしまいました。カインは、自分の怒りのために我を失い、冷静な判断をすることが出来なくなりました。そして他の人への思いやりも失いました。罪の誘惑の恐ろしい所です。

 罪の誘惑に陥り、神様から離れて自己中心になってしまったカインは、神様に向かう心がなくなっています。カインがアベルを殺してしまったあと、神様は再びカインに声をかけました。これまた悔い改めのチャンスとなりました。しかしカインは、神様に完全に背を向け、そんなの知りません。自分は関係ないと言い切ったのです。それゆえに神様は、カインに厳しい裁きを宣言されました。土地に定住して耕して作物を得る生き方をしていたカインは、地上をさ迷い歩くさすらい人とされてしまいました。
彼は、何もかも失うことになるのです。このような宣言がされてもなお、カインは、悔い改めることをしません。13-14節のカインの言葉は、自己中心の極み、自己保全というか自己義認の姿です。カインは、自分の罪を認めず、悔い改めないで、自分の思いと自分の要求だけを主張するのです。そんな身勝手なカインに対して神様は、カインが守られるという約束を与えて下さいました。何という神様の憐れみ、愛の深さでしょうか。それでもカインが、主の前に悔い改めたとは書いてありません。残念なことです。

 この姿は、今でも人の中にあります。人は、自分の罪を認めることをせず、常に周りが悪い、自分は悪くない、自分は悔い改める必要などないと主張し続けているのです。だから人の心から、自己中心がなくなることはないのです。
私たちは、本当に気を付ける必要があります。神様は、今も常に私たちに聖書の御言葉を通して語りかけ、私たちが御心に沿って歩めるようにと導いて下さるのです。この神様の語りかけに耳を傾け、しっかりと信仰を持って応答しましょう。そして今自分は、神様中心に生きているだろうか。今の自分の心は、神様に支配され、神様に真っ直ぐ向いているだろうか。今の自分の信仰は、神様に喜んでいただけるものなのだろうか。考えつつ祈りつつ歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様。あなたの聖なる御名を賛美します。
 神様は、アベルとカインの心を見られたように、今私たちの心をご覧になることを知りました。心から主を見上げ礼拝する者とさせて下さい。神様は、カインを投げ捨てず、憐れみを示し、語りかけておられました。同じように今も神様は、私たちに御手を差し伸べ、御言葉を通して語りかけて下さることを感謝致します。神様の語りかけにしっかりと耳を傾けて、信仰をもって応答して歩みます。どうぞ導いて下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」