2020年10月11日(日)礼拝説教 創世記22章1-19節「主の山には備えがある」

中心聖句:創世記22章14節
「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、『主の山には備えがある』と言われている。」

<子どもたちへ>
 先週からアブラムさんのお話が始まりました。神様から行く先未定のお引越しを命じられて旅立ったのでしたね。カナンまで来ると神様は「この土地をあなたと子孫に与える」と言われ、旅が終わったのでした。この時アブラムは75 歳でした。さて今日のお話では、先週から時間がたつことなんと40 年!アブラハムは115 歳くらいになっていたと思われます。長い時間です、この40 年間に色んなことがありました。まず大金持ちになっていました。名前も神様によって、アブラハムへと変わりました。そしてなんと言っても一番大切なこと。それは100 歳の時に跡継ぎの息子、イサクが生まれたことです。100 歳の父親ですから、神様の奇跡ですね。そこからさらに時間がたって、イサクが14,5 歳になった時のことです。神様はアブラハムを試練(辛い出来事を通しての信仰のテスト)に合わせました。

 アブラハム夫婦は、やっと授かったイサクと幸せに暮らしていました。ところがある日、信じられないような神様のご命令がありました。「アブラハムよ。あなたの愛する息子イサクを連れて、モリヤの地に行き、その山の上でイサクを全焼のささげものにしなさい。」全焼のささげものとは、神様に従うことを表すために、動物を焼き尽くしてささげることでした。それを、動物ではなくイサクをささげるとは、なんということでしょう。息子をいけにえにするなんて、父親に出来るわけがありません。しかもイサクは約束の跡継ぎです。イサクが死んだら祝福を受け継ぐ子孫は生まれてこないのです。アブラハムはあれこれ考えて苦しんだと思います。
 しかし次の日の朝早く、アブラハムはロバにたきぎを載せて、イサクと召使いを連れて出かけました。神様には何かなお考えがあるのだろう、と信じて命令に従う決心をしたのです。3日間歩き続けて、モリヤの山につきました。アブラハムは召使いに言いました。「ロバと一緒にここで待っていなさい。私と子どもは礼拝して戻ってくるから。」アブラハムは「神様はきっとイサクを返して下さる」と信じていたんですね。

 親子2 人で山を登っているとイサクが聞きました。「お父さん、薪と火は持ってきましたが、いけにえの羊はどうするのですか?」アブラハムは胸が締め付けられました。そしてこう答えるのが精一杯でした。「イサクよ、神様ご自身がいけにえの羊を用意して下さるのだ。」目的の場所に着くと、アブラハムは祭壇を築きました。薪を並べてイサクを縛ってそこに寝かせました。イサクは驚きましたが、暴れたり逃げたりしませんでした。そしてアブラハムが刀を振り上げたその時です!天から御使いの声がしました。「アブラハム、アブラハム。その子に手を下してはならない。あなたが神を恐れることが良く分った」。これは試練を通じた大変厳しい信仰のテストだったのです。
 アブラハムは、角をやぶにひっかけている羊を見つけました。それをイサクの代わりに捧げました。アブラハムはこの場所に「アドナイ・イルエ」と名前を付けました。それは「主が備えて下さる」という意味です。神様は、「わたしはあなたを確かに祝福とする」と改めて約束して下さいました。
 私たちも、私たちも、試練を経験することがあります。その時、今日のお話を思い出したいと思います。理由の分からない厳しい信仰のテストがあるかもしれません。でも神様を第一にして従うなら、神様の特別な備えと確かな祝福があることをこの箇所は教えてくれます。神様はアブラハムとイサクにそうだったように、いつも私たちを愛しておられます。神様が良いことを備えて下さる方だと信じて、従って行きましょう。

<適用>
 「備えあれば憂いなし」「転ばぬ先の杖」とよく言われます。何事も備えておくことが大切だということです。例えば、懐中電灯は、いつでも取り出せるようにしておくと良いと言われます。でも突然の停電の時、懐中電灯が見つからなかったり、懐中電灯はあっても電池が終わっていて使えない、そもそも電池が入っていないと言う経験があるでしょうか。私は、懐中電灯を探すところから始めることが多いです。沼田での生活では、10月後半から冬用タイヤへの交換を考え始めます。しかし毎年まだ大丈夫だろうと思っていると突然雪が降り始めて慌ててタイヤの交換をするということになってしまうのです。
 私たちは、事前に備えが出来る事柄と、備えが出来ていない事柄に直面します。この備えが出来ていないような時やどのように物事が進展するのか分からないような時、私たちは、それを試練と感じるのではないでしょうか。今日の箇所は、アブラハムの人生のクライマックスであり、アブラハム最大の危機ということになるでしょう。アブラハムに、ひとり子イサクが誕生してしばらくして、神様がアブラハムに語りかけました。その目的は、明らかです。アブラハムを試練にあわせるためです。しかしこの試練の中に、アブラハムの信仰が輝き、同時に神様の憐れみ、救いの計画を見ることが出来るのです。共に御言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;信仰の目を主に向けよう

主の山には備えがあります。だから私たちは、常に信仰の目を主に向けて歩むことが出来ます。ある時神様は、「アブラハムよ」と呼びかけました(1)。彼は、神様の言葉にすぐ「はい、ここにおります。」と答えています。これまでアブラハムは、神様との親しい交わりを通して、神様の約束の言葉や警告の言葉を聞いて来ました。しかし、今回は耳を疑うような言葉を聞くことになります。神様は、アブラハムに神様の示す場所で、ひとり子イサクを全焼のいけにえとして捧げるように命じるのです(2)。この言葉は、すぐ理解できることではありません。なぜなら、神様は、アブラハムの子どもによって約束が継承されると語っておられたからです。アブラハムは、この神様の約束を信じて25年待ち続けたのです。けれども神様はそのイサクを捧げよと命じます。何とも理不尽な命令としか思えません。それも人をいけにえとして捧げることは、神様が禁じていることです。
 何故神様は、そんな命令をしたのでしょうか。神様には、「アブラハムを試練にあわせられた。(1)」とあるように明確な目的がありました。が、当のアブラハムはそんなこと知りませんから驚いたことでしょう。「そんなこと出来ません。自分の愛するひとり子を殺すなどできない。神様それは約束が違います。」と普通なら反論してしまうところです。アブラハムは、何が目的なのか、義なる神がどうしてこんなことを言うのか、いっそう逃げてしまおうか、と大いに悩み眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。

 アブラハムの出した結論は、神様の命じられる通りに従うことでした。アブラハムは、神様の命令に従うことが何よりも重要であることを知っていたのです。また、彼は、神様の祝福の約束はどこまでも真実であり、神様の約束は必ず実現することを信じていたのです。たとえイサクを捧げよと命じられてもイサクが約束の子であることは事実でした。アブラハムは、イサクが決して失われることはないと信じて主に従ったのです。だからヘブル人への手紙の著者は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。(ヘブル11:19)」と言っているのです。
 ここに、神様を信じてどこまでも従ったアブラハムの信仰を見ることが出来ます。アブラハムは、大きな試練に直面してもそれを信仰によってとらえることが出来たのです。

 私たちが、試練を経験する時、このアブラハムの姿を模範としたいと思うのです。私たちは、いつも神様の言葉を聞き神様の導きの確かさを信じて歩みましょう。神様は、すべてのことを働かせて益としてくださいます。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる…。(ローマ8:28)」

Ⅱ;神様は見ていて下さる

 主の山には備えがあります。神様は、私たちが経験する試練など様々な状況を見ていて下さり、具体的に導いて下さいます。
 一晩中祈りつつ考えたアブラハムは、翌朝早く、自分で祭壇用の、自分の息子をささげるための薪を割って出発の準備をしました。そしてアブラハムは、ロバに薪を乗せ、イサクと2人のしもべを連れて出かけました。3日目に目的の場所が見えてきた時、アブラハムは、しもべたちをそこに残して、イサクと親子二人で神様の指定された場所に向かって行きました。この時のアブラハムの「礼拝して、あなたがたのところに戻って来る(5)」という言葉には、先ほど見た「神には人を死者の中からよみがえらせることも出来る」という信仰が現れています。
 二人は、歩いて目的の山まで行きますが、イサクは、一つの疑問をアブラハムに聞きます。「火とたきぎはあるのに、肝心のいけにえの羊はどうするのですか」アブラハムにとって「ドッキ」とする質問です。アブラハムは、この質問に対して神様が備えてくださるだろうと答えます。と言ってもアブラハムは、実際にその羊が山の上にいるとは思っていません。アブラハムは、神様の「イサクをささげなさい」という言葉をそのまま受け止めていたからです。けれども彼は、神様によってイサクを取り戻すことも信じていました。それがどのような方法かは分からないけれども、彼はその信仰を持って従ったのです。
 目的の場所に着きアブラハムは、祭壇を築いて薪を載せ、イサクを縛ってその上に乗せます。この時、イサクはすでに12-15歳だったと言われています。イサクは、老年のアブラハムに抵抗して、逃げ出すことが出来ました。けれどもイサクは抵抗することなく、逃げ出すことなく縛られたのです。アブラハムは、神様の命令をイサクに伝えたことでしょう。イサクは、この時、神様の命令に従うこと、父の信仰に従うことを選びました。イサクは父アブラハムに習い、従順な信仰を持っていたのです。

 すべての準備が整い、アブラハムは覚悟を決めて、いざ、刀を振り上げてイサクをほふろうとした時です。主の使いが声をかけ(11)、イサクに手を下してはいけないと止めにはいるのです。「わかった、わかった、アブラハムよ。お前が神を恐れることがよく分かった。ひとり子さえ惜しまずささげた。だからもうよろしい、イサクをほどいてやりなさい。殺してはいけない。」神様はアブラハムの従順な信仰、主を恐れ、へりくだる信仰が確かであることを認めくださいました。神様は、イサクの身代わりのささげものを用意していました。藪に角をひっかけている1頭の雄羊でした。アブラハムは、イサクの代わりに、この雄羊を全焼のいけにえとしてささげました。神様は、アブラハムの従順な信仰をご覧になり、イサクを生かして祝福してくださったのです。このことのゆえにアブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」と呼びました。「主の山には備えがある」は、アブラハムの信仰を表す代表的な言葉です。

 「人生山あり谷あり」と言います。私たちは、試練や問題を経験する時、それを「乗り越える」と表現します。私たちにとって試練は、まさに大きな山に挑むようなものです。試練のただ中にいるとき、頂上が見えず、果たして乗り越える事が出来るのだろうか不安になるのです。けれども私たちは、様々な助けを受けて試練を乗り越える事が出来ます。試練という山の頂上は、一番辛く大変な状況と言うことが出来るでしょうか。私たちは、多かれ少なかれそのような山をいくつか乗り越えてきたことでしょう。どうして乗りこえる事が出来たのでしょうか。それは、神様が、私たちを見ていて下さり、試練の頂上で必要な備えを与えて下さったからではないでしょうか。神様は、私たちの人生のすべての場面で共にいて下さり、具体的な導きを示して下さるのです。私たちが信仰を持って主を見上げるならば、主の備えを知ることが出来て、主の恵みを経験することが出来るのです。
 パウロも言っています「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます(Ⅰコリント10:13)」。皆さんは、これまで何度「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」と告白してきたでしょうか。これからも私たちは、事あるごとに「アドナイ・イルエ」と告白し、主を賛美しながら歩めるのはなんと幸いなことでしょうか。

Ⅲ;救いの計画

 主の山には備えがあります。神様は、救いの計画を明らかにしておられます。それが創世記22章15-18節の言葉です。アブラハムがひとり子を捧げると言う事は、父なる神様がひとり子イエス・キリストを罪のためのいけにとする事とが重なるのです。
 神様は、アブラハムを引き留め、イサクの代わりに1頭の雄羊を用意しておられました。神様は、私たちのためにひとり子イエス様を備えていてくださいました。実は、神様がアブラハムに示した「モリヤの山」は、後のエルサレムだと言われています。そこにダビデによって祭壇が作られ(Ⅰ歴代誌21:14-30)、ソロモンによって神殿が建てられました(Ⅱ歴代誌3:1)。と言う事は、モリヤの山は、イエス様が十字架にかけられた場所なのです。アブラハムへの試練は、神様の救いの計画がどのようにして成就するのかを予告する、神様のメッセージでもあったのです(ヘブル11:19)。
 神様は、アブラハムがイサクを捧げようとした時、それを止め、イサクの身代わりに雄羊を用意してくださいました。神様は、私たちの罪の身代わりのためにも小羊を備えてくださいました。それがイエス・キリストです。イサクは、ほふられる前に、主の介入によって助けられましたが、イエス様の場合、中断はありませんでした。それを思うと神様は、アブラハムの姿をどんな気持ちで見ておられたのだろうかと思うのです。神様は、愛するひとり子を全焼のいけにえとするアブラハムの心の痛み、悲しみをご覧になっていました。それでもじっとアブラハムの行動を見ておられたのです。そこには、やがて人類の救いのために神様ご自身が経験するだろう痛み、悲しみがあったのではないでしょうか。

 神様は、アブラハムに「イサクに手をくだしてはいけない」と言われました。けれども神様は、私たちの罪の身代わりとして、ひとり子イエス様を十字架につけることを途中でやめることをしませんでした。イエス様は、私たちの罪のために十字架が死んで下さいました。しかし神様は、イエス様を3日目によみがえらせて、救いが確かであることを示して下さったのです。イエス様は、今も生きていて私たちの罪を赦し、祝福を与えて下さるのです。
 主の山には備えがあります。神様は、私たちのために、救い主イエス様を備え、すべての罪の身代わりとしてくださいました。さらに神様は、私たちの人生のために必要な備えを用意していてくださるのです。私たちは、「アドナイ・イルエ」と告白して、信仰をもって主を見上げていきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、日々の様々な場面で試練を経験します。その時、神様はアブラハムを見ていて下さり、備えを与えて下さったように、私たちにも必要な備えを与えて下さることを信じます。そして何より、私たちのために救い主イエス様を備えて下さり感謝いたします。いつも「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」を告白して歩むことが出来るように導いて下さい。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」