2020年10月25日(日)礼拝説教 創世記28章10-22節「神は共におられる」

<子どもたちへ>
 先週は、ふたごの兄弟エサウとヤコブのお話でした。アブラハムの孫で、イサクの息子にあたる人たちです。神様の特別な祝福を、弟のヤコブが受け継いだ話でしたね。お兄さんのエサウは長男の権利を、一杯のおいしいスープと取り替えてしまいました。また、ヤコブは手に毛皮を巻いて、毛深いお兄さんのふりをして、お父さんをだましました。その結果エサウが激しく怒って、ヤコブを殺してやる!と言い出してしまったのです。今日はその先のお話です。

 夜道をとぼとぼと歩いている人がいます。これは誰でしょう?弟のヤコブです。「ああ、疲れたな。お腹もすいてきた。」ウウー、ワオーン!遠くで獣の鳴き声もしています。「あれは何の声だろう?自分を狙っているのかな?」ヤコブは不安で仕方がありません。「でもずるいことをして、エサウ兄さんを怒らせてしまったからな。家には帰れない…」実はヤコブは、エサウに殺されないようにと、お母さんの親戚のところに行かされたのでした。名目はお嫁さん探しですが、実際は夜逃げ同然に家を飛び出したのです。やがて日が沈んで、辺りが暗くなりました。まわりには町もなければ人もいません。当然泊まるところもありません。「仕方がない、今夜はここで眠ろう。」ヤコブは野宿することにしました。近くにある石をとって枕にして、そこに横になりました。安心して寝ることは出来なかったでしょう。こんな旅が一体何日続くのか…。不安で仕方がありませんでした。
 でも疲れていたヤコブは眠ってしまいました。そして夢を見ました。天まで届くはしごが下ろされています。そして天使たちがそのはしごを上り下りしています。つづいて神様がはしごの上に立ってこうおっしゃいました。「わたしはアブラハム、イサクの神、主である。この土地をあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は増え広がる。」そして今日のみことはです「わたしはあなたと共にいてあなたを守り、この地に連れ戻そう。あなたを決して捨てない。」そう言って下さったのです。

 ヤコブは目が覚めました。まだ胸がどきどきしています。「神様がいっしょにいて下さるのに、自分はそれに気付いていなかった。この場所は神様の家、天の門だ。」と言いました。ヤコブは小さい時から神様のお話しを聞いて信じてはいました。でも、本当に自分の側にいて守って下さる方だと、この時始めて知ったのですね。
 朝になると、ヤコブは枕にした石を柱のように地面にたてて、油を注ぎました。この出来事を忘れないよう、記念にしたいと思ったのです。そしてその場所をベテル(神の家、という意味)と呼んでお祈りしました。「この旅を守って下さり、無事お父さんの家に帰れるようにしてくださると信じます。私に与えて下さるものの十分の一のささげものを、必ず捧げます。」

 ヤコブはずるかったり、良くないことをしてしまったり、欠点が目立つ人でした。そんなヤコブに励ましと約束を下さる神様は、立派さでなく、ただ恵みによって人を取り扱ってくださるのですね。神様は私たちにも同じく恵み深い方です。この神様に信頼してお頼りしていきましょう。

<適用>
 10 月と言えば、最近はハロウィンが一般的になりました。しかしクリスチャンとしては10/31 の宗教改革記念日を覚えたいところです。ローマカトリック教会のと福音理解の形骸化を憂いたドイツの修道士マルチン・ルターが、信仰の戦いを始めた日です。95 か条の提題をヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付け、信仰のみによる救いが聖書の教えであると、教会に問いかけたのです。そこからプロテスタント教会が生まれてきました。救いは神の一方的な恵みであり、イエスへの信仰によってのみ義と認められる。この福音の根本理解を回復するために、ルターらは戦ったのでした。
 今日の箇所からも、人の立派さや清さによるのでなく、大きな恵みをもって人に働きかけて下さる神様が示されています。ご一緒に学んでまいりましょう。

1.働きかけて下さる神様(10~15 節)

 ヤコブは策略によって、アブラハムから続く祝福を兄と父から奪い取りました。その結果兄エサウの激しい怒りと殺意を引き起こしてしまいます。母リベカは兄弟間の惨劇を恐れて、ヤコブを故郷ハランに逃がそうとします。28 章では父イサクが嫁取りを命じてヤコブを送りだします。その時の祝福の言葉が4節にあります。「神がアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、お前と共にいるお前の子孫に与え…」とあって、イサクもアブラハム契約が弟のヤコブに移ったことを認めているのが分ります。イサクの気に入っていたのはエサウでしたが、神の計画がヤコブにあることを認めざるを得なかったのです。弟ヤコブが選ばれた理由はわかりません。彼が立派な人物だったかと言えば、疑問が残ります。神様の主権による選びであって、人間にはその理由は分からないこともあるのです。

 そんなヤコブが旅路につきました。恐らく40 代前半と思われますが、過保護なほど母に守られてきたヤコブです。孤独と不安の中にいたことでしょう。急がなければエサウが追いかけてくるかもしれない。慌てて飛び出したのでしょう、天幕も十分な旅装も携えていなかったようです。アブラハムのしもべがイサクの嫁取りに遣わされた時、十頭のラクダを連れ沢山の荷物を携えていたのとは大違いです。彼は日が暮れて、石を枕に無防備な野宿をするしかなかったのです。その状況で眠れたのは凄いなと思いますが、彼は夢を見ました。
 天と地の間に梯子が立てられ、御使いが上り下りしているのです。この光景は神の働かれる領域が天だけでなく、地に住む人間の日常の中にもあると示しているようです。神様が遠い別世界にいるあなたをように思ってしまうのが人間ですが、むしろご自身の方から人間に働きかけて下さるお方です。13 節をご覧ください。「主がその上に立ってこう言われた」とあります。新改訳第三版では「主が彼のかたわらに立っておられた」と訳されています。恐れと不安、しでかしたことへの後悔もあったかもしれないヤコブに神様が語りかけて下さったのです。13~14 節はアブラハムからの祝福の約束の確認です。更に15 節でヤコブを守るとの励ましの言葉を下さったのです。

 わたしたちがどこにいても、どんな境遇の中にあっても、神様はご存知です。その上で共にいてくださり、あなたを守る、とお約束してくださいます。決してあなたを見捨てないと仰せです。決して完璧でもなく立派でなくても、神様の選びに関係ありません。神様は選んだものをとことん愛して守って下さるお方です。ヤコブの見た梯子は、天の神さまと地なる人間が結びつけられることの象徴です。近づいてくださる神に感謝しましょう。

2.神と共に生きる決意を持つ(16~22 節)

 驚くべき夢を見て、ヤコブは夜明け前に目覚めたようです。恐れおののいていたとあります(17 節)。ヤコブにとっての神様とは、父イサクの神であり、祖父アブラハムの神だったことでしょう。幼い時から敬い信仰してきのは疑いないことです」。しかし、ヤコブ自身が神との交わりを持つことが出来る、とは知らなかったのです。それなので「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった」と言っているのです。彼は枕の石を柱として立て、油を注いで聖別しました。彼はこの神との出会いを絶対に忘れてはいけない、記念碑を立てねばならない、と思ったのでしょう。その場所をベテル(神の家)と名づけました。
 皆さん、ご自身の神様との出会いはいかがでしょうか。おそらくお一人ずつの、出会いの証しがあるのではないでしょうか。ベテルの石を立てたヤコブのように、信仰告白の祈りをした日があったでしょう。洗礼を受けた日があったでしょう。信仰の戦いもあったでしょう。これからも折々に、神様の導きと御声を近くに感じさせられる時があると思います。そのひとつ一つを忘れないでいたいと思います。忘れやすいからこそ、言葉にし行動にし、はっきりと証しを立てて行こうではありませんか。
 ヤコブは誓って祈ります。「神様がお言葉通りに自分を守り父の家に帰らせて下さるならあなたは私の神となり、この石は神の家となります。与えられたものの十分の一は必ず捧げます。」守って下さるなら信じます、と条件を付けているようにも聞こえます。しかしヤコブの精一杯の信仰の応答だったのでしょう。父の神、祖父の神から、「わたしの神」に変わっていく場面です。約束を握りしめて神に信頼し、神と共に歩む決心が感じられます。

 神様とどこまでも共に歩んで行くのだ、という決意が私たちには必要です。では今の時代、どうやって神と共に歩めるのでしょうか。みことばを読むことによって神の語り掛けを受けることが出来ます。他の誰でもない、私に語っておられる御言葉として受け止めたいと思います。また祈ることによって心を注ぎ出すことが許されています。この双方向の営みによって私たちは主と交わらせて頂けるのです。一方通行にならないように気をつけることが必要です。

<結論>
 日々の信仰生活の中で、賛美のいけにえ、十分の一のささげ物、生活全体での証しを実践していきましょう。こうした営みを通して、信仰生活は絵空事でなく実態のあるものとなっていきます。ヤコブが決意を固めたように、私たちも神と共なる歩みをするのだ、と思いを新たに致しましょう。祝福の実現を信じ期待して、励んでまいりましょう。

<祈り>
 神様。あなた様が遠い世界に離れている神でなく、人間に働きかけ近づいて祝福してくださる神であることを感謝します。自分自身に語り掛けて下さることを信じて、みことばを聞いてまいります。恵みの主に信頼し、最善の応答をしていけるようお導き下さい。