中心聖句:詩篇51篇17節
「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれ心。神よあなたはそれを蔑まれません。」
<子どもたちへ>
皆さんは、苦手な人や苦手なことがありますか。「学校は楽しいけれど、テストは嫌だなぁ」と感じたことがあるでしょうか。学校で、苦手な人に会わなければならないと言う事があるでしょうか。僕たちは、嫌なことや友だちとの関係で嫌な気持ちになると言う事があります。そんな時、どうしたらよいでしょうか。何とかそのような状況にならないようにしたり、友だちとの距離を取るということもあるでしょう。けれども僕たちは、いつも苦手な人や嫌なことを避けることが出来ません。
今日の聖書に出て来るヤコブは、逃げ出したい気持ちを持っていましたが、神様によって勇気を与えられ、前に進むことが出来ました。
ヤコブのことを覚えていますか?お父さんのイサクをだまして長子の権利である祝福を奪いとったのでしたね。そしてお兄さんのエサウにうらまれて、家にいられなくなって、遠くにいいる叔父さんの家に行くことになったのです。その旅の途中、ヤコブは夢の中で神様の約束を聞きました。それが先週の話でした。今日は、それから20年後のことです。ヤコブは、神様の導きによって、故郷に帰ることにしたのです。是非、あとで創世記29章から31章までを読んでくださいね。
ヤコブは、やっと自分の家、故郷に帰ることが出来るのです。しかし、そこには大きな問題がありました。ヤコブの故郷には、とても苦手な人がいるのです。そうヤコブを殺したいほどうらんでいたエサウ兄さんです。20年経ってもこの問題は、解決していませんでした。聖書を読むと神様は、ヤコブを励まし続けてくださっていました。そこでヤコブは、使いを出してエサウ兄さんに帰っていくことを伝える事にしたのです。すると使いの者が、驚くべき報告を持って帰ってきました。「使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。『兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。』(創世記32:6)」なんとエサウは、400人を連れて迎えに来ると言うのです。皆さん、エサウは野の獣を捕る猟師です。と言う事は武器を持っています。
ヤコブは、家畜を飼うので戦いの武器は持っていません。ヤコブにも召使いはいたでしょうけれども、エサウの一団には勝てないのです。大ピンチです。「これは困った。」とヤコブは、不安と恐怖に震え上がり、神様に祈りつつあれやこれやと色々考えました。「そうだ、兄さんに贈り物を上げよ。」「まず、雌やぎ200匹、次に雄やぎ20匹、そして雌羊200匹、雄羊20匹。それでは足りないか?乳らくだ30頭とその子、雌牛40頭、雄牛10頭、さらには雌ロバ20頭、雄ロバ10頭。これだけ贈り物をすれば兄さんの気持ちも和らぐだろうか?」ヤコブは、440匹と110頭の家畜(合計550)をプレゼントとして差し出すのです(創世記32:13-21)。けれどもそれでも安心は出来ません。ヤコブは、家族を二つに分けて自分は、エサウから一番遠くにいるようにしたのです。でもそれでもヤコブは、心配で、恐ろしくて逃げ出したい気持ちでいました。そうこうしているうちに、エサウに会う前日になってしました。
怖くて仕方の無いヤコブは、夜一人静まる時間をとりました。すると、突然ある人が現れ、ヤコブはその人と一晩中格闘しました。実はその人は、神様でした。ヤコブは力一杯戦いますが勝負はつきません。すると神様は、ヤコブの股関節(ももの関節)を打って外します。足に力の入らないヤコブですが、それでも手を離そうとはしませんでした。ヤコブは、祝福してくださらなければ手を離さないとしがみつきます。こうしてヤコブは、神様の祝福を得ることが出来、名前も「イスラエル」に変えられました。ヤコブは、この夜中の格闘によって自分の力に頼るのではなく、神様に頼ること、神様がともにいてくださる事を知ったのです。ヤコブは、もう恐れはなく、一番後ろから一番前に移動して、エサウに近づいて行きました。
皆も、嫌なことや苦手な人など色々なことを経験するでしょう。その時に、神様は皆に力を与えて、励まし、力づけてくださる事を覚えていてください。神様が皆と共にいてくださいます。神様に頼る時、安心することが出来ます。
祈り
「天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヤコブは、怖くて不安で逃げ出したい気持ちでいました。しかし神様は、ヤコブを励まし、力づけてくださいました。ヤコブが神様を信頼した時ヤコブは平安を与えられました。僕たちも不安なこと嫌なことがあるとき、神様に祈って力を頂けることを感謝します。神様がいつも一緒にいてくださる事を信じます。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。」
<適用>
10月31日は、マルチン・ルターによって宗教改革が行われたことを記念する、「宗教改革記念日」でした。ルターは、ローマ・カトリックの司祭として働いたいましたが、どうしたら魂の救いを得ることが出来るのだろうか探し続けた人でした。そして当時、「免罪符」を買えば罪許されると言う事に葛藤を覚えたのです。そのような葛藤の中でルターは、信仰による救いという神様の恵みを知ることとなりました。まさに葛藤が希望に変わり、ルターは、信仰義認という真理を見いだしたのです。
ヤコブは、叔父ラバンの所に逃げ、20年を過ごしました。この20年の間ヤコブは、神様の訓練を受けることとなりました。そのことは、今回省略します。是非創世記29章から31章までを読んでください。いよいよヤコブは、神様の導きの中で故郷に帰ることとなりました。32章では、決意して前進するヤコブの心の移り変わりを見る事が出来ます。そこには、もがき苦しむ心の葛藤から主にある希望に変えられる様子が現れています。
Ⅰ;心の葛藤(1-12)
まず、ヤコブの心にある葛藤を見る事にしましょう。
①エサウと会う
ヤコブは、ラバンと別れ一路故郷への道を進みます。しかし、ヤコブが故郷に帰るということは何を意味しているのでしょうか。そこには、生まれ故郷、家族のいる家に帰るという懐かしの我が家があります。しかしその故郷には、父もいるけれどもエサウもいるのです。故郷に帰るという事は、兄のエサウとも会わなければならないということです。これは避けて通ることの出来ない最大の問題でした。ヤコブは、恐れ迷いますが、前進するしか道は残されていないのです。1-2 節は、そのような葛藤と恐れを持って旅を続けるヤコブに対する神様の励ましです。ヤコブは、神の使いたちの陣営が自分を取り巻いているのを見ることが出来ました。神様からの「恐れる必要はない」というメッセージであり、ヤコブは、再び神様によって力づけれて道を進みます。
②さらなる葛藤
けれどもヤコブの不安が解決されたわけではありません。エサウへの恐れは残りました。そこでヤコブは、エサウに使者を送って、ヤコブのエサウへの後悔の念を現している言葉を伝えます(4-5)。その結果は、さらにヤコブをがけっぷちに追い込むこ事になりました。なんとエサウは「400 人を連れてくる」というではありませんか。出迎えるには多すぎる人数です。何故400人も連れてくるのでしょうか。ヤコブは、大きな衝撃とともに少しでも助かるために、すぐに自分の群れを二つの宿営に分けます。
そして、主に祈りました。9-12 節。この祈りの中にヤコブが抱えていた矛盾と葛藤があることに気づくでしょうか。私なりにまとめると次のようになります。「神様、あなたは私に生まれ故郷に帰れと命令されました。そして私とともにいると約束までされたではありませんか。言われるままに故郷を目指して進んでいます。そしてアブラハムに与えられた約束のように、私を幸せにし、子孫を増やすと契約を与えてくださったではありませんか。けれども今、私は窮地に立たされています。どうかエサウの手から私を助けてください。」。ヤコブの心には、「神様の導きの通りにしていたのに何でこんな事になるのだろうか。神様の守り、約束はどこにあるのだろうか。」という気持ちがいっぱいでした。
③私たちの場合
私たちもヤコブと同じように、矛盾と思えることがあります。神様を信じて歩んでいるのにどうしてこんな事になるのか。神様は愛の神と言うけれども、なぜこの世に愛がないのか。どうして自分だけ苦しみを受けなければいけないのかと思います。しかし私たちが葛藤を覚えたり、矛盾を感じる時、その多くは、神様からの恵みを忘れている時に感じることが多いのではないでしょうか。私たちが、多くの事柄の中で神様を見失う時、心の安定を失います。ヤコブは、私たちと同じように、「神様どうしてですか?」と思いました。しかし彼は、祈りのうちに共にいてくださっている神様を意識するのです。私たちは、ヤコブの祈りの中の10 節の「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。」の言葉を心にとめましょう。この告白は、私たちの得る全てのものは、神様からの恵と真実であるということです。私たちがどのような状況、どのような道を通るとしても、私たちは受けるに足りない者なのに、神様の私たちに対する恵みと真実は常に注がれているのです。
Ⅱ;砕かれた人生(22-32)
①苦肉の策
ヤコブは、葛藤を経験し、祈り、神様が希望を与え導いてくださることを経験しました。しかしそのために、ヤコブは、神様の前に砕かれ、謙遜になることをさらに学び、変えられなければなりませんでした。
主に祈ったヤコブが次に考えた事は、エサウに贈り物を届けることでした。ヤコブは、神様に祈りつつ自分の出来る最善の事、自分の力で出来ることを考え出して行動していました(13-21 節)。彼は、合計すると550頭もの家畜を用意し、それを一群れずづ贈り物としました。それはエサウの心を何としてもなだめ、ヤコブ自身がエサウのしもべに過ぎないという印象を与えるためです。ヤコブは、神様が共にいてくださることを確認したはずです。また祈りの中で神様の恵みとまことがあることを告白したのです。けれどもヤコブの心には、まだ恐れがあり、不安があり、神様に委ねきることの出来ない思いがあったのです。私は、このヤコブの姿を見ると、ヤコブという人は、本当に人間味あふれる人物であると思うのです。だからこそ私たちは、神様がヤコブを取り扱うことをみて、自分への取り扱いだと知ることが出来るのではないでしょうか。
②神との格闘
ヤコブは、いくら知恵を尽くしても、多くの贈り物を用意しても、それらの物はヤコブに平安を与えませんでした。ヤコブは、自分の力や自分の財産は、心に平安を与えることがないという現実を知るのです。眠れないヤコブは、家族が安全に川を渡れる夜のうちに渡らせました(創世記2:22)。そしてヤコブは、一人ヤボクの渡しで残り、祈のです。すると突然、ある人がヤコブの目の前に現れ、ヤコブはその人と格闘する事となりました。後で彼は気づくのですが、その人は、神様でした。ヤコブは、その人に負けないように一生懸命格闘しました。その人は、ヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがい(股関節)を打ちます。この格闘の中でヤコブは、神様から新しい名前と祝福を頂くことが出来ました。また、彼は自分の自我が砕かれるのを経験するのです。
このペヌエルの経験は、ヤコブの人生にとって最大の転機となりました。神様は、ヤコブの葛藤、悩みをご覧になり、励ましと力を与えようとされたのです。ヤコブは、自分の力で格闘し、最後まで自分の力に頼っていたのです。一方神様は、ヤコブが負けてしまはないように力を抑え戦われました。そしてヤコブの自我を打ち砕くために、股関節を打ったのです。神様は、ヤコブが自分の力で立つのではなく、神様の前にへりくだり、祝福を受け、主によって立つ時に、本当の平安を得る事が出来ることを教えられたのです。「神と戦い、人と戦って、勝ったから」というのは、神の人と戦って負けなかった。そして神様の祝福を勝ち取ったということです。彼は太陽に照らされながら出発しました。これは、ヤコブの自我が砕かれ、主の約束と平安に満たされた喜びと希望を現しているような表現です。
③名は、イスラエル
ヤコブは、この格闘の中で「イスラエル」という名前をもらいました。その意味は、「神と戦う者」と言う事になります。そしてそれ以上に、「神が戦われる」という意味があります。ヤコブは、恐れと不安という葛藤を何とか解決したいと願っていました。そのヤコブが知らなければならなかったことは、神様が戦われると言う事でした。神様は、ヤコブを祝福し、約束と恵みを与え、守ると言ってくださったのです。その神様が、確かにヤコブを導き守り、支えられることを知り、ヤコブは神様の御前にへりくだることが必要だったのです。そのために、彼は、このペヌエルで砕かれる経験をするのでした。人は、苦しみを通るとき、特に聖書の言葉とは矛盾と思えるような状況を経験する時、実に多くの事を学びます。私たちは、葛藤や矛盾を通り、自分の足りなさ、自我、傲慢さ、弱さを知るのです。と同時に私たちは、神様の前にへりくだること、砕かれることを学ぶのです。なぜならば、神様に喜ばれ、受け入れられるのは、「砕かれた魂。砕かれた悔いた心。(詩篇51篇17節)」だからです。言い換えれば、私たちが自分の弱さ、足りなさ、傲慢さ、自我を認めなければ、主の前にへりくだることも砕かれることもないと言う事です。主の前に砕かれる時、私たちは痛みを経験しますが、神様から大きな祝福と平安を頂くのです。
Ⅲ;まとめ
ヤコブの葛藤は、兄エサウに会うという言い知れない恐怖でした。神様の言葉の通りにした結果の事であることがヤコブを悩ませました。大きな葛藤の中にあって、ヤコブは主に祈ります。自分の知恵を尽くして策を練っても平安はありませんでした。最終的には、神様がヤコブに現れてくださり、ヤコブの自我を砕き、主に信頼して歩む事を教えます。ヤコブは、神様から多くのことを教わり、主にある平安を受けて前進することが出来ました。暗い、出口の見えない葛藤から、神様の光に照らされる希望へと変えられたのです。ヤコブを支え、力づけた神様は今でも私たちをご覧になり、支えてくださるお方です。私たちは、心砕かれへりくだって神様の力、神様にある平安を受けて歩みましょう。そこに、主にある希望があります。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、ヤコブと同じように様々な葛藤を経験します。そして恐れたり、不安になったり、神様の導きが分からなくなることがあります。そのような時、神様は私たちに御手を差し伸べ、取り扱い力づけてくださることを感謝致します。神様に信頼して見上げて歩むとき、私たちは平安が与えられ、主にある希望が与えられることを感謝します。私たちの歩みを祝福してください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」