2020年11月22日(日)礼拝説教 創世記42章1-17節「神の良き計らい」

<子どもたちへ>
 ヨセフがエジプトで、奴隷から総理大臣になったお話を先週聞きました。不思議な夢を見たり、王様の夢を説き明かしたり、ヨセフには夢がつきものでしたね。今日は最初の夢が実現したお話です。
 カナンの地にはお父さんのヤコブと兄弟たちが住んでいました。そこも、エジプトも、食べ物が全くとれないで激しい飢饉(ききん)になりました。お父さんは兄弟たちに、エジプトに行って食べ物を買ってきておくれ、と言いました。そこでエジプトに行き、えらい人の前にひれ伏して、「食べ物を売って下さい」とお願いしました。でもそこにいたえらい人とは…そう、総理大臣になったヨセフだったのです。ヨセフにはお兄さんたちが分りましたが、お兄さんたちは気が付きません。ヨセフは「あの夢が実現した」と思いました。

 ヨセフは言いました。「お前たちの家族はどうだ?」「はい、年取った父と弟がおります。」するとヨセフは「お前たちはスパイだな、もし違うというなら弟を連れて来るのだ、話しが本当かどうか、それでわかる。」と命じました。シメオン兄さんが人質として残り、他の兄弟は家に帰りました。話しを聞いたお父さんはびっくりです。「ベニヤミンを連れていくだって?とんでもない、ベニヤミンまで災いが起きたらどうするのだ!」それで人質を迎えに行くことも、もう一度食料を買いに行くことも出来ませんでした、
 時が過ぎて、また食べ物がなくなってしまいました。ユダ兄さんがお父さんに言いました。「お父さん。ベニヤミンは私が責任をもって連れ帰ります。エジプトに連れていかせてください。」仕方なくお父さんはベニヤミンも送り出しました。
 エジプトに行った兄弟たちはヨセフの家に通されて、食事のもてなしを受けました。仲の良かったベニヤミンが来たので、ヨセフはこっそり嬉し涙を流しました。でも次の日、ヨセフは兄さんたちをテストすることにしました。まじない用の銀のカップをベニヤミンの袋にこっそり入れて、泥棒の疑いをかけたのです。
 食料を買ってエジプトを立った兄弟をヨセフの家来が追いかけて来ました。「待て待て!ご主人の銀のカップを盗んだろう!」そう言われて荷物検査をすると、なんとベニヤミンの袋からそれが出てきたのです。「知らないよ!やってないよ!」ベニヤミンは必死に否定しましたが、奴隷にされることになってしまいました。

 ヨセフの前に引き出されてユダ兄さんが言いました。「私は弟を必ず連れ帰ると、年取った父に約束しています。私が身代わりに奴隷になりますから、弟を赦してやってください。」この言葉を聞いてヨセフはこらえきれなくなりました。兄さんたちは変わった。弟を見殺しにしたあの時とは違う人間になっている!そう分かったのです。
 大声で泣きながら「私はヨセフです。お父さんはお元気ですか?」といいました。兄弟たちは驚いて声も出ません。ヨセフは言いました。「私をここに遣わしたのはあなたがたでなく、神様です。わたしがお父さんと家族みんなを飢饉から守ります!」ヨセフは、弟ベニヤミンと抱き合って涙を流しました。またお兄さんたちをゆるして、一人ひとりに挨拶のキスをして抱きしめました。
 ヨセフは自分の苦労が、家族全体や民族が助かるための神様の大きなご計画だったと気づいて、怒りや悲しみを乗り越えました。私たちも神様のご計画に、「どうして?」と言いたくなる時があります。でも神様のご計画はいつも必ず良い目的があることを、思い出しましょう。時間がかかるかもしれませんが、神様のご計画を確信できる日が来るようにう、お祈りしましょう。そして、ヨセフのように物事を希望と確信をもって受け止められるようにして頂きたいですね。お祈りして行きましょう。

<適用>
 創世記には重要な人物が数人出てきますアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブなどがそうです。ここ数回学んでいるヨセフもそのひとりです。彼には14 章に渡って誌面がさかれ、その文量はアブラハムに匹敵します。それだけヨセフは重要な存在なのです。37~50 章はヨセフ物語と呼ばれ、ヤコブの「家族」がイスラエル「民族」として形成されていく大切な時期を描いています。
 前回までのところで、ヨセフがいかにして奴隷からエジプトの総理大臣にのぼりつめたかを見て来ました。一人の人物の劇的な出世物語ならば、そこで終わってもいいはずです。しかし、みなさん覚えているでしょうか?少年ヨセフが見た不思議な夢のことです。兄たちの麦の束がヨセフにお辞儀をする夢。太陽と月と11 の星がヨセフを伏し拝む夢です。これらの夢はどうなるのか。聖書はヨセフ物語の半分を、言わば夢の答え合わせに費やしています。ヨセフと家族との再会のストーリーを通して、神の計画なさったことがどのようなもので、何をもたらしたのかを学ばせて頂きたいと思います。

創世記50 章20 節
「あなたがたはわたしに悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました、それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」

1.夢の実現

 ヨセフに対する神のご計画は、彼やファラオが見た夢のままに、動き出していました。7 年間の大飢饉はカナンの地にいたヤコブの家族にも及び、彼らは生きるためにエジプトに食料を買いに行くことになりました。
 出かけて行ったのはヨセフの10 人の兄たちでした。末の弟ベニヤミンはヤコブが離さず、カナンに残っていました。42 章5 節にはこうあります。「こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。」彼らはアブラハム以来の祝福の民です。しかし、その他大勢の人たちと同じように時代の試練を受けなければならなかったのです。

 しかし、ありきたりな営みの上にも、神の御手は働かれます。兄弟たちのエジプト行きも、神のご計画の内にありました。到着した彼らは、総理大臣であるヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフはそれと気づき、あの夢を思い出しました。何十年もの時が経ちましたが、夢が確かに実現したのです。しかし、それをどう受け止めたらいいのか、ヨセフには分からなかったと思われます。
 権力者の顔をしたまま、兄たちを捉えて復讐するのはヨセフにとってたやすいことです。そうせずに一計を案じ、兄たちからシメオンを人質をとって、弟ベニヤミンを連れて来させようとしました。自分の苦難と痛みの半生にどんなご計画があったのか、知りたいと願ったのでしょう。

 私たちにとっても、神様のご計画が良く分からないことがあるかもしれません。見えていることだけでは、どう受け止めたらいいかわからないかもしれません。だからこそ、神様に求めて祈ることが必要ではないでしょうか。わたしへのあなたのご計画はどういうものでしょうか、どう受け止めたらいいのでしょうかと。表面からはわからない深い意味を、神様は持っておられます。神様に信頼して尋ね求めましょう。

2.取り扱われた家族

 シメオンが人質になったまま、時が経ちました。ヤコブが末の息子ベニヤミンを行かせようとしないので、エジプトに行くことができなかったのです。ヤコブにとってヨセフとベニヤミンは特別な子どもでした。4 人の妻の内の最愛の妻ラケルが生んだ息子たちだったからです。
 そのうちにヤコブの家族は最初に買って来た食料を食べ尽くし、またも欠乏に苦しんでいました。ついにヤコブはもう一度エジプトに買い出しに行くよう、息子たちに言います。しかしユダが父に言います。弟と一緒でなければ行くことは出来ないと。そしてユダは言います。自分がベニヤミンの保証人になる、責任をもって彼を連れ帰るので、任せてほしいと。ここまで言われてヤコブは神様にすべてを委ねる覚悟になりました。
 兄弟たちはベニヤミンを伴ってエジプトのヨセフのところに行きました。前回袋の口に入れられていた銀をまず返し、ヨセフから食事のもてなしを受けます。ここまでは平穏です。嵐の前の静けさです。

 あくる朝、ヨセフの再度のテストが行われます。まじない用の銀のカップをベニヤミンの袋に入れさせ、窃盗犯に仕立てたのです。ベニヤミンが奴隷とされる事態になってしまいました。ヨセフは兄たちの反応を見ようとしたのでしょう。昔と変わっていなけれは、ヨセフの時のようにベニヤミンを見捨てるでしょう。父の悲しみへの思いやりも見られないことでしょう。
 ヨセフの前に引き出された兄弟たちのうち、ユダが進み出て言いました。年老いた父が末の弟を溺愛していること、弟が戻らなければ父は悲しみの余り死んでしまうと思われること。そして言いました。「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)。自分が身代わりになるからベニヤミンを赦してくれ、と申し出たのです。なんという変化でしょうか。
 ユダの姿は後の子孫に受け継がれていきます。「ユダ族から出た獅子」(黙示録5:5)と呼ばれるお方、すなわちイエス・キリストことです。この方こそ後の時代にお生まれになる救い主なのです。

 振り返ればヨセフは、エジプトの総理大臣になり長男マナセが生まれた時にこう言っていました。「神が私の全ての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」(41:51)。次男エフライム誕生の際には「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」(41:52)と言いました。少年時代の生みの家族のことはもう忘れた、エジプトで生きていくのだ、新しい人生を生きるのだ。そう思おうとしていたのでしょう。しかし神のご計画は、ヨセフから肉親を奪いさるものではありませんでした。むしろヨセフを、契約の一族を救う選びの器とするところにありました。だからこそ、もう一方の当事者である兄たちにも、取り扱いの御手を伸ばしておられたのです。大きなご計画を受けとめられるように成長させて下さるのが神様です。
 もし私たちが、神様のご計画に痛みや悲しみを感じるとするなら、受け止められるよう、時間をかけて成長させて頂く必要があります。自分も他者も、神様は取り扱って下さいます。その取扱いを経てはじめて、私たちは通らされた試練の意味を悟るのですね。神に委ねさせて頂き、お取り扱いを求めて参りましょう。

3.ヨセフの確信

 兄の取り扱われた姿を目の当たりにしたヨセフはもう、権力者の仮面をそのままにしていることは出来ませんでした。兄弟たち以外を人払いし、大声で泣きました。そして「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」(45:4)。45 章はヨセフ物語のクライマックスです。是非全体をお読み頂きたいと思います。ヨセフはここに至って確信します。「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」(45:8)。

 特筆すべきは兄たちを赦すヨセフの姿です。45 章14,15 節を読みましょう。すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いたとあります。ヨセフの見た夢も、エジプトでの数奇な運命も、7 年間の豊作と飢饉も、兄弟との再会も、今一つにつながりました。神が大きなみこころの内に良き計らいを備えておられた。そのことを目の当たりにして、ヨセフは恨みと怒りのない態度を選び取りました。そして彼は、失ったはずの少年の日の家族を再び取り戻したのでした。彼にそうさせたのは、この試練は神の恵みのご計画だったのだ、という確信でした。父の家での安穏とした人生は失われましたが、実りある立場を得ました。それによって多くの人が飢餓から救われましたし、何より約束の選びの民、イスラエルが守られるために用いられたのです。ですから父ヤコブにも、家族を引き連れてエジプトに移住するよう伝えます。そこで皆を養い守ることを約束します。神のご計画とヨセフの心が一つにされた瞬間だったと言えるでしょう。

<結論>
 自分の人生を受け入れるのが、時として難しく感じられることがあります。しかし物事の背後には神の良き計らいが隠されていることをヨセフ物語は示しています。神様の選びの器として苦難を通されることもあるでしょう。けれども、決してくさらず、信仰を失わず、神の良き計らいを信じて参りましょう。確信に至り、感謝と賛美を携えて歩むことが出来ますように。