2020年12月13日(日)礼拝説教 ルカの福音書2章1-7節 「救い主の誕生」

中心聖句
 ピリピ人への手紙2章6-7節
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」

<子どもたちへ>
 「Merry Christmas(メリークリスマス)!」この時期になると世界中の人々が口々に言う言葉です。皆は、きっと大喜びで「Merry Christmas(メリークリスマス) ! 」と叫ぶでしょうね。皆は、「Merry Christmas(メリークリスマス)」の言葉の意味をしっていますか? 「Merry」という言葉は、「陽気な、楽しい」という意味あり、それで「おめでとう」と訳しています。「Christmas」は、「Christ(キリスト)」と「mass(ミサ)」が合わさった言葉です。「キリスト礼拝」という意味となるでしょか。救い主イエス様の誕生を喜び感謝し礼拝して、心からお祝いする思いが「Merry Christmas(メリークリスマス)」の言葉に含まれているのです。
 この喜びのクリスマスでお祝いする、イエス様の誕生の日は、どんな様子だったのでしょうか。

 マリアは、御使いの知らせを受けて、聖霊の力によって救い主を身ごもることになりました。マリアは、「神様には不可能なことはなにもない」と言うことを信じたのですね。マリアは、ヨセフと結婚する約束をしていました。マリアが、結婚する前にお腹の中に赤ちゃんがいると言うことを知ってヨセフは、とてもびっくりしました。思い悩むヨセフは、夢の中で御使いから「マリアから生まれる子は男の子で救い主である」という知らせを聞きました。ヨセフは、迷うことなく、マリアを妻として迎え、救い主の誕生の準備をしていきました。
 ちょうどそんな時、当時ユダヤ人たちを支配していたローマ政府から住民登録をするようにと言う勅令(命令)が出されました。普通なら、住んでいる場所で登録するのですが、ユダヤ人たちは自分たちの先祖の町に行って住民登録をすることとなっていました。ヨセフは、ダビデの血筋だったので、ダビデの町のベツレヘムに行って登録しなければいけませんでした。

 この時の登録にヨセフはマリアを連れて行ったのです。お腹の大きいマリアにとっては大変な旅で、危険な旅となります。車のような乗り物はありませんから、歩いて移動することとなります。道は、平らな道だけではなく、デコボコ道があったり、荒野を歩くということもあったでしょうか。とにかくヨセフとマリアは、ゆっくり進んだことでしょう。
 やっとベツレヘムに着いてみると、住民登録をするために集まっているダビデの子孫がたくさんいて泊まれる宿屋がありませんでした。ヨセフとマリアが、ベツレヘムに滞在している間に、マリアは、男の子を産みました。そして布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。そう、マリアが泊まっている場所は、家畜小屋でした。そしてイエス様は、生まれた時、動物の餌を入れる飼い葉桶に寝かせられたのです。聖書には、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあります。誰もイエス様を迎えることが出来なかったのです。

 ベツレヘムは、ユダヤの地域の中でも小さな町だと言われています。イエス様は、その小さな町の小さな家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝ておられたのです。イエス様は、子なる神様です。その神様が、人間となってこの世に生まれて下さったのです。そしてイエス様は、罪のない完全に正しい人間として生きられました。それは、僕たちの罪の身代わりに、罪に対する神様の裁きを受けるためです。イエス様は、僕たちに罪の赦しを与えて、救って下さるのです。
 イエス様が生まれた時、誰もイエス様を迎えることが出来ませんでした。今、皆の心にはイエス様を迎え入れる準備が出来ているでしょうか。救い主イエス様を信じ、心にお迎えして、心から感謝と喜びを持ってクリスマスをお祝いしましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、イエス様が僕たちのためにお生まれ下さったことを感謝します。イエス様によって罪が赦され救いを受けられる恵みを感謝します。イエス様を心にお迎えします。イエス様が、僕たちの心を満たして下さるようにお願いします。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>
 今は、12月25日をクリスマスとしてお祝いしています。が、イエス様の誕生された日は、何月何日かはっきりしていません。キリストの誕生日が12月25日とされたのは、紀元325年のことです。その当時の古代ローマの時代に太陽を崇拝するミトラ教というのがあり、太陽を神として礼拝していました。そして12月の冬至を境にして日が長くなっていくということから、太陽が力を取り戻す日として12月25日にお祭りをしていたのです。これに対してキリスト教会は、太陽を祝うならば、本当の義の太陽であるイエス・キリストを祝うべきであると主張しました。この日程にも色々と議論はありましたが、紀元325年にキリストの誕生日を12月25日と正式に決めたのです。そのうちに太陽神を礼拝するミトラ教は衰退して、12月25日は名実共にイエス様の誕生を祝う日として世界中に浸透していったのです。
 さて、救い主誕生についてもう少し見ていくことにしましょう。

ルカの福音書2章6-7節
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

Ⅰ;ダビデの町で

 救い主は、ダビデの町でお生まれになりました。マリアが身ごもり、ヨセフとマリアが出産に向けて準備をしているちょうどその頃、住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストゥスから出されました。当時のユダヤの国は、ローマ帝国の属州として支配を受けていました。この勅令が出された年代を特定することは困難のようです。住民登録は、徴税や徴兵のためのものと言われていますから、ローマの支配の及ぶ全ての地域で行われる必要があります。と考えると、一つの勅令であっても、広大なローマ帝国の全地域で実行するためには相当な時間を必要としたと予想出来ます。しかもローマ人ならば、居住地での登録でしたが、ユダヤ人たちは先祖の町での登録となります。ですからこの住民登録は、数年かかったのではないかと思われます。

 こうして、ダビデ王の子孫であるヨセフは、妻のマリアを連れてベツレヘムに行くことになりました。ヨセフたちがベツレヘムに行った時、妊婦であるマリアは、出産の直前だったと思います。ナザレからベツレヘムまでは直線で約130km もあります。妊娠していたマリアにとっては相当つらい旅となったことでしょう。本当なら、ヨセフだけの登録で良かったのだと思いますが、彼は、マリアを連れて行きました。それは、マリアをナザレに一人残したら、人々の非難の的になってしまう可能性があったからです。もう一つの理由は、ヨセフがマリアの出産に立ち会うためだと思います。きっと彼らは、「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」の御言葉に励まされながら旅を続けたのではないでしょうか。
 こうして過酷な旅をしてやっとベツレヘムに到着しますが、なんとベツレヘムでは、どこの宿屋もいっぱいで泊まるところがありませんでした。結局落ち着いた所は、家畜小屋でした。当時の家は、家畜小屋も家の一部であり、家畜小屋と台所と寝室が隣り合わせであったとも言われています。また、1階が家畜小屋で2階が住宅というケースもあったそうです。また「宿屋」と訳されている言葉は、「客間」という意味があります。これらのことを考えると、人の住居部分や客室には、ヨセフとマリア、そしてイエス様の居場所はなかったと言う事です。二人がベツレヘムに滞在している間に、家畜小屋でマリアは男の子を生みました。神様が預言者を通して預言しておられた通りとなりました。

 このベツレヘムはイスラエルの王ダビデの生まれ故郷です。ダビデは、ベツレヘムで生まれ、ベツレヘムでイスラエルの王として選ばれました。そしてイエス様は、すべての人の救い主としてベツレヘムでお生まれになりました。その誕生はひっそりとしていました。人々に知られないでベツレヘムに入り、賑やかな町の片隅で人類を罪から救う、救い主が生まれるという静かな出来事でした。

 さて、今日一つ目に心に留めたいことは、「私たちの心にイエス様の居場所があるか?」と言う事です。私たちは、日々忙しく生きているかもしれません。私たちは、仕事でも家庭でもプレイベートでも何かとやるべき事が多くあります。私たちの頭も心も日々やるべき事で一杯になり、追い立てられると言う事があるかもしれません。立ち止まって考えましょう。「私たちの心の中に、イエス様の居場所はなくなっていませんか?」イエス様がベツレヘムでお生まれになった時、誰もイエス様を迎える事はありませんでした。私たちは、毎日救い主イエス様を心にお迎えして歩みましょう。

Ⅱ;私たちの救い主

 ベツレヘムでお生まれになったイエス様は、私たちの救い主です。イエス様がお生まれになるということは、旧約聖書で預言されて来た事柄です。
聖書には救い主について、生まれる場所についてなど細かく預言されていて、イスラエルの民は祈り待ち望んでいました。救い主が来られる準備は、神様によって万全に準備されて来ました。けれども出産について神様は、準備を忘れてしまったのでしょうか。
 ヨハネ1章には、イエス様が神であったとあります。またイエス様は、光であり、いのちであると言われています。イエス様は、子なる神様なのです。ならばそれに相応しい場所を用意してもよさそうなものです。実際はどうだったでしょうか。神であり、救い主であり、私たちにいのちを与える方は、宿屋には居場所がなく、家畜小屋で生まれ、ベッドではなく家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かせられていました。すべてのことを支配しておられる神がどうしたことでしょうか。
 多くの人は、出産のために万全の準備をするでしょう。病院の手配、産後子どもが安心して生活できるように可能な限り用意をします。それが普通でしょう。ヨセフとマリアも準備をしていました。しかしそれは、自分たちの住まいのあるナザレでのことです。彼らは、ベツレヘムに行くことなど考えもしていなかったでしょう。しかし神様は、身重のマリアをベツレヘムに移動させるのです。もう少し早く移動させても良かったのではないかと思ってしまいます。

 しかもベツレヘムでイエス様のために用意された場所は、家畜小屋でした。王宮でも神殿でもなく、ましてや祭司の家でもなく、神様は、家畜小屋を用意なさったのです。これらのことは、救い主イエス様のご生涯を示し、イエス様のお姿を浮き彫りにしていると言えます。イエス様は全能の神であるお方なのに、神であることを捨ててくださり、私たち人間と同じようになられたのです。人としての性質を持ち、人間としてお生まれになりました。ピリピ2章6-7節。
 それは、私たちのためです。神様から見れば私たちは罪深い者であり、神様の怒りによって永遠の裁きへと定められていました。しかし神様は、私たち人間を見捨てることをせずに、救い主イエス様をお与えになったのです。罪人が、罪人の身代わりになることは出来ません。罪人の代わりになれるのは、罪のない人だけです。

 こんな話が「百万人の福音(2007 年)」で紹介されていました。ある人が「神であるイエスが、人として来られた」ことを信じることが出来ないでいました。何度聞いても、イエス・キリストが神であるけれども人となってこの世に来られたことを信じることが出来なかったのです。彼の家族は教会に通い、クリスマスには教会で礼拝をします。あるクリスマスの日の夜、家族が教会に入っている間、その人は暖かい暖炉の側で新聞を読んでいました。外は雪が深々と降っています。そのうちに、窓に「コツン、コツン」と何かが当たる音がします。雪の降る中、鳥たちが隠れ場所を探して、明かりのついている場所めがけて飛んできている音でした。鳥は、窓に体当たりをして地面に落ちてしまいます。何度もそれを繰り返し、鳥は弱っていきました。彼は、弱り果てた鳥を助けようと、小屋を開け誘導しようとします。しかし人間である彼が、鳥に近づくと鳥たちは逃げて行きます。餌をまいて小屋に入れようとしても駄目でした。弱っていく鳥を見て、その人はどうしたら鳥を助けることが出来るだろうかと考え、「人間だから怖がっている、自分が鳥になって仲間になれば助けることが出来る」そう思いました。その瞬間、彼は、何故神様が人間を罪から救うために、独り子イエス・キリストをこの世に送ったのかが、分かったのです。

 神様の前に罪ある人間の身代わりになれるのは、神様の前に罪のない完全に聖い人だけなのです。救い主イエス様は、完全な神であり、完全な人としてこの世に生まれて下さいました。そしてイエス様は、この世でただ一人父なる神様の前に罪のない正しい完全な人として歩まれました。そしてイエス様は、私たち罪人の代わりに神様の罰を受けて十字架に進まれたのです。
 イエス様は、小さな町ベツレヘムの片隅の家畜小屋という一番低い場所、誰も見向きもしない場所でお生まれになりました。イエス様は、人として歩み、私たちが経験する悲しみ、苦しみ、痛み、病、喜びなどすべてを知ってくださったのです。だからイエス様は、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与える事が出来るのです。そしてイエス様は、私たちの心に寄り添い、私たちを励まし、慰め、支え導くことが出来るのです。
 私たちは、クリスマスを大いに喜び、大いに祝いましょう。クリスマスは私たちのために救い主がお生まれになったことを感謝し、喜ぶ時だからです。私たちの救い主イエス様は、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになりました。心にイエス様をお迎えしましょう。イエス様は私たちの救い主です。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。クリスマスを迎えるアドベントの時を感謝します。神のひとり子であるイエス様が、人となってこの世にお生まれになったことを感謝いたします。ベツレヘムの町では、イエス様を迎える部屋はどこにもありませんでした。今私たちの心は、イエス様に対して開かれているでしょう。イエス様ご自身が私たちの心を点検してください。イエス様を心に迎え礼拝して歩ませて下さい。イエス様は、私たちの救い主です。イエス様によって私たちの罪が赦されることを心から感謝します。イエス様、私たちに寄り添い、みちびてください。
 神様、新型コロナウイルス感染が増え続けています。どうか感染を終息させてください。医療従事者を神様が守り祝福を与えて下さい。日本に世界に神様の恵みと憐れみが満ちあふれますように。クリスマスを迎えて、多くの人たちが救い主イエス様を知り、信じることが出来るように導いて下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」