2021年1月31日(日) ヨハネの福音書2章1-11節 「イエス様がおられる」

<子供たちへ>

 皆は、「すごいな、さすがだなぁ」と思う人が身近にいるでしょうか。僕は、中学生の時に音楽の先生に驚かされたことがあります。当時僕は、友達とバンドを組んでいたのです。そしていろいろなアーティストの曲のコピーをしていました。そんな時、初めて取り組む曲があって、バンドのメンバーの何人かがその曲を知らなったのです。そこでその曲の楽譜を学校に持っていき、音楽の先生に弾いてもらうことにしました。当然音楽の先生は、知らない曲だし、楽譜も初めて見るものでした。僕たちは、「先生に弾いてもらいたいんだけど」とお願いしてみました。すると先生は、初めて見る楽譜なのに、その曲を知っているかのように完璧に弾いてくれたのです。バンドのメンバーは、目を丸くして「さすが音楽の先生」と驚いていました。その時は、「先生すごいな」という思いと、「先生がいてくれてよかった」という気持ちで一杯でした。

 今日は、弟子たちが「イエス様すごい!」「イエス様がいてくれて良かった」という気持ちになった出来事を見ることにしましょう。
 先週は、アンデレやペテロ、そしてピリポとナタナエルがイエス様に出会った時のことを聞いたと思います。彼らの出会いから3日目、イエス様たちは、ガリラヤのカナという町で行われる結婚式にいました。イエス様のお母さんのマリアもいたことから、おそらく親戚の結婚式だったのだろうと思います。

 結婚式が盛大に行われている時に問題が発生しました。するとマリアは、イエス様のもとに駆け付けました。
 「イエス、ぶどう酒がなくなっちゃった。どうしましょうか。」お母さんのマリアは、イエス様に相談するのです。
 イエス様はそれに答えて「あなたとわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えたのです。一体イエス様は、何を言おうとしていたのでしょうか。皆は、こんな言われ方をしたらどうするでしょうか。「なんだよ」と怒り出すかもしれませんね。
でもマリアは、給仕係に「イエスの言うことは何でもしてくださいね」とお願いしました。イエス様の言葉の中には、おそら「大丈夫だよ。お母さん」という気持ちがあったのです。マリアは、その気持ちを読みとり、イエス様に任せておけば大丈夫と考えたのです。

するとイエス様は、「水がめに水を一杯にしなさい」と言われました。そこには、大きな水がめが6つありました。一つの水がめには80ℓから120ℓの水が入りますから、全部で480ℓから720ℓの量となります。わかりやすく言うと、お風呂の湯量6杯分、2ℓのペットボトルが300本以上です。こんなに大量の水をためるのは、とても大変な作業です。今のように蛇口をひねったら水が出るという時代ではありません。井戸から水を汲んで来て水をためるのです。給仕の人は、大慌てです。イエス様に従うようになった弟子たちも手伝ったことでしょう。
 水を一杯満たしたら、イエス様は「それを汲んで宴会の世話役のところに持っていきなさい。」というのです。「えーっ!?」給仕係の驚きが目に浮かぶようです。ぶどう酒が欲しいのに水を持っていったら叱られてしまいます。「水を持て行っても、どうにもならないのに???」給仕係は心の中で呟きながら持って行ったでしょう。
 世話役の人は、持ってこられた飲み物を味見してみました。これは、お客様に出してよいか確認のための味見です。世話役は、一口飲んで「オーーーなんて美味しいのだろうか!」感動して、新郎を誉めました。

 イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださったのです。世話役は、それがもともと水であったことを知りません。けれども給仕係は、最上級のぶどう酒が、もともと水だったことを知っていて、どうしてそうなったのかも知っていました。
 イエス様がそこにいたので、マリアは助かりました。弟子たちは、イエス様がそこにいたのでイエス様の素晴らしさを目撃することが出来ました。イエス様は、今も僕たちとともにいてくれます。イエス様が、僕たちと一緒にいてくださるので、僕たちは助けていただけます。イエス様が、僕たちの人生と一緒にいてくださるので、僕たちはイエス様の素晴らしさを知ることが出来るのです。イエス様に心向け、イエス様の素晴らしさを見させていただきましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。マリアも給仕係、弟子たちは、イエス様がいてくださったので助けられ、イエス様の素晴らしさを見ることが出来ました。イエス様は、今も僕たちと一緒にいてくださることを感謝します。イエス様、どうぞ僕たちを助けてくださり、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」                                ヨハネの福音書2章9節

<適用>

 続いて、イエス様が、私たちと共におられることの素晴らしさを見ていくことにしましょう。

Ⅰ;助けが必要である現状の中で

 イエス様は、「助けが必要である現状の中で」私たちと共にいてくださいます。
 ヨハネ2章は「それから三日目に」とあります。これは、ヨハネ1章19節からの流れで書かれていて、ピリポがナタナエルをイエス様のところに連れてきた時から「三日目」ということです。この時イエス様は、ガリラヤのカナの結婚式にいました。イエス様の母マリアが招かれ、マリアは宴会の給仕を切り盛りしていたようなのです。そのような関係でイエス様と弟子たちが、招かれていたのでしょう。

 私たちは、結婚式などお祝いの準備をする時、食べ物や飲み物が十分足りるように準備をするものです。カナで行われた宴会の世話役や接待係も、万全の準備をしていました。ユダヤ人の結婚式は、一週間続いたと言われていて、町中からお祝いに駆け付けるのです。ですから食べ物や飲み物については、相当な量を準備する必要がありました。新郎新婦はじめ、世話役の気苦労を想像できるのではないでしょうか。そんな宴会の終盤でしょうか、一大事が起きました。なんと、一番なくなってはいけない「ぶどう酒」がなくなってしまったのです。これは、来てくださったお客様に対してとても失礼なこととなってしまいます。そしてその責任は、宴会の世話役や接待係にまわってきます。
 マリアは、すぐにイエス様に現状を伝えました。それに対する答えは後で見ますが、マリアは、何かを期待して、イエス様の助けが必要であることを認めて、イエス様に現状を伝えたのです。このマリアの姿は、私たちの模範と言えるでしょう。

 ここでちょっと考えてみましょう。私たちは、自分の歩みの中で起こる事の全てを理解することが出来ないし、完全に対応することにも限界があります。さらに私たちは、自分の心の状態も全てを把握することは出来ません。そのような中で私たちは、不安を感じ、ストレスを抱え、どうしたら良いのか分からなくなるのです。今、コロナ過にあって、私たちは、本当にどうすることもできない不安があり、助けを必要としています。このような現状の中で、私たちは、何が出来るのでしょうか。何もできない、どうすることもできない状況の中にあって私たちには、まだ出来ることがあります。それは、マリアのようにイエス様に訴えることです。私たちは「イエス様、今、自分はどうすることも出来ません。助けが必要です」とイエス様に祈り求めることが出来るのです。

Ⅱ;イエス様の時があります

 私たちの現状の中にイエス様はおられます。そしてイエス様は、私たちの求めを聞き、イエス様の時と方法で答えてくださいます。
 母マリアは、イエス様に現状を伝えました。それに対するイエス様の答えは(4)、少々冷たい言い方に聞こえます。「あなたとわたしと何の関係がありますか」なんて言われたら「カチン」と来てしまうかもしれません。でもイエス様は、母マリアに対して冷たい態度を取っているのではないのです。「女の方」という呼びかけは、冷たいわけではなく、当時女性を呼ぶ時に使われていた表現方法なのです。

 「わたしの時はまだ来ていません」という言葉から分かるように、イエス様は、ご自分でするべきことがあり、その時があると言っているのです。イエス様が言われた直接的な意味は、イエス様の関心事とマリアの関心事は違うということです。イエス様の関心事は、人類の罪が赦されるためにご自身をささげるということでした。ぶどう酒は、人類の罪の身代わりにイエス様が十字架で流される血潮を象徴していると見ることが出来ます。だからこのことは、イエス様の十字架のみわざと関係しているわけです。そのようなことで、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と、十字架の贖いの時はまだ来てないと言おうとしたのです。11節で「ご自分の栄光を現わされた」と言われているのは、この奇跡がイエス様の救いのみわざへとつながることであるという意味合いでもあります。
 一方、マリアの関心事は、宴会のぶどう酒がなくなってしまった、どうしたらいいだろうかと言うことでした。二人の間では、目指していることが違っていたのです。と言ってもイエス様は、「関係ない」と突き放したわけではありません。イエス様の言葉には、「わたしの時はまだ来ていないけれども、心配する必要はありません。まかせてください」という意味も含まれているのではないでしょうか。だからこそマリアは、給仕の者たちに、イエス様の言われることは、なんでもして欲しいと伝えたのです(5)。マリアには、イエス様がこの状況を何とかしてくださると言う確信と信頼があったのです。

 周囲の期待の通りイエス様が、指示を出します。結婚式の宴会の台所には、水がめが6つ置いてありました。これは、「ユダヤ人のしきたり」で、手を洗い清めたり、食器を洗い清めるために使われます。イエス様は、この水がめに水を満たすように言われました。多分弟子たちもこの作業には加わっていたことでしょう。水がめが一杯になった時、イエス様は、それを汲んで世話役の所に持っていくように言いました。まず世話役に飲んでもらい、宴会の席に出してもいいだろうかと確認するためです。運んでいる人は、どきどきだったことでしょう。しかしここは、イエス様が言われる通りにするしかありません。それしかこの状況を乗り切る方法はないからです。するとどうなったでしょうか。なんと汲んだ水がぶどう酒に変わったのです。こうして宴会の席にぶどう酒が尽きることはありませんでした。

 さて、私たちは、マリアや給仕の者たちが知っていたように、イエス様が私たちの人生の中心にいてくださること、そしてイエス様の時があることを知らなくてはいけません。私たちは、どんな時でも、どんな状況でもイエス様がおられるので安心していられます。イエス様は、私たちが弱い時、一緒にいてくださるお方です。イエス様は、私たちの罪の現実を知り、その罪を赦し、恵を与えてくださるお方です。私たちは、イエス様に期待し、全てを委ねることが出来ます。イエス様は、「イエス様の一番良い時」に答えてくださるのです。

Ⅲ;最善の道が示される

 イエス様は、私たちとともにおられます。そしてイエス様は、ちょうど良い時に最善の道を示してくださいます。イエス様が、私たちの現実の中心におられるということは、最高の結果を経験することとなります。宴会の席で、ぶどう酒がなくなり、給仕の者たちは、窮地に追い込まれ助けが必要でした。しかし、イエス様がその場におられました。そのイエス様の言われる通りにしたら、最高の結果となりました (10)。イエス様は、彼らの窮地を救うだけではなく、最高の結果を与えて下さったのです。

 私たちは、自分の現実、自分の弱さや罪深さを知って、素直にイエス様に「助けが必要です」と祈りましょう。そうするとイエス様は、私たちの人生の中心に来てくださいます。そしてイエス様は、一番良い時に、イエス様の方法で最善の道を示してくださるのです。私たちには、その結果がどうなるのかすぐには分からない事もあるでしょう。しかし、私たちは、「イエス様の時と方法」を信じて見上げ続けることが大切です。

 イエス様は、私たちが助けを必要とする時、そこにいてくださるお方です。私たちは、イエス様がおられるので安心していて良いのです。イエス様が一番良い時に答えてくださいます。イエス様が私たちに答えてくださる時、最善の道が示されます。
 私たちは弱いときこそ強くなります。イエス様がそこにおられるからです。私たちは、どん底だと思う時に光を見ることが出来ます。イエス様が共にいてくださるからです。そして私たちが罪を悔い改めるなら、そこに救いがあります。イエス様は、私たちの救い主だからです。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。マリアや弟子たちは、イエス様がそこにおられたので、水がぶどう酒に変えられる奇跡を見ることが出来ました。イエス様は、マリアたちの現状を知り、イエス様の時にイエス様の方法で答えてくださり、最善をしてくださいました。イエス様、あなたが今も私たちの現状を見てくださり、共にいてくださることを信じます。私たちは、イエス様の助けと導きが必要です。イエス様が、ちょうど良い時に答え、最善の道を示してくださることを信じます。どうぞ導き助けてください。
 新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。感染している方々が癒されますように、医療従事者が守られ、必要な治療を行うことが出来ますように、感染拡大が終息しますようにと導き助けてください。日本中にそして世界中に神様の祝福と憐れみが満ち溢れるようにとお願いします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」