<子どもたちへ>
2月の給食の献立見ていますか。毎日確認しているかな?2月はなかなか面白いメニューですよね。「元気になるカレー」「うまいカリーフラワーサラダ」(うまくないと困りますよね。)とか「サラダ三食トリオ」などネーミングが凝っていました。少しでも給食で元気を与えたいという給食センターの方々の思いが出てますね。
イエス様は、僕たちの心の内側から元気や力だあふれるようにしてくださいます。
イエス様は、活動の拠点であったガリラヤとエルサレムのあるユダヤを行き来していました。ある時イエス様がユダヤからガリラヤに帰る時、弟子たちが驚く行動をとりました。
イエス様は、「さあ、サマリアを通ってガリラヤに向かおう」と言われました。弟子たちはびっくりして、「イエス様、それはどうでしょうか?普通は、サマリアを通らず回り道をして移動するものですよね。しかもユダヤ人がサマリアを通ったら、サマリア人たちは嫌がるのではないでしょうか。」と言います。それに対してイエス様は、「いや、サマリアを通っていかなければなりません」とはっきりと言います。こうしてイエス様一行は、サマリアの町を通って行くことになりました。
サマリアの町には「ヤコブの井戸」があって、イエス様はそこに腰をおろして休んでいました。弟子たちは、食料を買いに行っていました。時間としては、12時ごろでしょうか。ちょうどそこに一人の女性が水を汲みにやってきました。
イエス様は、「わたしに飲み水をください」と頼みました。女性はびっくりです。ユダヤ人がサマリア人に声をかけることはなかったからです。女性は「どうしてユダヤ人のあなたがサマリア人の私に飲み水を求めるのですか。ユダヤ人とサマリア人はそんな関係ではありませんよね」と声をかけます。 これに対してイエス様は、「あなたがわたしを知っていたら、あなたのほうから声をかけたでしょうね。わたしは、生ける水を与えることが出来るのですよ」と言いました。ユダヤ人とかサマリア人という話題から「生ける水」と急に話題が変わってしまいました。この「生ける水」に女性は、反応して「先生、どうやったらそんな水を手に入れることが出来るのでしょうか。あなたは、ヤコブの井戸をほった先祖ヤコブより偉いのでしょうか。」と答えます。
この質問に対してイエス様は、とっても大切なことを言われました。それが今日の中心聖句(ヨハネ4章14節)です。一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
「決して渇かない」という言葉に女性は、敏感に反応して「そんな便利な水があるなら欲しい。ください!!」と思わず叫んでしまいます。でも「決して渇かない水」って一体どんな意味があるのでしょうか。
僕たちが毎日飲んでいる水は、生きるために必要で、水を飲まないとのどが渇きます。のどの渇きを補うために、僕たちは水を飲みますね。イエス様は、僕たちの「のどの渇き」のことを言われたのではなく、僕たちの「心の内側」のことを言われたのです。「心の渇きって何?」と思うかもしれませんね。心が渇くっていうのは、「心が元気を失うこと」とか「生きる力が湧いてこないこと」とか「やる気が出なくて楽しくない」などと言いえることが出来るでしょうか。そうなる原因は、様々ですね。「学校の勉強についていけなくてつまらない」から始まって「人間関係がうまくいかない」とか「ただ何となくつまらない」と原因がわからないけれど心が元気を失うということもあるかもしれませんね。今は、コロナのために学校でも制限があり、部活が中止、修学旅行も中止など心が折れてしまう状況にあるかもしれません。
イエス様は、そんな僕たちの心に活力を与えてくださり、みんなを力づけてくださるのです。そしてイエス様は、みんなを罪から救い、永遠のいのちへ導いてくださいます。イエス様は、みんなの心を知り、必要な助けを与え、励ましてくださいます。イエス様を信じて、信頼して、イエス様に求めましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、決して渇くことのないいのちの水を与えてくださることを感謝します。イエス様、僕たちの心に元気を与えてください。僕たちの心が渇くことがないように、心を満たしてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 ヨハネの福音書4章14節
<適用>
適用としてもう少し見ていきましょう。イエス様とサマリアの女性との出会いは、私たちの「心」が潤されて歩むために必要なことを教えています。新年礼拝で一度ヨハネ4章を取り扱いましたが、今日はその時に触れなかったことを含めて見ていきたいと思います。
Ⅰ;近づいてくださる
私たちの心を潤すイエス様は、まず、私たちに近づいてくださいます。イエス様は、パリサイ人たちとの摩擦を避けてユダヤの地を離れガリラヤに向かわれました。南のユダヤから北のガリラヤに行くにはサマリアを通るのが最短距離なのです。が、9節にあるように当時のユダヤ人は、サマリア人を軽蔑してかかわりを持っていませんでした。その原因は、旧約聖書までさかのぼります。
ソロモン王のあと、イスラエルの国は北と南に分裂しました。そして北イスラエル王国は、紀元前722年アッシリアに滅ぼされてしまうのです。その時アッシリアは、サマリアの地域に移民を送ります。その結果、サマリアでは、イスラエル民族とアッシリアからの移民の混血が始まり、イスラエル民族としての純粋性を失う事となったのです。南ユダではそのようなことが行われることがなく、彼らは純粋なイスラエル人(ユダヤ人)としての誇りを持ち、サマリア人と自分たちを区別していたのです。だからイエス様の当時ユダヤ人は、エルサレムからガリラヤ方面に向かう時には、サマリアを通過せず、迂回する道を使っていました。しかし、イエス様は、あえてサマリアをお通りになりました。それは、サマリアの一人の女性と会うためであったのではないでしょうか。
このサマリア通過の時に起った出来事は、実に素晴らしいことです。イエス様が昼の12時ごろ(第6時のこと)ヤコブの井戸の側で休憩している時にそれは起りました。一人の女性が井戸に水を汲みに来たのです。恐らく水汲みに来る時間ではなかったようですが、この女性は人目を避けるようにして水を汲みに来たのです。それは彼女が抱えていた問題が原因です。サマリアの女性の抱えていた問題は、現代人の私たちにも通じるものがあります。彼女は、どのようなわけで5回も結婚していたのかは分りません。そこには、彼女の失敗や挫折または、欲望など様々なものがあったのでしょう。最終的に彼女は、結婚せず男性と同棲生活をするという性的に乱れた生活をしていたのです。ですから町の人々が水を汲む朝とか夕方ではなく、人目を避け昼に行動していたのです。また、彼女は自分の欲望のままに貪欲に生きている人と言えるでしょう。彼女は、イエス様が生ける水の話しをすると、その便利な水が欲しいと自分の利益だけを求めます。けれどもそれは、表面的なことで、本当の問題は心の渇きにありました。さらに問題なのは、彼女が自分の心の渇きに気付いていないこと、気づいていたとしてもそれを様々な方法で紛らわしていたと言う事です。
今でも多くの人は、心の渇きに気づかないのではないでしょうか。気づいていたとしてもやはり、その渇きをごまかすために、性欲や物欲、名誉欲、金銭欲など様々なことに心を向けていきます。そして人は、あれが足りない、これが足りない、もっと欲しいと自分の欲望のままに生きることとなります。このように多くの人は、自分の心の渇きを認めず、それを弱さと決め付け、ひたすら隠すということがあります。
イエス様は、このようなサマリアの女性に近づいてくださいました。彼女の心が本当に潤い、祝福に満ちた日々を送れるように、イエス様は御手をさし伸ばしてくださったのです。そして今、イエス様は、私たち一人一人に近づき、声をかけ、御手をさし伸ばしておられます。私たちは、イエス様を通して自分の問題の本質を知ることが出来ます。あなたのすぐそばにいるイエス様の語りかけに、心の耳を開きましょう。
Ⅱ;生ける水を与える
私たちの心を潤すためにイエス様は、私たちに近づいてくださり、「生ける水」を与えてくださいます。
イエス様に声をかけられて、サマリアの女性はいぶかしく感じました。最初に触れましたように、ユダヤ人とサマリア人は付き合いをしていませんでした。その時の彼女の返答にも困惑がにじみ出ています。イエス様が「わたしに水を飲ませてください」と言った時、彼女の持っていた水瓶から飲ませてほしいと言ったことになります。ですから9節は、「ユダヤ人のあなたが、サマリア人に水を求めるのですか?」と言う以上に「あなたは、サマリア人が使うバケツ(水瓶)を使うのですか?」という表現になります。
以前は、私たちも同じようにいぶかしく思ったのではないでしょうか。教会に来て、ほぼ始めて会う人に「こんにちは」とか親しく声をかけられて驚いたことはありませんか。教会に通うようになって聖書を読み、またメッセージで「あなたには罪があります」と言われると、「そんなことはない」と感じたことがあるでしょうか。私たちは、イエス様の十字架、復活、神様の愛について聞いても、すぐには理解できなかったでしょうし、受け入れるのには時間がかかったのではないでしょうか。
不思議がっている女性に対してイエス様は、すぐに本題に入ります(13節から)。神の賜物とはイエス様ご自身であり、生ける水はイエス様を通して与えられるものなのです。この女性は、「生ける水」を「新鮮な湧き水」と思ったようです。彼女は、どうやってそれを手に入れるのかとその入手方法を知りたがりました。彼女は、そんな便利な水があるなら手に入れたいと願いましたが、その求めはご利益的であり欲望丸だしの求め方でした。やはり、彼女は自分の本当の問題を知らず、肉体的な快楽しか求めていませんでした。
私たちは、喉が渇くたびに肉体的な渇きを満たすために水を飲みます。しかし、イエス様が与えてくださる「生ける水」は、心の渇きを完全に満たし、決して渇くことはなく、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。
ゴスペルシンガーとして活躍している久米小百合さんは、クリスチャンになる前は、歌手・久保田早紀として活動していました。代表曲は、「異邦人」です。今でもなつかしのメロディーで取り上げられますが、異邦人を歌っていた時、彼女はなぜ歌うのか目標を見失っていました。音楽業界では成功を収めたのですが、人生の目標を失い、心が飢え渇きました。教会学校に通っていたこともあって、彼女は教会に導かれ、神様を信じる信仰に導かれました。その後芸能界を引退し、今は人生の目標を見出し、心の潤いを与えられた喜びをもって神様を賛美しています(人生の転機‐私のキリスト教入門‐参考)。
イエス様は、私たちの心を潤し、溢れるほど恵みを注いでくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。そしてイエス様の言われた、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり・・・」と言う言葉は、滾々と湧き出る尽きることのない泉と言う事です。イエス様が与えて下さる生ける水は、私たちの心の内側から滾々と湧き出る泉となり、永遠のいのちの力、希望、喜びに満ち溢れると言う約束なのです。あなたはこの湧き出る、生ける水を得ているでしょうか。
Ⅲ;心からの礼拝を
このようにイエス様によって「心」を潤されて歩む秘訣は、心から主を礼拝することです。イエス様は、私たちに近づき声をかけてくださり、生ける水を与えてくださいます。私たちが、イエス様を信じ信仰をもって信頼するならば、イエス様は、私たちの心にこのいのちの水を豊かに与えてくださいます。と同時にその時、神様を礼拝するという生き方が生まれてきます。
ぜひとも欲しいと願うサマリアの女性の動機はどうであれ、その求める思いにイエス様はお答えになりました。16節にあるイエス様の言葉は、彼女の問題の本質を突くもので、彼女が隠したいと思っていた事柄でした。どうしても欲しいという思いからでしょうか、彼女は正直に答えます。しかしこの時彼女は、イエス様の前に告白することによって、自分の罪という現実に気付くのです。イエス様は彼女のことをすべてご存知で、彼女の告白を受け止められました。彼女の心の変化はイエス様のことを「先生」から「預言者」と見ていることからも分かります。
サマリアの女性は自分の罪を自覚し、すぐに礼拝に意識を向けました(20)。この心の動きは不思議かもしれませんが、当然の流れだと思います。彼女は、自分の罪が明らかになり、その赦しを受けて正しく神様を礼拝する必要に目が向いたのです。自分のような者が神様を礼拝できるのだろうか。出来るとしたら、一体どこで、どのように礼拝すればいいのだろうか。イエス様は、礼拝について大切なことを教えておられます(ヨハネ4章23-24節)。神様は形だけの礼拝者を求めてはおられません。まことの礼拝者とは、神様を信じ、罪を悔い改め、御霊の真理によって心から神様を礼拝する人のことです。サマリアの女性は、悔い改めと信仰を持って主の前に出る礼拝者となりました。
礼拝とは、心から神様を賛美し、敬い崇めるということです。そしてその時の心は、神様に受け入れられ、喜ばれるものであるべきです。今日は、少し別な表現をしてみたいと思います。御霊に導かれて神様を礼拝するということは、私たちが神様の御前に心を注ぎ出すということにもなるのではないでしょうか。神様を礼拝する時、そこには様々な思いがあります。その心の思いは、時には罪を意識する思いであったり、ストレスや多くの問題や悩みであったりします。私たちは、そのような思いを全て主なる神様の御前に置くことが出来るのです。私たちは、抱えている重荷を神様の御前におろすのです。そして神様を見上げて礼拝し、祝福を求めるのです。すると神様は、そんな私たちの心の思いに答えてくださり、御手を指し伸ばしてくださるのです。私たちは、心の重荷をおろして心から神様を礼拝しましょう。
私たちは、心を潤されて歩むことが出来ます。そのためにイエス様が、私たちに近づき声をかけて下さいました。そして私たちは、イエス様から永遠のいのちの水を受け取り、心が喜び、平安、感謝、希望に満たしていただけます。私たちは、イエス様を信じて決して渇くことのないいのちの水を受け取りましょう。そして私たちは、心の重荷を神様の前におろして、心から神様を礼拝する歩みを進めていきましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日の礼拝を導いてくださりありがとうございました。イエス様は、サマリアの女性に近づいて声をかけてくださいました。同じように今もイエス様が私たちに近づき声をかけてくださることを感謝いたします。イエス様の与えてくださる生ける水で私たちの心満たしてください。私たちは、心の重荷を全て御前におろして心から礼拝します。私たちの心に励ましを与え、神様による希望と喜びを与えて導いてください。
神様、一人一人の上に祝福を与えてくださるようにとお願いいたします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」