<子どもたちへ>
今日は教会歴で「シュロの主日」と呼ばれる日です。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入ったとき、人々がシュロの葉っぱを振って大歓声で迎えたのです。
今日から始まる一週間を受難週と呼びます。木曜日に最後の晩餐と逮捕がありました。そこから金曜日にかけて夜中の裁判があり、その日の内に十字架にかけられて、イエス様は死なれたのです。イエス様の生涯のクライマックスとなるこの十字架の意味を、今日は学んで行きましょう。
イエス様は、いいかげんな裁判をさわたしれて、死刑が決定しました。処刑場はゴルゴタの丘の上です。ゴルゴタとは「どくろ」という意味なので、そんな風に見える場所だったのでしょう。イエス様には王様に見立てたとげとげのイバラの冠がかぶせられ、おでこから血が流れています。体もむち打たれて傷だらけです。ローマの兵士たちが、イエス様を十字架にかけました。イエス様の右と左の十字架には、二人の犯罪人がかけられました。
足元では兵士たちがイエス様の服を欲しがって、くじ引きしています。また中には「救い主なら自分を救ってみろ」とあざ笑う人もいました。
その激しい苦しみの中で、イエス様はこう祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らはどんなに罪深いことをしているのか、自分でわかっていないのです。」
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエス様をののしりました。「お前がキリストなら、自分と俺たちを救ってみろ!」しかし、もう一人の犯罪人が言いました。「やめろ!私たちは悪いことをしたのだから、罰を受けて当然だ。だがこの方は何も悪いことはしなかったのだ。」この人はイエス様のお祈りを聞いて心が動かされたようです。そして、遠慮がちにこう言いました。「イエス様、あなたが天の御国に入る時には、私のことを思い出して下さい。」この人はイエス様を信じたのでした。イエス様はこの人におっしゃいました。「あなたは今日。私と一緒に天国に入ります。」苦しい十字架の上でも、イエス様は罪人を救う愛に溢れておられました。
それから不思議なことが起こりました。お昼の12時頃なのに太陽が光を失って、3時間も暗やみが続きました。イエス様は「天の父よ。私の霊を受け取って下さい」と叫ぶと息を引き取りました。この様子を見て心を打たれたローマの百人隊長は、「本当にこの方は正しい人だった」と言いました。十字架を見守っていた人たちも悲しくなって、胸をたたきながら帰っていきました。アリマタヤのヨセフという弟子は、ユダヤ人を恐れてそれを隠していましたが、イエス様への最後の奉仕に名のりをあげました。ピラトに許可をもらって、イエス様のおからだを取り下ろしたのです。そして遺体を布でくるんで、自分のために用意していた新しい墓におさめました。
イエス様の十字架の死は、まわりの人たちの心を揺り動かすものでした。犯罪人、百人隊長、アリマタヤのヨセフ。みなイエス様が罪なくして十字架に死んだことを信じました。私たちはどうでしょうか?聖書は、「キリストはみずから十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」と言っています。イエス様の十字架は、私たちの身代わりなのです。運悪く死刑になったのではなく、私たちの救いのために自分から引き受けて下さったのです。「その打ち傷のゆえにあなたがたは癒された。」とあります。罪と、罪に影響されたこの世に傷ついて、どうにもならない心をいやせるのはイエス様だけです。私たちもイエス様を自分の救い主として信じましょう。
<祈り>神様。イエス様が私たちの罪を背負い、滅びでなくいのちを与えてくださったことを感謝いたします。私の主、私の救い主としてイエス様を信じます。御名によって祈ります。アーメン。
<適用>
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。 Ⅰペテロ2章24節
続いて適用として、学びを続けます。勇二先生が週報の裏に関係のある写真を印刷しておいてくれましたので、見ておきたいと思います。
十字架刑が確定したピラトの官邸(アントニア要塞)から、十字架に架けられたゴルゴタまでの道は、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれます。これはカトリックの巡礼のルートだそうで、考古学的には根拠は乏しいようです。けれど巡礼者はイエス様のご最期を偲ぶことが目的ですので、今も多くの人がヴィア・ドロローサを訪れています。
ゴルゴタがどこであったかも色々な説があります。ひとつは聖墳墓教会の立つ場所です。エルサレム内部にあり、イエス様の墓もそこにあると言うものです。また、エルサレムの北側に位置する「されこうべの丘」をゴルゴタと考える立場もあります。チャールズ・ゴードンがイエス様の墓とした「園の墓」も、このされこうべの丘の近くです。イメージとしては私たちの想像とぴったりですが、確定的なものではありません。しかし、十字架に向かうイエス様の足跡を偲ぶのに、これらの史跡は助けになるでしょう。
さて、聖書に戻りましょう。「どくろ」とよばれる場所で、ついにイエス様は十字架に釘付けにされてしまいました。「どくろ」とは白骨化したヒトの頭蓋骨のことですから、そのように見える地形だったのかもしれません。マタイの福音書では「ゴルゴタ」とあります。死刑の執行が始まると、寝かされた態勢で犯罪人の体が十字架に打ち付けられ、そののち十字架が立てられます。それは、亡くなるまで数日かかることもある残酷な刑罰でした。この大変な苦しみの中でも、イエス様は聖く愛に満ちたことばを残されました。そのみことばとお姿から、私たちが学ぶべきことを見ていきたいと思います。
Ⅰ十字架上の祈り
イエス様は十字架上で、「十字架上の7つのことば」と呼ばれるみことばを残しています。今日の箇所にいくつか出て参ります。第一のことばは、34節「父よ、かれらをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかがわかっていないのです」という祈りです。何と聖い祈りでしょうか。死の苦しみの中で敵の赦しを求めることが、果たして私たちに出来るでしょうか。
これは誰のための祈りでしょうか?直接的には、イエス様を十字架に釘うち、着物を誰がもらうかくじ引きまで始めたローマ兵のためです。けれどそこには、野次馬的な群衆、あざ笑う指導者たち、イエス様を侮辱する一人ひとりが含まれていると言えるでしょう。それは人類最悪の罪と言える場面です。しかしこの人たちを、私たちに無関係とすることは出来ないと思います。というのは、知らずしらず罪を犯すということが自分にもあるからです。そんな私たちのために、イエス様は命がけで罪の赦しを祈り求めて下さったのです。イエス様がいかに罪人を憐れみ、深く愛して下さったのか、ここに示されています。イエス様の愛のとりなしを、私たちの側も愛と信仰の応答をもって。受けさせて頂きましょう。
Ⅱ十字架上の赦し
さて、この祈りは十字架近くの人たちに聞こえたようです。イエス様の右と左で十字架にかけられていた犯罪人たちにも、聞こえたと思われます。最初は2人ともイエス様をののしっていた、とマタイの福音書にあります。しかしイエス様の祈りが聞こえて一人の犯罪人の内で何かが変わりました。イエス様も自分も、これ以上ない肉体と心の苦しみを味わっています。その中でこんな祈りが出来るイエス様の聖さと愛に、この人は魂が揺さぶられたのでしょう。彼はもう一人の犯罪人を、「この方は悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめました。そして言いました。42節「イエス様。あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出して下さい」。彼なりの精一杯のへりくだりと、遠慮がちな信仰告白でした。
彼に対してイエス様が言われたのが43節です。十字架上の7つのことばの第二のことばでもあります。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。この犯罪人にとっては、ほんのいっとき前まで思いもしない展開だったでしょう。死刑のさなかに救い主と出会い、信じるようになり、しかも救い主が受け入れてくれようとは!彼の罪状は強盗でした。これまで信仰熱心でもなく、善い行いとも無縁だったことでしょう。やり直すチャンスもなければ、償いの時間もありません。それでもイエス様は天国に入れて下さるというのです。なんという無条件の赦しでしょうか。
あるクリスチャン女性のご主人が、晩年に重い病気にかかりました。奥さんは何十年もご主人の救いのために祈っていました。その祈りが聞かれ、ご主人は亡くなる少し前に病床洗礼を受けて天国に旅立っていかれました。しかし、この話を聞いたある方が、「そんなのはずるい!」と言いました。「人生の大半を神を否定して生きて来て、死ぬ間際にやっぱりすがらせて下さい、だなんて虫が良すぎる」というのです。私は、神様はいつからでもどんな方でも、イエスさまを救い主と信じる者を受け入れて下さるのです、と説明させて頂きました。
魂の救い、天国に入る恵みを、長年の信仰生活と善行のご褒美、ととらえてしまうと、死ぬ間際での信仰告白は「ずるい!」という考え方も出て来ます。しかし、イエス様の与えて下さる救いは無条件なのです。そもそも人がどんなに努力しても善行を積み上げたとしても、それを条件に神に赦しを迫るなどできないのです。ただ信仰によって、一方的に、無条件に、恵みとして罪の赦しと永遠のいのちが与えられるのです。
イエス様は苦しみの中でも、慈しみを込めて「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言ってくださいました。罪人の悔い改めと信仰を心から喜び赦して下さるイエス様に感謝致しましょう。またイエス様の喜ばれることを共に喜ぶ私たちとなりましょう。
Ⅲ心動かされた人たち
昼の12時から午後3時まで、昼間なのに太陽が光を失って、全地が真っ暗になりました。神殿では聖所の幕が突如として裂けました。大きな地震もあったようです。尋常ならざる異変の中、イエス様は十字架上の7つのことばの第七、46節「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と言って息を引き取りました。
常人の死でないことは明白でした。目に見えない神の手が、イエス様の死に際して動かされていました。すべてを見たローマの百人隊長は「ほんとうにこの方は正しい人であった」と言わずにいられませんでした。野次馬の群衆も、イエス様のことばや様々な異変を見て、悲しみの心が湧いてきました。胸を叩き嘆きながら帰って行ったとあります。
しかしイエス様の弟子たちは、自分のなすべきことに立ち上がりました。特筆されるのは51節のアリマタヤのヨセフです。ユダヤ議会の議員で、有力者でした。ユダヤ人を恐れて隠れて弟子になっていましたが、今や彼はご遺体の引き取り手として、公然と名のり出たのです。ヨハネの福音書には、ニコデモというパリサイ人もイエス様の埋葬に奉仕したとあります。女性の弟子たちもそれを見届けました。彼らは時間の制約の中で可能な限り丁重に、ご遺体を墓に納めました。
彼らはもう隠れてはいませんでした。命がけで罪人を赦しとりなしたイエス様、神に遣わされたお方であるイエス様。その方のいのちの犠牲の前に、奉仕を捧げずにはいられなかったのです。イエス様を愛する者は、イエス様の十字架のお姿に心揺さぶられるものです。私たちもそのようなお互いではないでしょうか。そうであるなら、イエス様のために私に出来ることは何だろうか。何をもって感謝をあらわし、救い主への崇敬をあらわすことが出来るだろうか。そう自分自身に問いかけたいと思うのです。そして、示されるところを心をこめて実行して行こうではありませんか。自分の全存在をイエス様に明け渡し主のものとして、与えられた人生を歩んで行こうではありませんか。
<祈り>
神様。イエス様はご自身を犠牲にして、この私に救いの道を用意して下さいましたから感謝いたします。イエス様を信じる私に、永遠のいのちの確信を強めて下さい。また私は喜んであなたにお仕え致します。何をもってあなたにお仕えしたら良いのか、どうぞ教えて下さい。イエス様のいのちをもって買い取られた者として、ふさわしく歩むことが出来ますように。御名によってお祈りします。アーメン。