2021年12月5日(日)礼拝説教 ルカの福音書1章46-56節 「神を賛美するマリア」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 先週の日曜日から、クリスマスを迎えるシーズン、「アドベント(降誕節)」となっています。今日は、アドベント第二週となります。救い主イエス様の誕生を感謝しお祝いするための大切な期間となります。クリスマスの賛美と共に神様への感謝をもって過ごしましょう。
 先週は、御使いが祭司ザカリヤに現れた時のお話しでした。御使いは、ザカリヤに妻のエリサベツが男の子を産むと知らせたのでしたね。ザカリヤは、「それは信じられない。それが本当かどうかのしるしは何でしょうか。」と神様の言葉を疑ってしまったのです。そこでザカリヤは、男の子が生まれるまで話をすることが出来なくなってしまいました。その後、妻エリサベツは、身ごもって男の子を産みました。名前は、「ヨハネ」、救い主のために準備をする役目を与えられたバプテスマのヨハネです。

 御使いガブリエルが、ザカリヤに現れて、エリサベツが身ごもって、6か月後、御使いガブリエルは、ナザレの町の一人の処女マリアの所にやって来ました。マリアは、ダビデの家系のヨセフと結婚する約束をしていました。そして、その準備をしていたと思います。そんなある日、御使いガブリエルがマリアに現れて、「おめでとう、マリア。神様があなたとともにおられます。」と挨拶しました。マリアは,ビックリして、何の挨拶なのだろうかと考え込んでしまいました。この時のマリアの年齢は、何歳だと思いますか?マリアの年齢は、10代前半だったのではないかと言われています。皆と年齢が近いですね。御使いは続けて言います。「恐れることはありませんよ。マリア。あなたは神様から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい。」

 マリアは、さらにビックリです。結婚していない自分が赤ちゃんを身ごもることは、考えられないことでした。ユダヤ人であるマリアにとって、結婚前に妊娠するようなことがあってはいけないのです。とても大変なことことなってしまいます。マリアは、「まだ、結婚していないのに、どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。」と御使いに聞きました。当然のことですよね。しかもマリアから生まれてくる男の子は、神様がずっと昔から約束してくださっている「救い主」だというのです。マリアにとっては、理解不能、不思議なことばかりです。御使いは、不思議に思っているマリアに、「聖霊がマリアのうえに臨み、神様の力によって身ごもるのだ」と語りました。マリアは、神様の御手のわざによって身ごもるのです。だから生まれる子は、神の子と呼ばれるのです。そしてさらに御使いは、「神様にとって不可能なことは何もない」と告げました。マリアは、御使いの言葉を静かに聞きながら、心を神様に向けました。そしてマリアは、神様の言葉を信じたのです。すべてを理解した訳ではありません。けれどもマリアは、「神様にとって不可能なことは何もない」ということを信じて、神様に従う決心をしたのです。そしてマリアは、神様を賛美するのです。今日の聖句(ル1:46-47)を読みましょう。マリアは、神様の導きを信じて心から神様を賛美しています。

 皆は、毎日、楽しいことだけがあるわけではないでしょう。僕たちは、嫌な事もつらいことも経験します。そんな時皆は、どうしていますか。神様は、今でも僕たちに「神にとって不可能な事はない」と語り続けています。僕たちは、不可能はないと約束してくださる神様を信じて、神様を賛美しましょう。賛美をしていると神様が一緒にいてくださることが分かってきます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。マリアは、不思議なこと、理解できないことに直面しても、神様には不可能なことは何もないと信じ、神様を賛美しました。僕たちも神様には不可能なことは何もないと信じ、賛美します。神様、僕たちの歩みを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「神にとって不可能なことは何もありません。」 ルカの福音書1章37節
「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」 
                                         ルカの福音書1章46-47節

<適用>

 いよいよ12月となりました。そろそろ「今年の漢字」が選ばれる時期となりました。皆さんにとって今年の漢字一字は、どんな言葉になるでしょうか。先週、御使いの知らせを聞いたザカリヤの気持ちを漢字で表したら「驚」となるでしょうか。それとも「黙」となるでしょうか。今日は、マリアの姿を見ますが、マリアにとってもやはり「驚」という漢字になるでしょうか。
 ザカリヤの賛歌は、「ベネディクトス」と言われています。今日は、マリアが歌った賛美を中心に見て行きます。マリアの賛歌は、「マグニフィカト」と呼ばれています。マリアは、御使いの知らせを受けた後、親類のエリサベツを尋ねました。エリサベツは、マリアの挨拶を聞いた時に聖霊に満たされ、神様を賛美しました。それに答えてマリアは、主を賛美するのです。

Ⅰ;心からの賛美

 マリアの賛美は、「心からの賛美」でした。マリアの状況に何か変化があったのでしょうか。マリアの身に起る事柄が全て順調に進むようことがあったのでしょうか。決してそんなことはありません。けれども彼女は、「私のたましいは主をあがめる」と賛美するのです。
 御使いガブリエルがマリアに現れた状況を振り返りましょう。御使いは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言って現れました。そして御使いは、耳を疑うような話を続けました。御使いは、マリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産むと言うのです。マリアは、御使いが現れたことで、何のことか分からない、あまりにも突然の出来事で状況を呑み込めない状態だったことでしょう。しかも生まれる子は、いと高き方と呼ばれ、ダビデの王位が与えられるのです。マリアから生まれる子が、約束の救い主だという事なのです。

 マリアは、ナザレという田舎町に住んでいた普通の少女です。年齢は、10代前半だったと思われます。彼女は、既にヨセフと結婚する約束をしていて、婚約期間にありました。ユダヤ人の婚約期間は、結婚と同じくらいの法的効力を持っていました。ですから、御使いがマリアに語っていることは、想像もつかないようなことだという事が分かります。婚約期間に妊娠する様な事があれば大問題となります。それだけではなく、姦淫罪として石打の刑を受ける可能性があるのです。マリアは、ユダヤ人として当然そのような事を予想できました。エリサベツの所に行ったとしてもその状況が改善するわけではありません。
 けれどもマリアは、「私は主をあがめ、神をたたえます」と賛美するのです。それはマリアが、「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」の御言葉を信じたからです。私は、マリアはこの御使いの言葉を繰り返し、声に出して告白したのではないかと思います。特にエリサベツの家に行く間、彼女は、歩きながら「神にとって不可能な事は何もない」と言う言葉を思い巡らしていたのではないでしょうか。何度も繰り返し告白する中でマリアの信仰は、徐々に強められたのではないかと思います。だからこそマリアは、「私のたましいは主をあがめる」と心から賛美することが出来たのです。

 皆さんは、今どのような状況にあるでしょうか。10月末からは、新型コロナウイルスの感染が落ち着いてきているように思えましたが、新しい変異株が出て来て猛威を振るっています。やはり年末年始にかけて感染する人が増えて行くのでしょうか。今年のインフルエンザは、どうなるのでしょうか。それだけではなく、私たちの生活では、経済的な事柄、家庭でも地域でも職場でも人間関係の問題があります。また私たちは、健康でいようと思いますが、私たちの体調は日々変化しています。さらに私たちは、将来についてどのように備えることが出来るのかという問題があります。私たちには、心配の種は尽きません。しかしそのような状況の中で「神にとって不可能なことは何もありません」という約束は今でも有効です。なぜならば、神様はマリアに語られたと同じように、今現在も私たちに語りかけておられるからです。ご一緒にルカ1章37節の神様の約束を宣言しましょう。
 私たちは、折に触れ、「神にとって不可能なことは何もない」と宣言しましょう。私たちは、実際に心の中でまた声に出して宣言することで、言葉の意味をよく理解し、心に力が溢れると言う経験することが出来ます。そしてマリアと同じように、「私は、神様を賛美します。」と告白し、心から主の御名を賛美しましょう。

Ⅱ;神様を見上げる信仰による賛美

 マリアの賛美は、「神様を見上げる信仰」による賛美でした。マリアは、「神にとって不可能なことは何もない」と信じ、「私は主をあがめる」と神様を心から賛美しました。このように賛美するマリアは、主なる神様を見上げる信仰に溢れていました。
 マリアに知らされた御使いの言葉は、素晴らしいものでした。御使いは、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・。(31-32)」と言うのです。御使いは、イスラエルの民が祈り待ち望んだ救い主がマリアからお生まれになると告げるのです。マリアもユダヤ人ですから当然、救い主に関する旧約聖書の預言を知っていますし、彼女自身も祈り待ち望んでいたでしょう。その約束が、自分を通して成就すると言うではありませんか。信じられない言葉ですが、マリアは御使いの言葉を信じました。もしマリアの聞き間違いなら、エリサベツが教えてくれるはずです。しかしエリサベツもマリアに対して「あなたは女の中で最も祝福された方」と歌い、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」と歌いました(ルカ1:42‐45)。マリアは、神様から特別な恵みを受け、特別な祝福を受けたのです。マリアは、神様によって選ばれ、神様によって身ごもり救い主を宿すという事がはっきりと分かりました。こうしたことから、主なる神様を見上げるマリアの信仰の表現が46節からのマリアの賛美となっているのです。

 マリアは、神様のなさる恵みを確信をもって歌っています。マリアは、主の憐れみは代々にわたると歌い、また神様は、高ぶる者を追い散らし、低い者を高くい引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせてくださると歌いました。これらのことは、救い主を通して与えられる救いと恵みと祝福を表現しています。さらにマリアは、神様が旧約の預言を忘れず、憐れみをもって導いてくださった事を感謝して賛美します。イザヤは、救い主に関する預言の中で「万軍の熱心がこれを成し遂げる(イザヤ9:7)」と語りました。その通りに神様は、私たちを罪から救うために情熱を傾け、私たちを見捨てることをせず、救いの約束を成就してくださるのです。マリアは、この神様の恵みを信じ、確信して賛美しました(ルカ1:54‐55)。
 皆さん、マリアは、自分を取り巻く状況が変わらない中で神様を賛美しました。誰が、聖霊によって身ごもることを理解できるでしょうか。婚約者のヨセフも最初それを受け止めることが出来ず、マリアと離縁しようと考えたのです(マタイ1:19)。しかし御使いがヨセフに表れて教えてくれたのでヨセフは、マリアの身に起きていることを信じる事が出来たのです。それでもマリアの心には不安と恐れがあったことでしょう。そのような中で彼女は、神様を見上げて賛美するのです。

 マリアの信仰の姿は、私たちに大切な事を教えています。それは、どのような状況にあっても主を見上げ、主を賛美することの必要を教えているという事です。私たちは、困難やストレスを感じる時、どのような気持ちで過ごすことが多いでしょうか。私たちは、イライラしたり、不平や愚痴を言ったり、物に当ったりするでしょうか。そんな時私たちは、「祈る事」「賛美する事」を忘れてしまうことがあります。
 ある教会での話です。その教会では、大きな課題に取り組んでいましたが、なかなか状況が好転しないでいました。教会の役員が牧師に報告をしました。牧師が「それでは祈りましょう。」と言うと、役員は「もう祈りしかありませんか。」と言ったというのです。笑い話のようですが、私たちは、問題の大きさに目が向いてしまい、「主に祈って、考える」と言う順番を忘れ、祈ることを後回しにしてしまうことがあります。もっと忘れてしまうのは、神様を見上げ賛美する事です。多くの事柄の中で、ふと立ち止まって神様を賛美しているだろうかと考えみてください。神様への賛美を忘れていることが多いと思います。
 私たちは、困難に直面する時こそ、神様を見上げる信仰をもって祈りましょう。そして「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をほめたたえます。」と告白し、主を賛美しましょう。すると私たちの心は、神様の臨在に包まれ、マリアが歌ったように神様の憐れみと恵みに気づくことでしょう。

 マリアは、「神にとって不可能なことは何もありません」と言う約束を心から信じました。私たちの信じる神様は、不可能なことは何もありません。私たちには不可能でも、神様には全てが可能です。この事実を信じて、主なる神様を心から賛美しましょう。
 マリアは、困難の只中にあって神様を見上げる信仰をもって賛美しました。賛美の中でマリアは、さらに神様の恵みを知り、信仰が強められたのです。私たちも、いつでもどんな時でも神様の御力を信じて神様を見上げて賛美しましょう。心が元気を失うような時こそ「私のたましいは主をあがめ、私は神様を賛美する」と宣言し、賛美を歌いましょう。主の憐れみは、主を恐れる者に与えられます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美致します。マリアは、心から、神様を見上げる信仰をもって神様を賛美しました。私たちも、マリアのように「神様に不可能なことは何もない」と信じ告白します。神様は、今も私たちを祝福し導いてくださることを感謝します。 神様、私たちが困難や試練の中でストレスを感じる時、不安に思う時、主を見上げる信仰を与えてください。そして主の御名を賛美する信仰を与えてください。私たちの心に口に神様への賛美を与え続けてください。私たちは、心から神様を見上げて賛美します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」