2021年12月19日(日)礼拝説教 マタイの福音書2章1-12節 「博士たちの礼拝」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 「Merry Christmas!(クリスマスおめでとう)」神様の恵みがありますように。
 今年もあと2週間となりました。学校は、冬休みに入りますね。皆は、冬休みにどんな計画を立てるでしょうか。ぜひ遊ぶ計画だけではなく、おうちの掃除などの計画も立てられるといいですね。もしかしたら、色々と考えて計画を立てるけれど、それで満足してやったつもりになって、計画通りに行かなかったという事がないように気をつけましょう。

 さて、今日登場する「東の国の博士たち」は、「ユダヤ人の王」に会いに行くという壮大な計画を立て、1,000km以上離れているエルサレムに向かいました。それは、喜びに溢れた、救い主イエス様を礼拝する旅となりました。東の方の博士たちとは、恐らく今のイランやイラクのあたりの人たちだったと思います。博士たちは、星を研究して、占いをしている人たちでした。彼らは、ある時とても珍しい星を発見しました。「おい、あれはなんだ。あんなに光り輝いているぞ」「今まで見たことない星の出現だ。何を意味しているのであろうか?」彼らは色々書物を調べ「分かった。あの星はユダヤ人の新しい王が生まれたしるしかもしれない。」「ユダヤ人の王のお誕生ならお祝いに行かなければ!!」こうして博士たちは、エルサレムへの旅を始めたのです。ちなみに「博士たち」とありますが、良く3人の博士たちと言われていますが、贈り物が3つだからです。実際には博士が何人だったのかは分かりません。

 博士たちが向かったのは、エルサレムです。ユダヤ人の王ですから当然彼らは、王宮のあるエルサレムに向かいます。しかしエルサレムでは新しい王が生まれたようなお祝いムードはありません。そこで2節のように「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とヘロデ王に質問するのです。ヘロデ王としては、初耳の情報です。「そんな知らせは受けていないぞ、一体誰のことを言っているのか?もしかしたら、旧約聖書で預言されている救い主キリストの事だろうか」。ヘロデ王は、祭司長や律法学者を呼びました。そして救い主がどこで生まれるのか確認したのです。祭司長や律法学者たちは、旧約聖書に精通した人たちですから、当然すぐに救い主がどこで生まれるのか答えを導き出すことが出来ました(ミカ5:2)。救い主は、ベツレヘムでお生まれになるのです。とうとう救い主が生まれた場所が分かりました。ヘロデ王は、「救い主がいる正確な場所が分かったら知らせてもらいたい」と博士たちに伝えました。ヘロデが、救い主イエス様の居場所を知りたかったのは、礼拝するためではありません。救い主を抹殺してしまおうと考えたからでした。ヘロデ王は、ユダヤ人の王としての自分の地位を脅かす人は、誰であってもその存在が許せなかったのです。 

「ベツレヘム」という貴重な情報を得た博士たちは、一路ベツレヘムに向かって出発です。すると東の国で見つけた星が、再び現れました。その星は、博士たちを導いたのです。そして幼子がいる家の上でとまりました。「おおーあの家の上でとまったぞ!」「あそこに救い主がおられる!」博士たちは、表現できない程の喜びに包まれました。この時、「家」とありますから、すでに家畜小屋ではなく、ヨセフとマリアは、家を借りて住んでいたことが分かります。博士たちは、さっそく家の中に入り、幼子の前にひれ伏し礼拝するのです。そして「黄金」「乳香」「没薬」という高価な贈り物をささげました。その晩、博士たちは、ヘロデの所に戻らない様にという御使いの言葉を聞いて、別の道から自分の国に帰って行きました。

 博士たちは、イエス様を礼拝するために最善の準備をしていました。博士たちは、自分たちの出来る心からの礼拝を捧げたのです。
僕たちは、クリスマスを迎えている今日、どんな心でイエス様の前に出るでしょうか。僕たちは、博士たちのように神様の御前にへりくだり、心から賛美し、イエス様の救いを感謝して礼拝しましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、このようにクリスマス礼拝を行えることを感謝致します。博士たちは、イエス様を心から礼拝しました。僕たちもイエス様の誕生を喜び、心から礼拝する者とさせてください。この祈りを救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
                                    マタイの福音書2章10-11節

<適用>

 私たちは、クリスマスを12月25日に祝っていますが、イエス様の誕生日が何月何日だったのかは不明のままなのです。ですからクリスマスは、イエス様の誕生日ではなく、イエス様のご降誕をお祝いする日ということになります。
 イエス様がお生まれになった時、最初にクリスマスをお祝いしたのは羊飼いたちでした。聖書には他にもイエス様の誕生を祝った人たちのことが記されてあります。それが今日開いたマタイ2章で登場する東方の博士たちです。今日は、博士たちの姿から、礼拝の時の私たちの心の在り方について学びましょう。

Ⅰ;情熱をもって(1-3)

 まず私たちは、「情熱をもって」礼拝しましょう。私たちは、歴史の授業で「紀元前B.C.」とか「紀元後A.D.(西暦)」という言い方を学びます。紀元前のB.C.は「Before Christ(キリスト以前)」という意味です。そして紀元後A.D.は「Anno Domini(主の年)」と言う意味です。と言う事は、私たちの歴史は、イエス・キリストを中心に考えられているのです。「西暦○○年」は、イエス様誕生から何年という意味となります。このことは、イエス様が私たちの歴史只中に来られたことを意味しています。

 イエス様が、ヘロデ王の時代にお生まれになった時、東方の博士たちがお祝いに駆け付けました。私は、東方の博士たちの行動の中に、イエス様への情熱的なものを感じます。その情熱とは、「お生まれになったユダヤ人の王を礼拝したい」と言う情熱です。博士たちは、占星学や天文学の博士であったのではないかと言われています。彼らは、珍しい星の出現を見逃すことはありませんでした。
 東の国がどこかは明らかではありませんが、博士たちがユダヤ人の王メシヤの誕生の預言を知っていたとすれば旧約時代にユダヤ人たちが捕囚となっていたバビロンではないかとされています。バビロンでは、捕囚の民(ユダヤ人)の間で語られていた救い主に関する預言を知り、関心を持っていた人々がいたと考えられます。博士たちのいた場所は、現在のペルシャ湾の周辺だと言われています。単純に計算してもエルサレムまでの距離は、1,000㎞以上あります。けれども彼らは、一つの星に導かれて、いつ終わるか分からない旅に踏み出していったのです。
 本当にユダヤ人の王が生まれたのか保障などありません。周囲の人々は何と言ったでしょうか。しかし博士たちは、奇跡的な神のわざとしか言えない不思議な星によって駆り立てられ、居ても立ってもいられず、行動に移すのです。彼らが、イエス様を礼拝するために費やした時間や苦労、直面しただろう危険は、私たちの想像をはるかに超えています。

 ユダヤ人ではない異邦人の博士たちが救い主の誕生に関心を示し、すべてを投げ出して礼拝するのです。そこには、「何を差し置いても、ユダヤ人の王、キリストを礼拝しなければならない。」そんな熱意が感じられます。私たちは、救い主イエス様によって救いが与えられ、多くの恵みを受け、そして今、私たちは神様の大きな愛を受けています。私たちは、礼拝する時、博士たちのように「何はともあれ、礼拝しよう。神様の御前に進み出なければいけない。」という情熱を持って集まっているでしょうか。旧約の預言者イザヤは、救い主誕生について「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(7)」と語りました。私たちを愛してくださる神様は、ご自身の熱心によって救いを成就してくださったのです。ですから、私たちもこの神様の愛に答えるためにも「情熱」をもって礼拝する者となりましょう。

Ⅱ;喜びをもって(4-10)

 二つ目に私たちは、「喜びをもって」礼拝しましょう。博士たちは、「喜びをもって」礼拝しました。マタイ2章では博士たちと対照的な人たちが出てきます。博士たちがエルサレムの王宮に行って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねます。王ならば王宮で生まれるのは当然のことです。しかし、ヘロデの家では、新しい王が生まれたということはありません。ヘロデはびっくりします。エルサレムの人々もびっくりしました。ヘロデは、自分の王位が危うくなることを恐れ惑い、博士たちにこっそりと耳打ちをします(8)。これは本心ではありません。ヘロデは、場所が分かったら、抹殺に行く計画を即座に思いつくのです。ヘロデという人は、優秀な王であったようですが、優秀ゆえに自分の地位に固執し、懐疑的になって邪魔者(家族であっても)は、すべて抹殺するほどの人物だったのです。ヘロデはユダヤ人の王、救い主の誕生を喜ぶことはありませんでした。
 祭司長たちや律法学者たちも良い反応を示していません。彼らはユダヤ人の指導者で、旧約聖書に精通し、律法を人々に教え、神様に仕えていた人たちです。祭司長たちは旧約聖書の預言を引用して、ユダヤ人の王が生まれたのは「ベツレヘム」であると明確に、素早く答えることが出来ました。しかし残念ながら彼らもユダヤ人の王、キリストの誕生を喜ぶことはありませんでした。祭司長たちは、約束の救い主の誕生という知らせを聞いても、それを真実と受け止めることが出来なかったのです。彼らには、聖書の知識はあったでしょう。けれども神様の言葉、神様の恵みには興味がなかったようです。もしかしたらヘロデの目が気になっていたのかもしれません。キリストの誕生をことさら喜んだら、自分たちの命が危なくなると考えたのかもしれません。彼らの知識は、彼らの信仰の原動力とはなりませんでした。

 私が高校生の時、国語の授業で「遠い、近い」で様々なことを表現するという、いわゆる「言葉遊び」をしたことがありました。例えば、「近くて遠いおもちゃ屋さん」。おもちゃは英語で「Toy(トイ)」です。「とても遠いのに近い蕎麦屋」等いろいろあります。コロナ禍でなかなか家族が集まれず「オンライン帰省」というのも普及してきました。その様子を表現すれば、「近くて遠いオンライン」となるでしょうか。「画面では近いけど実際には遠く離れている」と言う具合です。
 この表現を使うなら、祭司長たちは、神様の預言に近く、イエス様には遠い存在となっていると言えるでしょう。逆に、東方の博士たちは遠くに住んでいましたが、その心はイエス様に一番近い礼拝者と言うことが出来るでしょう。

 博士たちは、ヘロデの所を出たとき、再び星を見つけました。この星は、まったく自由に動き、博士たちを先導して行きました。そして幼子イエス様のいる家の上にとどまりました。それを見て博士たちは非常に喜びました。その喜びは、長い旅が終わった喜びです。また発見した星が間違いなくユダヤ人の王の星であったという学術的な証拠を得ることが出来たという喜びだったでしょう。しかしそれ以上に、やっとユダヤ人の王、救い主にお会いできるという喜びです。彼らは、イエス様を礼拝できる喜びに満たされたのです。「星を見た時彼らは感激の喜びで、身震いした。」と訳している聖書もあります。博士たちは、喜びと感謝でいっぱいになり、イエス様を礼拝しました。

 私たちとイエス様のとの距離感は、どのようなものとなっているでしょうか。イエス様に対する私たちの心の態度について4つの見方が出来ると思います。一つ目は、「神様を信じないで、神様を求める心もない『遠くて遠い』」という心です。二つ目は、「神様を信じてはいないけれど、神様を求める心がある『遠くて近い』」という心です。三つ目は、「神様を信じているけれども、心が神様から離れている『近くて遠い』」と言う心です。そして四つ目は、「神様を信じていて、心が神様に満たされている『近くて近い』」心です。私たちは、「神様に近くて近い」心となっているかどうかチェックしましょう。神様を信じ、心が神様に満たされている時、私たちは、喜びと感動に包まれて主を礼拝することが出来ます。

Ⅲ;賛美をもって(11)

 私たちは、「賛美をもって」礼拝しましょう。博士たちの礼拝の姿は、心からの賛美と言えるのではないでしょうか。博士たちは「ひれ伏して礼拝した(11)」とあります。この「礼拝した」というのは、ギリシャ語の「プロスクネオー」と言う言葉です。この言葉には、「拝む、身を低くする、相手を高める、敬意を示す」という意味があります。博士たちは、地べたに身を横たえるようにして身を低くして幼子イエス様を礼拝したのです。博士たちは、自分の国ではある程度の地位を築き上げていたでしょう。博士たちは、一団を結成して旅をし、ヘロデ王に謁見できるほどの立場を持っていたのです。その彼らが、ユダヤという異国の一人の幼子の前に全てを投げ出してひれ伏しているのです。ここに彼らの真摯な思いが現れています。

 それだけではなく博士たちは、黄金、乳香、没薬という贈り物をしています。贈り物一つ一つの意味よりも、博士たちが贈り物を用意していたという事に注目しましょう。彼らの持ってきた贈り物は、ペルシャ湾周辺ではとても貴重で高価なものでした。博士たちは、ユダヤ人の王・救い主を礼拝するために、自分たちの用意できるものの中で最高のものを用意したのです。そして博士たちは、用意した贈り物を喜んで心から捧げたのです。それが「ひれ伏して礼拝し、ささげた」という事なのです。そこには自分たちを導き、守ってくださった神様への感謝の気持ちが込められているのではないでしょうか。そしてキリストに会うことができ、御前に出ることが出来たという喜びの賛美があるのです。

 クリスマスを迎えて、私たちは、神様がいつもどのように関わってくださったのかを思い巡らしましょう。私たちが悩む時、神様はどこにおられましたか。私たちが、ストレスを感じる時、神様はどのように皆さんの心に触れてくださったでしょうか。私たちが不安に感じる時、神様はどんな言葉で励ましてくださったでしょうか。情熱を傾けて愛してくださる神様の愛に応えて、私たちも情熱をもって、主の導きを喜び、心からの賛美をもって主なる神様を礼拝しましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、私たちを愛し、救い主イエス様を地上に送ってくださいました。この神様の愛に答えて私たちは、情熱をもって心から礼拝します。また神様を信じ、神様によって心が満たされ喜びに溢れ、賛美をもって礼拝します。神様私たちの信仰を強め、導いてください。救い主イエス様の恵みが、一人一人の上に豊かに注がれますように。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」