2022年1月23日(日)礼拝説教 ルカの福音書18章9-14節 「真実な祈り」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 イエス様はよく、たとえ話をなさいました。今年に入ってからは、そのたとえ話を順番に学んでいますね。今日は、お祈りについてのたとえ話です。お祈りに来た2人の人が登場しますよ。パリサイ人と取税人です。
 パリサイ人とは、聖書とユダヤ人の言い伝えを厳しく実行している先生たちです。取税人とは、ユダヤの国を支配していた外国、ローマのために税金を取り立てている人です。決まりより多く集めて自分のものにする人もいたので、嫌われていたのです。

 最初にお祈りを始めたのはパリサイ人です。立派な服を着ていばった様子ですね。神殿までくると、正面の聖所に一番近い所に立ちました。そして胸を張って、心の中でお祈りを始めました。「神様、私が他の人たちのように悪い者でないことを感謝します。」そしてさっき見かけた取税人を思い出して祈りました。「私が取税人のようでないことも感謝します。私は聖書の決まりは全部守っているし、お祈りも献金もたくさんささげています!」パリサイ人はこう祈りました。お祈りというより自慢話のようですね。
 では取税人はどうでしょう。人々から離れたところに立ったまま、うつむいて自分の胸を叩いています。そして必死にお祈りしていました。「神様…」言葉がすんなり出てきません。「…私は悪いことをしてしまいました。こんな罪人の私をどうぞお赦しください。」
 さて皆さんは、神様に正しいと認められたのはどちらの人だと思いますか?イエス様はおっしゃいました。「パリサイ人ではありません。取税人の方が神様に正しいと認められました。」どういうことでしょうか?しっかり立派な行いをしているパリサイ人ではだめで、罪を犯した取税人が神様の前に正しい?その理由が今日のみことばにあります。いっしょに読みましょう。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」(ルカの福音書18章14節)。

 パリサイ人は「自分を高くした人」です。「高慢(こうまん)」になって、自分で自分は正しいとしていました。でも神様の前で完全に正しい人なんて、一人もいないはずですね。高ぶる心では、神様の前での自分の姿がわからないのです。それなのでパリサイ人はイエス様を信じませんでした。
 取税人は「自分を低くした人」です。自分の罪を認めて悔い改めました。神様に顔向けできない自分に気づいていたのです。そしてただ「どうぞお赦しください。」と「謙遜(けんそん)」に祈りました。
 私たちは知らずしらず高慢になってしまう部分があります。人に対しても、神様に対してもです。でもそれではいけません。謙遜に自分を低くしてイエス様を救い主と信じることです。「神様ごめんなさい、あわれんでください」と祈るならば、私たちを赦し正しい者として受け入れてくださいます。私たちの祈りが、神様のあわれみと祝福を頂ける祈りとなりますように。

<祈り>
神様、みことばを感謝します。神様の目にうつる自分がわからずに、高慢になってしまうことがあります。どうぞお赦しください。むしろ謙遜に、罪が自覚できるようにしてください。そしてあわれみと祝福を頂いて、神様に受け入れていただけますようにお願いいたします。御名によってお祈りいたします。アーメン。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」  カの福音書18章14節

<適用>

 私がティーンエイジャーの頃から好きなミュージシャンがおりますが、今年の新年のコンサートツアーが行われました。私は行っていませんが、そのタイトルは題して「初詣ライブ」でした。「なんじゃそれ?」と思いましたが、行った方のSNSでの投稿によると、なんとライブの冒頭に自由参加の神事が行われたそうです。神主さんが祝詞をあげて、参加者一同の無病息災、コロナの終息が祈られたそうです。そういうことか、と思いましたが、世の中全体が神頼みの空気になっているということなのでしょう。
 もちろん私たちクリスチャンも祈りを捧げます。しかしまことの神様に受け入れられる祈りの姿勢とはどういうものでしょうか。イエス様が教えたいと願われたことはなんでしょうか。神に祈る、ということがクローズアップされる今この時において、改めて共に学んで参りましょう。

1.パリサイ人の祈り

 始めに、イエス様が誰に対して話をされたのか、確認しておきましょう。9節には「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」とあります。これは、たとえ話に取り上げられているパリサイ人のことです。宗教的には律法学者という立ち位置であり、社会的にも一目置かれる集団でありました。確かに厳格な宗教いのども彼らは自己義認が特徴であり、人を見下す人々でした。彼らにとっては罪の赦しなど不要なものと捉えられていました。ですからイエス様を迫害し、決して信じようとしなかったのです。

 彼らの祈りの問題点はすでに見て参りました。そこには、他人と比較しての自己義認と優越感が溢れています。どうしてこのような祈りが出てくるのでしょうか?パリサイ人の目には、一般大衆やつい先ほど目にした取税人がまざまざと焼き付いていました。祈りのために目を閉じても、彼が見ているのはそうした人間の姿でした。さらにはそれと比較して立派な自分の姿が、大きくクローズアップされていたでしょう。つまりは、神でなく人を意識しているにすぎないのです。聖い神、愛の神、そして罪に怒る神に向かいあっての祈りではなかったのです。だから恐れもなく自己義認が出来てしまいました。その祈りは耳にしたくないような高慢なものに思えます。
 また宗教的なわざを彼らは誇りました。週に2回の断食とは、旧約聖書の律法の要求をはるかに超える回数です。求められていたのは年に1回でしたが、ラビ(宗教教師)の戒律でここまで増やしていたのです。十分の一の捧げものも、律法では穀物畑、果樹園、家畜に対してでした。しかしパリサイ人は「自分が得ているすべてのものから十分の一を献げている」(12節)として、要求される以上を実践していることを誇りとしていました。

 この彼らの祈りの姿勢を、イエス様は「神から義と認められるものではなかった」とおっしゃいます。彼の祈りは「心の中で言う」ものであり、「自分自身に向けて」と訳せるものです。彼には神に真摯に向かいあう姿勢が足りなかったのです。私たちもこのことに気をつけていきたいと思います。
 また、私たちも熱心でありたいと思いますが、それによって高ぶって人を裁くことがないよう注意が必要です。自発的な信仰の行いとして、へりくだってなされるわざは神様に喜ばれます。しかしわざを評価なさるのは神様であって私たちではありません。神に受け入れられる心をもって信仰生活に励み、祈りをさせていただきましょう。

2.取税人の祈り

 さて、取税人の祈りですが、彼がどんな罪を犯してしまったかは語られていません。しかしその短い祈りは神に受け入れられる条件を鮮明に表しています。すなわち「罪人の私」という自覚です。パリサイ人とは対照的に、どうがんばっても自分の正しさなどあてにできない、神のあわれみにすがるしかないという思いです。
 聖く深遠な神のご存在の前に、高々と顔を上げて自分の正しさを主張できる人間がいるでしょうか。聖書は「すべての人は罪を犯した」「神からの栄誉を受けることができない」と教えています。神の怒りを受けるべき存在なのが私たちなのです。

 いつだったか子どもたちと赤ちゃんを見て、「天使のようだね!」という会話になったことがありました。しかし私は「人は天使に生まれるんじゃないよ。聖書からすると生まれながらの罪人なんだよ。」と話したことがあります。そしてその罪人をそれでも愛して受け入れようとしていてくださるのが神様なんだよ、と話しました。
 今日の箇所でのイエス様の教えは、自分を低くして罪を悔い改める者の幸いを示しています。肩ひじを張って、何とか正しい自分、誇らしい自分を作っていくのではないのです。むしろありのままの自分の低さ、足りなさを認めることが、神様に受け入れられる第一歩です。信仰によって神にあわれみを求めましょう。そのような人こそ、神様は義と認め、平安を与えて下さるのです。

3.神にすがる祈り

 最後に私たちが持つべき真実な祈りの姿勢とは何か、を共に見て終わりたいと思います。13節の「あわれんでください」ということばに注目しましょう。あわれむとは「宥める(なだめる)」とも訳せることばです。日本語の辞書では「罪などに対して寛大な処置をとる」という意味が説明されています。新約聖書ではここの他にあと1か所、へブル書の2章17節に使われています。開きはしませんが、イエス様が生まれてきて下さったのは「民の罪の宥め(なだめ)」がなされるためだ、とあります。神様のあわれみ、罪のなだめ、赦しとは、救い主イエス様を通して与えられるものです。イエス様が来てくださったのは、罪人の身代わりとして神の怒りを引き受けて下さるためです。胸を叩いて罪を悲しむ取税人は、信仰をもって神の赦しにすがりました。

 取税人と同じように、私たちに必要なのは救い主イエス様の救いを信じ、神様にすがる祈りを捧げることです。罪の自覚に基づいて、真実な信仰をもって神に叫ぶ者を、神様は義と認めて受け入れてくださいます。神から義と認められる恵みと平安を、受け取らせて頂こうではありませんか。私たちの祈りが真実なものとなることができますように、助けて頂きましょう。

<祈り>
 神様、礼拝にお招き下さりありがとうございます。誇るところのないはずの罪人が、高慢にも自己義認に陥ることがあります。愚かなものを憐れみ、あなたの前での真実な姿を知らしめてください。へりくだってあなたの恵みと赦しに依り頼むものにしてください。義と認められることの喜びと平安に満たし、真実な祈りを捧げ続ける者とならせてください。御名によってお祈りします。アーメン。