2022年4月24日(日)礼拝説教 マタイの福音書28章16-20節 「弟子としなさい」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 先週はイースターでした。コロナが流行っていますが、共に祝えたことを感謝いたします。
 さて、聖書クイズです。死からよみがえられたイエス様は、何日間地上で過ごされたでしょうか?…答えは40日です。その間に何度も、色々な場所で、弟子たちの前に姿を現されましたよ。今日はその時のお話をします。

 ここはガリラヤの山の上です。ここにいるのはイエス様と、お弟子さんです。元は12弟子でしたが、ユダが抜けて11人になっていました。十字架とよみがえりはエルサレムでのことでしたね。でもイエス様はよみがえった後に、「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会えます」と言っておられたので、みんなで会いに来たのです。
 「イエス様!お会いしたかったです」「本当によみがえられたのですね!」弟子たちはそう言ってイエス様を礼拝しました。イエス様が確かに神様だとわかったからです。でも中には信じきれないで疑った人もいたそうです。聖書は正直にそのことを伝えています。でもイエス様は怒ったりしませんでした。そして言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

 またイエス様は、エルサレム近くのオリーブ山でもお姿を現されました。そこでは「あなたがたは地の果てまでわたしの証人となります。」とおっしゃいました。十字架とよみがえりを伝えるよう、何度も言っておられたのですね。
 お話が終わると、みんなが見ている前でイエス様のお体が浮き始めました。「わあっ!イエス様がのぼって行かれるぞ!」弟子たちはびっくりです。見上げているとイエス様は雲に包まれて見えなくなりました。これが、イエス様とお弟子さんたちとの地上でのお別れでした。

 さて皆さん、イエス様のこうしたお言葉をどう受けとめましたか?心に留めてほしいことが2つあります。
 1つ目は自分自身が神様の弟子になる、ということです。それは、イエス様を救い主と信じて、その教えに従う人になることです。信徒となった証として、バプテスマ(洗礼)を受けさせなさい、とも言われています。皆さんの中から洗礼を受ける人が近いうちに出ることをお祈りしています。
 2つ目は、イエス様の十字架とよみがえりを、自分たちにとどめないで世界中に伝えてあげなさい、ということです。私たちの教会は福音伝道教団というグループに属しています。それは宣教師のバーネット先生が、日本に福音を伝えに来日したところから始まりました。戦争中大変な思いをしながらもイエス様のことを伝えて下さったのです。そして今、このように私たちのところまでイエス様の救いが伝えられて来ています。

 自分に一体何が出来るの?と思うかもしれません。でも、きっとお弟子さんたちだってそう思ったことでしょう。私たちがイエス様のことを話しても、聞いてくれる人は限られているかもしれません。そもそも話せないよ、という人もいるかもしれません。出来ることからでいいのです。まずは伝えたい人のためにお祈りしましょう。またコロナで集会があまり出来ないですが、可能になったら教会に誘ってみましょう。

 イエス様は地上を去るとき、約束を残して下さいました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」という約束です。今イエス様は目に見えません。でも、私たちが弟子として歩もうとする時、イエス様は近くにいて助けて下さいます。イエス様に毎日助けて頂きながら、弟子の一人として歩んでいきましょう。

<祈り>神様。私はイエス様を信じています。弟子になってそのみことばに従って歩んでいきたいです。どうぞ近くにいて助けて下さい。また周りの人たちに少しでもイエス様を伝えさせて下さい。宣教師の先生たちにも協力し、世界への福音の広がりを祈って行きます。一人でも多くイエス様を信じる人が起こされますように。御名によってお祈りします。アーメン。

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」  マタイの福音書28章19節

<適用>

 勇二師そして私たち家族が小川教会に赴任して3年目に入りました。思えば緊急事態宣言によりすべての集会が中止という、特殊なスタートでした。出来ることなら出会いの最初に、信仰の証をする機会があると良かった、と思います。そこで今日は、私が信仰に導かれた証を短くさせて頂こうと思います。

 私が初めて教会に足を運んだのは中学3年生の時でした。私は父を10歳の時に亡くしており、母子家庭で過ごしていました。しかしその年、母が再婚して引っ越しと転校をしました。当時の大宮市から桶川市への引っ越しでした。知る人もいない土地、友達のいない学校、新しい家族。私は新しい生活になじめませんでした。だんだんと心を閉ざし、学校にも行きたくない、自分の居場所はどこにもない、と絶望していたのです。
 しかし中3は受験生です。進路を切り開かなくてはなりませんが、私にはそんな心のエネルギーはありませんでした。「このままでは私はダメになる」と、中学生ながらに危機感を覚えました。そんな時わらにもすがる思いで手に取ったのが、家の本棚にあった新約聖書でした。それは亡き父が大学生の時に学校でもらったギデオン寄贈の和英対訳聖書でした。しかし私はそれを読みこなせませんでした。何故かというと、日本語は文語訳、英語はキングジェームズバージョンという、どちらに転んでも読むのが困難な訳だったからです。「教会に行けば聖書を教えてくれるのではないだろうか」。そう思うようになりました。

 友達はいませんでしたが、中学校の委員会で隣に座った子に「近くに教会はある?」と聞きました。すると彼女は「教会に行っているよ」と言って、とんとん拍子に教会に行く約束が出来たのです。すでに神様のご計画が用意されていたのでしょう。
 私が行ったのは福音伝道教団の桶川キリスト教会でした。植木武先生が出迎えて下さいました。私は胸の中の思いを聞いてもらいました。会話の内容は残念ながらよく覚えていません。しかし今でも覚えているのは最後の祈りの言葉です。「神様、関さんを教会に送って下さりありがとうございます。」私はこれに大きな驚きを覚えました。突然やってきた中学生の話を嫌がらずに聞いてくれて、私が来たのは神様が導いた、と言っている。受け入れられていると感じ、ここに自分の居場所があると思うことが出来たのです。

そこから教会に通うようになり、夏のバイブルキャンプで信仰の告白をしました。その年の秋に洗礼をうけさせて頂きました。イエス様の与えてくれる希望を頼りに、私はこれまで歩んでくることが出来ました。私が導かれたいきさつは以上の通りです。あの時教会に行っている子に出会えなければ。桶川教会がなかったら。植木先生を信仰に導いてくれた方がいなかったら。福音伝道教団がなかったら。どれが欠けても、私は信仰を持つことが出来ませんでした。その背後に大きな神様のご計画と恵みがあったことを確信し感謝しています。

 さて今日の聖書箇所は、「大宣教命令」とも呼ばれる箇所です。復活され天地すべての権威を与えられたイエス様の、弟子たちへのお言葉です。これは11人の弟子たち個人へというより、後に彼らに続く教会に与えられた使命と言えましょう。
 実はこの箇所を良く読むと、ギリシャ語では命令形は一つだけ「弟子としなさい」というものです。しかも、「自分に従う弟子」作りではなく、主イエスを信じお仕えする「イエス様の弟子」作りが命じられているのです。そのためになすべきことをイエス様は示されました。順に学んでいきましょう。

1.行きなさい

 文法的なことを言うと、大元の命令形に掛かる形で3つの「分詞」が用いられています。1つ目は「行きなさい」です。
 あらゆる国に十字架の救いを伝えるように、というのがイエス様の命じられた教会の使命です。イスラエルから始まって今この日本に伝わって来ているのは、代々の教会が使命を果たして来たからです。聖書にこのように言われています。

「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。…『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」(ローマ10章14-15節)

 私たちも福音宣教の恩恵を受けた者として、私に出来ることをもって伝えに出ていくことが大切です。コロナ禍は人と人との繋がりを疎遠にしてしまいました。心も内向きになる傾向があると思います。しかし「出ていく」マインドを新たにしたいと思います。主の導きを求めながら、前を向いて証に出て行こうではありませんか。

2.バプテスマを授けなさい

 2つ目は「彼らにバプテスマを授けなさい」です。バプテスマとは「水に浸す」という意味で、キリスト教会では信仰告白の儀式として「洗礼」とも呼ばれます。イエス様の時代にはいくつかのバプテスマがありました。例えば異邦人がユダヤ教に改宗するバプテスマ、また、バプテスマのヨハネによる悔い改めのバプテスマがあります。しかしイエス様は「父、子、聖霊の名において」と言われました。三位一体の神様との親しい交わりに生きる、という意味です。

 ある方はこれを霊的な披露宴だ、と表現しました。信仰告白を結婚に例えると、バプテスマは披露宴だというのです。今はコロナ禍でもあり価値観も多様化していますので、披露宴を必ず行うわけでもないでしょう。しかし夫婦になったことを公表し周知するのは、大きな意味と相手への誠実さがあります。

 またバプテスマは霊的な誕生日に例えられます。赤ちゃんが何も出来なくても、誕生そのものが家族の喜びです。私は中3で洗礼を受けた時、「一人の罪人が悔い改めるなら、天のみ使いたちに喜びが沸き起こる」というみ言葉が思い起こされました。天国から「誕生おめでとう!」という歓声が聞こえるような気がしました

 私はこの礼拝に参加している、洗礼はこれからの方に申し上げたいと思います。あなたはイエス様を信じていますか?「はい、信じています」が答えなら、洗礼を受けましょう。まだ早い?まだ未熟?そうかもしれませんね。でもバプテスマを授けるのは、教会へのイエス様のご命令です。教会は授け続けるべきであり、信じるあなたは受洗を志して良いのです。どうぞ洗礼のためにお祈りしてください。また牧師先生や教会学校の先生に相談して下さい。十分な準備を経て、平安を持って洗礼を受けられるように、助けてもらえます。その日が近いこと、できれば今年、来年、と受洗者が起こされることを心から願っています。

3.教えなさい

 最後にイエス様がおっしゃったのは「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」でした。
 先ほどバプテスマは霊的誕生日だと申しあげました。しかし赤ちゃんは、いつかは立つ、歩く、話すなどふさわしく成長することが必要です。クリスチャンも同様です。最初は霊的に幼くても、自我や罪の性質を聖められながら、成長することが必要なのです。そのために教会で大切なのは聖書を教えるということです。みことばを学び続けることで、私たちはイエス様の弟子として生涯成長することが出来ます。成長が止まるとしたら、「もう十分、学ぶ必要はない」と慢心した時、教会が教えなくなった時でしょう。聖書を共に学ぶことは、弟子作りであり自分が成長することでもあります。愚直にみことばを学んで参りましょう。

 最後に素晴らしい約束を確認して終わりたいと思います。「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」(マタイ28章20節)思えば降誕の時から主はインマヌエル(=神が人と共におられる)」と呼ばれました。それは世の終わりまで変わらないのです。感謝です。主の助けを仰ぎながら、この使命に努めて参りましょう。

<祈り>
 神様。主の宣教命令を学ばせて頂きました。聖霊の御力、イエス様の臨在によって教会を強めて下さい。そして、伝えに行き、育ててバプテスマを授け、成長のためにみことばを教え続ける営みを果たさせてください。御名によってお祈りします。アーメン。