2022年5月1日(日)礼拝説教 ルカの福音書5章27-32節 「招き救うイエス」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 新しい学年が始まって1か月が過ぎようとしています。クラスでは「係り決め」などをしたでしょうか。皆は、どんな係りとなりましたか。これからの学校の行事の中でクラスを代表して選ばれるという事があるかもしれませんね。特別に選ばれたりすると嬉しいものです。
 今日は、イエス様に選ばれて弟子となったマタイのことを見て行きましょう。ルカの福音書では「レビ」と言われていますが、12弟子の一人の「マタイ」のことで、皆は、その名前のほうを憶えていると思うので、「マタイ」と呼ぶこととしましょう。

 カペナウムという町の近くでマタイは、ある仕事していました。彼の仕事は、取税人です。人々から税金を集める仕事です。福音書の中には、「取税人」がもう一人でてきますね。誰か知っていますか?そう「ザアカイ」ですね。当時の取税人は、決められた金額以上に取り立て、余ったお金を自分のものとして人々を苦しめていました。だから、ザアカイもマタイも取税人であるために、同じユダヤ人から嫌われ、寂しい思いをしていたのではないかと思います。「自分は、たくさんのお金を持っているから生活には困らないし、贅沢な生活をすることができる。でも皆には嫌われているし、ユダヤ人の仲間には入れてもらえない。それも仕方ないか、だって皆をだまして税金を取り立てているんだから」なんだかマタイは、何不自由なく生活できるのに寂しそうです。

 そんな思いを抱えていたマタイは、イエス様のうわさを聞いていました。そしてマタイは、イエス様に会いたい、話を聞いてみたいと思っていたのではないでしょうか。ある日、イエス様がマタイを見つめました。そしてイエス様は、「わたしについて来なさい」と驚くような言葉をかけました。マタイも「はい。喜んで!!」とこれまた驚く反応をするのです。マタイは、すぐに何もかも捨てて従いました。マタイは、イエス様に声をかけられてすごくうれしかったでしょうね。

 このマタイの嬉しさを現すかのように、彼は、その晩盛大なもてなしをしました。マタイは、盛大なもてなしに、取税人仲間を集めていたのです。それを見ていたユダヤ人の指導者であるパリサイ人たち、律法学者が「どうしてあなたがたは、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのか。ユダヤ人は、あんな罪人たちと一緒に過ごしたりしてはいけないのだぞ」と他の弟子たちに文句を言いました。イエス様はそれを知って、答えます(ルカ5:31‐32)。32節を一緒に読みましょう。

 イエス様は、「どうしてそんな思い違いをしているのです。医者を必要とする人は健康な人ではなく、病気の人でしょう。同じように神様の救いを必要としているのは、自分は正しと思っている人ではなく、自分の罪を知り、赦してもらいたいと願っている人だ。」と言ってくださいました。
 皆は、風邪をひいたり、けがをしたら、すぐに病院に行くでしょう。お医者さんは、僕たちよりも体の事を知っていて、必要な手当てをすることが出来るし、どんな薬を飲めばよいかも知っています。でももし僕たちが、風邪をひいているのに、自分は大丈夫と強がって病院に行かなかったら、もっと悪くなりますよね。パリサイ人たちは、自分たちは律法を守っているし、取税人のように間違ったことはしていないから、自分たちは正しい、罪はないと考えていました。でもパリサイ人たちは、神様の前に罪があり、神様の救いを必要としていることに気づいていませんでした。

 イエス様は、誰よりも僕たちの心の内側の問題を知っています。そしてイエス様は、僕たちをご自身の救いに招いてくださり、心から「ごめんなさい」と悔い改める人の罪を赦してくださるのです。そのためにイエス様は、十字架にかかってくださったのです。
 今もイエス様は、皆を招いてくださり、罪を赦し、救いを与えてくださいます。イエス様の救いを信じて、罪の赦しを頂きましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、僕たちを招いてくださることを感謝します。僕たちの罪を赦してくださることをありがとうございます。
 ゴールデンウィークになり休みが続きます。この休みの期間、子どもたちが守られ、楽しく過ごすことが出来るように守ってください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
                            ルカの福音書5章32節

<適用>

 私たちは、様々な出会いを通して人生を歩んできます。学校の先生との出会いが大きな影響を与えることがあります。私は、小学校の時の担任の先生が、「将来、牧師になる」という私の一言をしっかりと受け止めてくれたことで、応援されている気持ちになりました。また学校での出会い、クリスチャンとの出会い、伴侶との出会いが私たちの人生には大切な事となります。私たちは、人との出会いが、神様によって素晴らしい瞬間となるように祈り求めましょう。
 マタイは、イエス様との出会いによって、生き方、人生の価値観が変わりました。

Ⅰ;イエス様は招いておられる

 イエス様は、私たちを招き救うお方です。もう一度マタイについて振り返ってみましょう。ルカは、「レビ」と紹介します。マルコの福音書にも「レビ」として登場します。恐らく「レビ」と言う名前が本名で、「マタイ」と言うのはイエス様から与えられた名前だと思われます。このマタイが、マタイの福音書を書きました。「マタイ」という名前には、「神の賜物」と言う意味があります。まさにマタイは、イエス様と出会い、イエス様に招かれ、神の賜物を受けて人生が180度変えられた人物です。

 マタイが取税人として仕事をしていた場所は、カペナウム近郊だったと考えられます。カペナウムは、イエス様が宣教の拠点を置かれた町です。イエス様の弟子のペテロ、アンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟が漁師をしていた場所であり、彼らがイエス様の弟子となったことは、町の中で話題となったのではないでしょうか。それだけではなく、カペナウムでは、イエス様の働きやイエス様が行う多くの奇跡、力あるみわざに関するうわさが広がっていたのです。マタイは、収税所に座りながら、人々からの情報を集め、イエス様の事を知っていました。既にマタイの心の寂しさについては触れましたが、マタイは、イエス様のうわさを聞くにつけ、自分の心の空しさを感じていたではないかと想像します。

 ある時イエス様一行がマタイの座っている収税所の近くを通る瞬間がやって来ました。ルカは、この時「レビという取税人に目を留められた」あります。これは、ただ「見る」という事ではなく、「凝視する、じっと見る」という意味があります。イエス様は、マタイが収税所に座って仕事をしている姿をじっと見ておられたのです。そしてイエス様は、マタイの心の内側の思いを知ってくださったのです。イエス様はマタイに近づき、一言「わたしについて来なさい」と声を掛けました。既にペテロたち数人がイエス様に従っていたので、彼らは、「どうしてイエス様は、取税人に声をかけるのだろうか」と驚いたのではないでしょうか。と同時に取税人のマタイの答えにも驚いたと思うのです。イエス様に声をかけられたマタイは、その瞬間何もかも捨てて従って行くのです。弟子マタイの誕生の瞬間です。マタイは、取税人として働き、成功していた人物です。そのマタイが、収税所の席を立ちあがってイエス様に従うという事は、仕事を失い、戻る席がなくなることを意味します。それでもマタイは、躊躇なくその場を離れてイエス様に従いました。イエス様がどうしてマタイを選び、声をかけたのか理由は分かりません(聖書は何も語っていません)。マタイがどうしてすぐにイエス様に従ったのかも理由はわかりません。しかしはっきりしていることは、イエス様が、マタイを招いてくださったと言う事実とマタイが応答したという事実です。

 マタイがすぐにイエス様の招きに従ったという事は、彼にはイエス様に従う準備が出来ていたという事です。これは、イエス様の単なる声掛けではなく、イエス様の言葉と姿には人を心の内側から変える力があるというこという事ではないでしょうか。こうしてマタイは、イエス様の弟子となることによって新しい、希望に満ちた人生が開かれました。そしてマタイの福音書を書く者とされました。

 イエス様は、私たちの人生を変える力を持っています。イエス様は、私たち一人一人をご自身のもとに招いておられます。その招きとは、「わたしについて来ない」というものです。私たちは、イエス様を信じて従うようにと声をかけていただき、導きを受けることが出来ます。またイエス様は、私たちの心の内側の思い、問題、罪の全てを見て知ってくださり、「わたしのところに来なさい」と招いてくださいます。皆さんは、心の耳を澄まして、イエス様の招きの声を聞いているでしょうか。

Ⅱ;イエス様は罪を赦し、救いを与えてくださる

 イエス様は、私たちを招くだけではなく、私たちの罪を赦し、救いを与えてくださるお方です。
 マタイは、イエス様に従うようになった時すぐに、自分の家にイエス様たちを招いて、盛大なもてなしをしました。そこには、取税人仲間が大勢集まっていました。そのメンバーは、ユダヤ人であるパリサイ人や律法学者たちから見たら「取税人や罪人たち、ユダヤ人とは交わりを持たない異邦人たち」でした。パリサイ人たちは、旧約の律法を守っているという自負があり、汚れを受けないようにと異邦人や罪人と言われる人たちとかかわりを持っていませんでした。だからユダヤ人の教師と言う立場にあるイエス様が、取税人たちと一緒に食事をしていることが理解できなかったのです。そこで彼らは、イエス様の弟子たちを呼び止めて、「どうしてあなたたちは、そんなことをするのか」と不平を言うのです。その言葉に対してイエス様は、素晴らしい答えをしてくださいました。

 イエス様の言葉(ルカ5:32)をもう一度読みましょう。ここでイエス様が言われう「健康な人」は、「パリサイ人たちや律法学者たち」を表しています。「病人」は、「取税人・罪人たち」のことを表しています。そして「医者」は、イエス様の事を表しています。イエス様は、何を言おうとされたのでしょうか。医者の治療を必要としているのは、当然、健康な人ではなく病気の人です。私たちは、風邪をひいたら、それを認めて病院に行きます。それは、適切な治療を受けるため、風邪を治すためです。

 私は、20年以上前の事になりますが、独身の頃、年に数回高熱を出すことがありました。私は、しっかり布団に入り、汗をかけば熱が下がり、風邪が治ると考えていました。そして薬局に行き風邪薬を買って、その薬を飲み布団に入り汗をかきます。しかし2日経ってもあまり良くなりません。そこで私は、仕方なく病院に行きます。病院でお医者さんに症状を話すと、すぐにインフルエンザの検査がされました。「私は、風邪薬を飲んだのに、どうして治らないのですか」と尋ねました。すると医師は、検査結果を説明しながら、「そりゃあ治らないよ、インフルエンザだったんだから」と話してくれるのです。そして「適切な時にちゃんと受診して薬を飲まないとだめです」と教えてくれました。

 私たちは、「医師と病気の人」と言う関係は、分かります。では、「イエス様と私たち」との関係は、どのような事なのでしょうか。イエス様の救いを必要とする人たちは、自分は正しいと思い込み、罪を認めない人ではなく、自分には罪があり赦しが必要だと認めた人です。イエス様は、正しい人ではなく、罪人を招くために来たと言われました。実は、このイエス様の言葉は、その場にいたマタイや取税人仲間だけではなく、パリサイ人たちを含めて、イエス様の言葉を聞いていた全ての人に向けて語られた言葉です。聖書は、神様の教えから離れ、神様の基準から外れることを「罪」だと教えています。この世には、聖書が示す神様の教えに100%従って正しく、罪を犯すことなく歩める人は一人もいません。イエス様以外にあり得ないことです。その意味で全ての人は、罪人なのです。人は、神から離れ、見るべき神様を見失っているので、神様の愛を知らず、神様を無視し、神様に背を向けているのです。皆さんは、いかがでしょうか。

 パリサイ人たちは、自分の罪を認めない人たちでした。彼らは、自分たちは律法を守り、正しく生きているという自分勝手な価値観を持ち、自己満足し他の人を見下し、自分を正当化していたのです。彼らは、神様の愛からかけ離れ、聖書が教えている神様の御心、価値基準を無視していました。その意味で彼らは罪人でした。しかしパリサイ人や律法学者たちは、イエス様を救い主と認めることが出来ず、神様の救いからも遠く離れていくこととなりました。

 一方、マタイはどうだったのでしょうか。彼は、自分が神様から離れ、自分勝手で自己中心で、罪人であることを認めていました。そしてそのような状況から離れて、抜け出し、救いを得たいと求めていたのです。イエス様から声をかけて頂いた時、マタイは、救いの道を見出したのです。だから全てを捨ててイエス様に従うことが出来ました。彼の人生は、お金があり、社会的な地位があれば、それで良い、大丈夫という人生から、イエス様が全て、イエス様を信じて、イエス様に導かれる人生へと180度変えられたのです。

イ エス様は、「罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と言われました。悔い改めると言うのは、180度の方向転換を意味します。イエス様は、私たちが自己中心で、神様に背を向け、人生の光を見失っている状態から向きを変えるようにと招いておられます。皆さん、どうして私たちは、暗闇だと思おうような人生を経験するのでしょうか。それは、光である神様に背を向けているからです。光に背を向けると見えるのは、自分の陰しかありません。それが罪の世界です。イエス様は、何もないような、暗闇の人生ではなく、神様の光の中を救いと平安を得て歩むようにと私たちを招いておられます。そのためにイエス様は、人となってこの世に来てくださり、十字架にかかって救いの道を開いてくださったのです。

 私たちは、神様に背を向けてしまう罪人です。私たちは、自分で自分を救うことが出来ず、神様の前に正しく歩むことも出来ないという自分の罪を認めましょう。そして私たちは、イエス様の救いが必要であり、神様の愛が必要であり、神様の導きが必要であることを素直に認めましょう。私たちは、神様に背を向けることを止め、罪を悔い改めて180度方向転換をしましょう。イエス様は、私たちを受け入れ、救いを与え、愛と導きの御手を指し伸ばしてくださいます。
 イエス様は、あなたをご自身の救いに招いておられます。マタイが躊躇せず従ったように、私たちも迷うことなく、イエス様の救いにすがり、罪を告白し悔い改めて救いを受けましょう。イエス様は、あなたの心を栄光の光で照らし、平安を与えてくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、私たち一人一人を招いてくださり、救いを与えてくださることを心から感謝します。私たちは、神様に背を向け、自己中心で、神様の愛に気づかない罪人です。神様、私の罪をお赦し下さい。私たちは、イエス様の招きに答えて、罪を悔い改め、180度向きを変えて歩みます。どうぞ神様、私たちが神様の光の中と神様の愛と平安の中を歩むことが出来るように導いてください。
 戦禍の中にあるウクライナを始め、世界各地の紛争が終り、神様の愛と平和が実現しますように助けてください。世界ではコロナ禍も続いています。この感染症が1日も早く収束するようにとお願いします。
 神様、私たち一人一人の日々の歩みをご自身の御手に支えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」