2022年5月15日(日) マタイの福音書14章22-33節 「主を呼び求めよう」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、自転車に乗っていて、力いっぱいペダルを漕いでいるのに向かい風のために、なかなか前に進まないという経験をしたことがあるでしょうか。時には横風が吹いて倒れそうになることもあるかもしれませんね。イエス様の弟子たちは、ガリラヤの湖で舟に乗っていて、強風のために大変な思いをしたことがありました。

 イエス様の周りには、いつも大勢の人たちが集まって来ました。イエス様は、その人たちに御言葉を語り、神様の事を教えておられました。ある日、ガリラヤという大きな湖の近くでイエス様は、群衆を教え素晴らしい奇跡を行われました。話が終り群衆を解散させる時には、余りに大勢だったので、時間がかかりました。イエス様は、弟子たちを先に舟に乗り込ませてガリラヤ湖を渡るようにと出発させます。そしてイエス様は、群衆を説得して解散させました。そして群衆が帰った後、イエス様は一人で祈るために山に登って行かれました。

 さて、舟で出発をした弟子たちは、そのあと思いもよらない出来事に遭います。「おーい皆、大丈夫か?」「波が高くて大変だけど、しっかりと漕いでくれ」「おれは、船の水をかきだすぞ」弟子たち一人一人大声で声を掛け合って協力しています。出発した時には、湖の水は穏やかだったのに、だんだん風が強くなって来て湖の真ん中くらいまで来た時には、強風のために舟は前に進むことが出来なくなったのです。「しっかり何かにつかまって湖に落ちないようにしよう」と皆必死になっています。時間は、真夜中です。

 すると荒れ狂う湖の中を何か人影のようなものが通り過ぎようとしています。あたりは強風が吹き、舟を呑み込むほどの大きな波です。しかも真っ暗闇です。突然の事で、「幽霊だ!!」「ぎゃー助けて」弟子たちは混乱し、ある者は叫び声を上げました。水の上を人が歩くなんで考えられませんからびっくりしますよね。しかし、荒れ狂う水の上を歩いているのは、幽霊ではなく、イエス様でした。イエス様はすぐに舟にいる弟子たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくれました。イエス様は、弟子たちが嵐のために大変なの見て、水の上を歩いて近づいてくださったのです。
「あーぁイエス様だ。良かった」口々に言う弟子たちの中でペテロは、「イエス様、もし本当にあなたでしたら、私に水の上を歩かせてください。イエス様がそのように命じてくだされば、自分はイエス様と同じように水の上を歩くことが出来ます。」ペテロは、目の前の人がイエス様であるということを確かめたかったのです。

イエス様は、「分かった、では、ここまで来なさい」と言われました。ペテロは、舟から身を乗り出して一歩足を踏み出してみました。イエス様と同じで沈みません。ペテロは、二歩三歩と進みイエス様に近づきます。「イエス様を見ていれば大丈夫。これでいける。」そう思った時、ペテロは吹き付ける風や波を見てしまったのです。そしたら急に怖くなってしまいました。その瞬間、「わー。沈む。イエス様助けてください!!」と叫びました。そう、ペテロは、イエス様から目を離した瞬間に沈んでしまったのです。
 イエス様は、すぐに手を伸ばしてペテロを助けてくださり、舟まで一緒に進んでくださいました。イエス様が舟に入った時、嵐はおさまり、風はやみました。イエス様は、ペテロに対して「どうして疑ったんだい。わたしから目を離してはいけないよ」と優しく教えてくれました。

 イエス様は、この事を通して僕たちがこれからの人生をどのように生きて行けるのかを教えてくださっています。僕たちの人生には、実に多くの事が起きます。皆は、辛い事、悲しい事、大変な事色々あると思います。その時僕たちは、いつもイエス様に助けを求めることが出来ます。イエス様はいつも僕たちの手を握ってくれて助け、守ってくれます。だから、僕たちは、イエス様を信じてイエス様から目を離さないで歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペテロは、イエス様を見つめている時は水の上を歩くことが出来ました。でもイエス様から目を離した瞬間に沈んでしまいました。
 イエス様、僕たちがいつもイエス様を信じつつけ、イエス様から目を離すことがないように助け導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「イエスはすぐに彼らの話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。
恐れることはない』と言われた。」  マタイの福音書14章27節

<適用>

 私たちは、毎日の生活の中で起ってくる出来事について、いろいろと対策を考えて備えます。そして物事の展開を見守りながら、事にあたります。私たちが経験する多くのことは、自分が経験した事柄から学んだ対処方法で何とかなるものだと思います。けれども時々私たちは、想像もしていない展開を経験することがあります。コロナ禍はまさに、その突発的な事ではないでしょうか。私たちは徐々に対応策を身に着けることが出来ているように思いますが、まだまだ出口は見えない状態です。私たちの人生には、そのような突発的な出来事が起るものです。私たちは、そのような事柄に対してどのような対処方法をとる事が出来るのでしょうか。今日開いた聖書個所から私たちは、一つの素晴らしい方法を見出すことが出来ます。それは、私たちは主を呼び求めることが出来るということです。そしてこの対処方法は、人生の嵐の時だけではなく、普段の生活の中で当てはめることが出来ます。

Ⅰ;イエス様の御声を聞く

 私たちは、どんな時でも主を呼び求めましょう。そのためには、まず、イエス様が私たちに語りかけていてくださることを知り、そのイエス様の御声を聞くことが大切です。
 イエス様は、どうして弟子たちだけを先に舟に乗りこませたのでしょうか。実は、この日イエス様は、手元にあった5つのパンと2匹の魚を祝福され、男性だけでも5千人の人たちに与えたという奇跡を行われました。男性だけでも5千人ですから女性や子どもなどを含めると1万人くらいいたでしょうか。その人たちにイエス様は、食事をさせたのです。それを経験した群衆は、イエス様をローマの圧制からイスラエルを救い出す王として、イエス様を担ぎ上げようとしました。これは神様の計画ではないし、イエス様の願っていることでもありません。おそらく弟子たちは、この騒動に巻き込まれそうになったのだと思います。そこでイエス様は、弟子たちだけを舟に乗りこませ出発させるのです。こうしてイエス様は、群集を解散させて、ご自分は祈るために山に登って行かれました。

 その後、予想していない事態が弟子たちを襲います。何と彼らの乗っていた舟が、向かい風のために波に翻弄され思うように進まないのです。弟子たちの中には、ガリラヤ湖の漁師がいます。彼らは、ガリラヤ湖のことは知り尽くしています。それにもかかわらず、対処できなかったのです。弟子たちが出発したのが夕方で、夜中の3時ごろまで(午前3‐6時:マルコ6:48)、ですから、彼らは一晩中嵐にもまれたことになります。疲れ果てた弟子たちは、湖の上を歩くイエス様の姿を見ました。でも彼らは、嵐に心を奪われてしまい、イエス様だと気づかず、幽霊だと思い込んでしまうのです。うろたえている弟子たちにイエス様が、近づいて「わたしだ、恐れることはない」と言ってくださいました。この言葉を聞いたとき弟子たちが、安心してホットひと息ついたのは言うまでもないでしょう。

 私たちが、人生の嵐を経験する時も弟子たちと同じような状態になるでしょう。私たちは、当然、直面する出来事に懸命に対処しようと奮闘します。でも私たちが何をしても空回りで、どうにも手の打ちようがないということがあります。そのような状態の時私たちは、聖書を読んでいても御言葉が心に響かず、祈ることが出来なくなり、イエス様の御声を聞けなくなります。私たちは、そんなことをしている余裕がないと思うでしょう。
 けれどもそのような時、嵐の中で弟子たちに近づいて声をかけたイエス様のことを思い出す必要があります。イエス様は、私たちが経験する人生の嵐の中で、私たちに近づいて「わたしだ。恐れるな」と御声をかけてくださるのです。だから私たちは、主を呼び求めることが出来るのです。私たちは、このイエス様の御声を心を静めて聞き取っていきましょう。

Ⅱ;イエス様を見つめる

 私たちは、主を呼び求めて歩むことが出来ます。その時私たちは、イエス様を見つめて一歩を踏み出すのです。イエス様が「わたしだ、恐れることはない」と言った時、ペテロがある行動を起こします。ペテロは、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」とイエス様にお願いしました。彼は、目の前の人物が幽霊ではなく、確かにイエス様であることを確認したかったのだと思います。何とも大胆なことですが、イエス様はペテロの申し出をお許しになりました。人間には、水の上に立つことは不可能で、ましてや水の上を歩くなど出来るわけがありません。けれどもペテロは、「来なさい」と言われたイエス様を信じて信頼して水の上に一歩踏み出すのです。彼は、ただただイエス様だけを見つめて一歩ずつ確実に歩き出したのです。けれどもペテロは、自分に吹き付ける突風に心を奪われ、イエス様から目をそらしてしまいました。それはペテロの心(信仰)の動揺を表しています。彼は、イエス様を信頼してイエス様を見つめるのではなく、周りの状況を見て、このまま水の上を歩くのは無理かもしれないと思ってしまったのです。その瞬間、ペテロは湖に沈みかけイエス様に助けを求めます。イエス様の言葉からペテロが、イエス様を疑ったことを知ることが出来ます。ペテロが最後まで歩き続けるには、イエス様だけを見つめていることが必要だったのです。

 皆さんは、一本の線の上を歩こうとしたことがあるでしょうか。または自転車でまっすぐ進むもうとしたことがあるでしょうか。私たちは、まっすぐ進むコツを知らないと、思うように直進できないものなのです。綱渡りをする人は、綱の上でバランスを保ちながら、自分が目指すべき場所をしっかりと見ていると言います。だから一本の細い綱を渡ることが出来るのです。一本線の上を進もうとする時私たちは、自分の足元ではなく、その線の先を見ていないとよろけてしまいます。一本線の先から目をそらして周囲を見てしまうと、すぐにその線から外れてしまい、バランスを失ってしまいます。
 これは人生でも同じです。私たちが、何を見ているのかでその人生の進み方が決まってしまいます。もし私たちの心が、様々な事柄に支配され、多くの事柄に心の目が奪われ視点が定まらなければ、そのような人の歩みは、波にもてあそばれる舟のように安定感のない人生となります。そしてペテロのように私たちは、人生の嵐の中で沈みかけてしまいます。

 でも考えてみてください。ペテロは、イエス様を見つめている時は、順調に水の上を歩いていたのです。私たちがいつもイエス様を見つめているなら、私たちはまっすぐ進むことが出来ます。様々なこと、突発的な出来事で揺れることがあっても私たちの心の目が、イエス様を見つめていれば、安定感を失うことはありません。けれどもいつも、そのように出来るわけではないでしょう。イエス様から目を離してしまうこと、沈みかけ慌てることがあります。でも心配はいりません。ペテロは、イエス様を疑ってしまい沈みかけた時、「主よ。助けてください」とイエス様に叫び求めました。イエス様は、すぐに手を伸ばして引き上げてくださいました。同じように私たちが人生の嵐の中でイエス様を呼び求めるならば、いつでもイエス様は手を指し伸ばして私たちを助け、導いてくださいます。私たちは、主を呼び求めつつ、イエス様を見つめて歩みましょう。

Ⅲ;イエス様がおられる

 私たちは、主を呼び求めましょう。イエス様は、私たちと共におられます。弟子たちは、イエス様を舟に迎えたとき、風が止み目的の地に着くことが出来ました。イエス様がおられることの何と安全なことでしょうか。弟子たちは、驚きながら、イエス様とともに歩むことの素晴らしさを知ったことでしょう。

 私たちもイエス様が、私たちとともにおられるので、安心してイエス様にお任せすることが出来るのです。もう一度嵐の中でイエス様が、弟子たちに言った言葉を見てください。イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない(マタイ14:27)」と言われました。この「しっかりしなさい」という言葉は、「安心しなさい。元気を(勇気を)出しなさい」という意味があります。イエス様は、私たちに「しっかりしなさい。安心していいよ。勇気もって元気を出しなさい」と言ってくださるのです。皆さんは、このイエス様の言葉を聞いていますか。私たちは、イエス様が「わたしだ」と言って近くにいてくださるから、安心して、イエス様を信頼して元気を出して人生を送ることが出来るのです。私たちは、どんなに厳しい嵐のようなことがあっても、イエス様が一緒にいてくださるので、恐れる必要がないのです。

 どうしたらそんなことが分かるのでしょうか。イエス様がいるなら人生の嵐なんかないほうが良いのではないかと思うかもしれません。イエス様とペテロの姿をもう一度確認しましょう。ペテロは、嵐の中でイエス様を見つめて水の上を歩いたのです。ペテロは、嵐の中でイエス様を疑い、不信仰によって沈みかけました。ペテロは、嵐の中でイエス様の手が伸ばされ、荒れ狂う水から引き揚げられました。そしてイエス様は、嵐の中でペテロと一緒に舟へと進んだのです。これは全て嵐の中で、荒れ狂う波の中での出来事です。

 私たちは、人生の嵐、突発的な出来事を避けることは出来ません。でもイエス様は、そのような状況の私たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言って近づいてくださいます。そう言ってくださるイエス様は、永遠に生きておられるお方です。イエス様は、私たちのためにいのちを捨てて救いの道を開いてくださったお方です。イエス様は、私たちを愛し、常に私たちのために執り成していてくださるお方です。私たちは、人生の嵐の中で、イエス様を見つめ、イエス様の言葉を聞き、祈りながら歩むことが出来ます。私たちは、様々な出来事の中で「主よ。助けてください」と呼び求めることが出来るのです。イエス様は、手を伸ばして引き上げてくださいます。そしてイエス様は、私たちが嵐と思うような出来事の中を一緒に進んでくださるのです。私たちが、イエス様を信じて、祈り求め、イエス様に委ねて歩むなら、イエス様によって私たちの人生に平安が与えられます。主を呼び求めましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、私たちにいつも「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と声をかけてくださることを感謝します。イエス様が、私たちの経験する人生の嵐の中を一緒に進んでくださり、手を取り、支えてくださる事を信じます。私たちは、いつでも、どんなときでも「主よ。助け手ください。導いてください」と祈り、主を呼び求めることが出来る幸いを感謝します。神様、私たちの日々の歩みを祝福で満たし、神様からの平安で包み込んでください。
 神様、一人ひとりの必要を満たし、導いてください。コロナ禍が続きますが、一日も早く収束するように助けてください。世界中に神様の平和が溢れますようにとお願いします。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」