<子どもたちへ>赤松由里子師
夏休みも半分を過ぎましたね。猛暑の夏で大変ですが、ここまでは有意義な時間を過ごせたでしょうか?遊びに勉強に、残り半月がみんなにとって良い時間となりますように!
さて世界初めの教会(初代教会と言います)がどのように増え拡がって行ったかを、ずっと学んできましたね。今日はその最終回です。
絵を見て下さい。ここはエペソの町、話しているのはパウロです。パウロはアンティオキアの教会を起点に、イエス様を伝える旅を合計3回しています。先週までは2回目の旅行のお話でしたが、今日は3回目の旅行での出来事です。「皆さん、イエス様は聖書に預言された救い主です。イエス様を信じて下さい!」パウロは一生懸命お話をしました。
このころ神様は、パウロを通して不思議な奇跡を行っておられましたよ。病気の人のところに行って、タオルや前掛けを当ててあげました。「さあ、イエス様によって元気になりなさい!」そういうと病気の人は治って元気になりました。「わあ、すごい!ありがとうございます。」悪霊につかれた人も正気になりました。こういう奇跡がなされたので、エペソ中で評判になりました。
でもこうなると悪い人たちが出てきます。この人たちはユダヤ人で、スケワという祭司長の7人の息子です。色々な町を回ってはお祈りと称して商売をしていたようです。「なあ、聞いたか?イエスの名前を使うと病気も治るし悪霊も出て行くってよ。」「ほお、そうか。じゃあ試してみよう。お礼がたくさんもらえるかもしれないぞ。」
兄弟は悪霊につかれた人に向かって言ってみました。「パウロの伝えているイエスの名前によって命じる。この人から出ていけ!」するとどうでしょう。悪霊が怒ってこう言いました。「俺はイエスも知っているしパウロも知っている。だがお前たちは知らん。いったい誰だ!」そう言って兄弟たちを打ちのめし、裸にして追い出してしまったのです。
このことが広まって、エペソの人たちはみなイエス様のお名前を敬うようになりました。そして信じる人もたくさん起こされたのです。その人たちはパウロのところに来て言いました。「先生、私たちは神様に喜ばれない生活をしてきました。でももうそんな生活は終わりにして、イエス様を信じます。」
そしてその中でも魔術をやっていた人たちは、じっくり考えて「もう魔術はやめよう。神様に嫌われる生活は終わりにするんだ」と決めました。エペソではそうしたことが普通だったのです。悔い改めた人々は、広場に魔術の本を運んで来ました。「みなさん、私たちにはもう魔術は必要ありません。皆さんの前でみんな燃やしてしまいます!」そう言って本を焼き捨てました。どれも値段の高い本ばかりです。銀貨五万枚の値打ちがあったそうで、今のお金に直すと、5億円以上の価値があったと言われています。そうまでしても神様の前に聖く生きたい、という思いが与えられたのですね。
こうしてイエス様の教え(=福音)はエペソの町にも周辺にも力強く広まりました。人数だけでなく、心の奥深くまで届いていったのです。イエス様の教えを受けた私たちはどうでしょう?表面的でなく心の隅々までみことばが染み入って、神様に受け入れられる心で歩んでいきたいですね。
<祈り>
神様。イエス様を信じる人が増え拡がって、また心の奥深くまで信仰が広がった様子を学びました。私たちに届けられた福音が、私たちの心の深くにしみ通り、神様に喜ばれる心にされたいと願います。どうぞ成長させてください。御名によってお祈りします。アーメン。
「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。」 使徒働き19章20節
<適用>赤松勇二
皆さんは、つい繰り返し観てしまう映画とかドラマなどあるでしょうか。先月だったでしょうか。テレビで3週連続「バック・トゥー・ザ・フューチャー1~3」が放送されました。私は、この映画は何回か観ていますし、話の内容もある程度覚えています。けれども飽きずに観る事が出来ます。何回か観ている映画は、「あー、そうだった」と内容を思い出したり、新しい発見をしたり、前回聞き逃している言葉を確かめながら観ることが出来ます。私たちは、懐かしさに加えて、年齢や立場によって理解するポイントが違うので、様々な発見があるという事もあるかもしれません。
私は、福音宣教も同じような事があるのではないかと思います。聖書は、書物としては古いものです。けれどもその聖書の言葉が、現代の人々の心を捉えているのです。福音が、伝えられるところで、人々は、新しい発見をし、心が変えられるのです。そして私たち自身も、聖書を読むたびに新しい発見があり、新しく気づかされ信仰の応答をしています。福音が語られる時、そこにはいつも聞く人々の心が変えられ新しい応答が起きるのです。どうしてなのでしょうか。「福音が広がる時」そこには、何が起こるのでしょうか。
Ⅰ;聖霊が働かれる
「福音が広がる時」、聖霊なる神様が働かれます。だから聞く人々の心が変えられ、新しい信仰の応答が生じるのです。
まず、聖霊なる神様は、パウロの伝道旅行を導いておられました。パウロは、聖霊の導きによってアンティオキアから伝道に派遣され、各地を回り福音を伝えます。第一回伝道旅行です。第二回伝道旅行の時パウロたちは、聖霊によってマケドニアに導かれヨーロッパへの伝道の道が開かれました。この第二回伝道旅行の帰り道でパウロは、エペソに立ち寄りました。その時は短い滞在となり、パウロは「神のみこころなら、あなたがたのところに戻って来ます」と言ってエペソから離れ、アンティオキアに帰りました。
第三回伝道旅行の時にパウロは、再びエペソにやって来ました。それが今日開いた使徒の働き19章です。パウロは、確かに聖霊なる神様の導きを求めつつ、伝道活動をしていたことが分かります。しかもパウロがエペソに導かれたことは、神様のタイミングでした。使徒18章24節に伝道者アポロが出てきますが、彼は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった(25)」と言われています。アポロは、エペソでイエス様のことを伝えることが出来ましたが、「助け主の聖霊」については知らなかったのです。だからプリスキラとアキラが、アポロに福音のことをより正確教える事となりました。この様な経緯があり、エペソのクリスチャンたちの中には、福音に対する理解が不十分な人たちがいたのです。聖霊なる神様は、その欠けを補うために、パウロをエペソに導いたのです。
そして聖霊なる神様は、御言葉を聞く者に働き、信仰に導いてくださいます。パウロは、「聖霊がおらえるのかどうか、聞いたこともありません。」と答える12人に対して、バプテスマのヨハネのこと、ヨハネが予告したイエス・キリストはすでに来られて、十字架と復活によって救いが完成していることなどイエス様について話しました。当然その中でパウロは、約束の聖霊についても語ったことでしょう。聞いていた12人は、パウロの解き明かしを聞いてイエス様を信じ、「主イエスの御名によってバプテスマを受けた」のです。その時、彼らは聖霊を受けました。その印として彼らは、異言と預言を語ったのです。この事から、聖霊を受けるためには、何か特別な事が必要だとする必要はありません。エペソの場合、彼らは、ヨハネのバプテスマしか知らず、はっきりとした信仰を持つ前であり、しかも聖霊がおられることを聞いていなかったという特別な事情があったのです。
エペソの人々は、聖霊の導きの中で、パウロの語る言葉を受け入れ、信仰を明確にしました。聖霊なる神様は、今も御言葉を聞く一人一人に働き、御言葉を理解させてくださいます。また聖霊なる神様は、私たちを信仰告白へと導いてくださるのです。「また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)」と言われている通りです。
私たちは、聖霊を受け、聖霊の導きによってイエス様を信じ、信仰を持つことが出来ました。その結果私たちは、キリストの中に生かされる者となり、私たちの心の中に聖霊が住まわれるのです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい(Ⅰコリント6:19-20)。」
ぜひこのことを心に留めてください。私たちは、聖霊なる神様によって信仰告白へと導かれました。そして聖霊なる神様の導きによって福音は広がって行きます。聖霊なる神様は、パウロを用いられたように、皆さん一人ひとりを用いてくださいます。
Ⅱ;畏れが生じる
「福音が広がる時」、人々の心に畏れが生じます。これは、正しい心で主なる神様を畏れ敬い、礼拝し、仕えるということです。
パウロは、エペソに長い間滞在する事となりました。その期間の最初の頃、パウロは、ユダヤ人の会堂に入ってイエス様のこと、旧約聖書にある神の国について語り、ユダヤ人を説得しようとしました。しかし、彼らの中のある人々は、心をかたくなにして不信仰な態度を示したので、パウロは、そこから離れてティラノの講堂で論じる事にします。パウロのエペソでの伝道の大半はこのティラノの講堂で行われました。
ティラノの講堂は、ティラノという哲学者もしくは教師が使用していた講堂だと言われています。当時講堂は、学校の語源である「スコレー」と呼ばれ、時間のある人々が集まって、講義を受けたり、さまざまなことを論じ合って時間を過ごしていたのです。パウロは、ツラノの講堂を間借りして、宣教していました。ある写本によればパウロは、午前11時から午後4時まで、この講堂を使っていたと言われています。当時の習慣で人々は、日中の炎天下を避けるために午前11時から午後4時まで、休憩(昼寝などをして)をして過ごしていました。ですからパウロは、休憩時間を利用して宣教し、人々も昼寝の時間を割いてパウロの語ることに耳を傾けていたということになります。このような宣教方法が約2年続きました。その間福音は、エペソだけでなく、エペソに集まって来たアジア州の多くの人々に伝えられました。エペソは、アジア州の伝道センターの役割を果たすこととなりました。ヨハネの黙示録に出て来る7つの教会は、この第3回伝道旅行の時に誕生したと思われます。
エペソでのパウロの伝道は、言葉だけによるのではなく、驚くべき奇跡が伴いました(11)。しかしこれは、パウロにそのような力があったのではなく、神様ご自身が働かれた結果です。けれども、エペソに間違った見方をしている人たちがいました。現在でも何か不思議な事があると、それをしたその人自身に力があるかのように思われてしまいます。エペソにいた魔よけ祈祷師は、パウロの行う奇跡を魔術の一つと受けとめました。またパウロが祈る言葉を、何かの呪文の一種として聞いていたのです。この魔よけ祈祷師は、「ためしに」主イエスの御名をとなえて魔よけ祈祷を行いました。彼らはイエス様の御名を自分たちの都合の良い目的のために利用したのです。その結果は、悲劇的なものとなりました。
この出来事は、エペソの人たちを主への畏れに導きました。なぜなら、「主イエスの御名に」力があることが分かったからです。エペソの人たちは、主イエスこそ救い主であり、神様こそ礼拝されるべきお方であると知ったのです。それは、主なる神様への正しい畏れ、信仰の表明となっていきます。
今私たちは、正しい心で主なる神様を畏れ敬う信仰を持っているでしょうか。「畏れ敬う」と言うのは、天地の造り主である主なる神様を「私の神様」と信じる事です。私たちを導いて下さる神様の御力を信頼しへりくだって礼拝することです。そして「畏れ敬う」と言うのは、神様の御前に自分の罪を認めて、救いを求めることです。私たちは、そのような信仰をもって歩んでいるでしょうか。
Ⅲ;悔い改めの実を結ぶ
「福音が広がる時」、そこには、徹底した悔い改めがなされます。私たちは、心の中に隠している罪はないでしょうか。それを隠したままでいれば、そこに祝福はありません。
魔よけ祈祷師の敗北を聞いたエペソの人々は、キリストの御名を軽々しく扱うべきではない事を知り、畏れを抱き、二つの反応を示しています。
一つ目の反応は、すべてをさらけ出して罪の告白がなされたということです。人々は、そのままでは主の御前に出られない、主のみ前に自分の心を偽ってはいけないと示されたのです。また彼らは、魔よけの様な間違った信仰をもっていた事を告白するのです。それが次の反応となりました。ともかく、彼らは、様々な欲望に支配されて生きるのではなく、主を信じ、従う生き方を選び取っていったのです。皆さんの中に、告白していない罪はないでしょうか。隠すのではなく主の前に告白し赦しを得ましょう。
もう一つの反応は、実際に魔術を行っていた多くの者が、魔術をやめ、それに関する書物を焼き捨てることでした。魔術の本を持っていた人たちは、信仰に導かれて人たちです。彼らは、イエス様を信じていても、それまでの習慣をやめる事が出来ず、魔術的なことを行っていたのです。けれどもそれが愚かな事であり、神様の御前に罪であることが分かり、捨てる決心をしました。焼き捨てるという行為は、公にその教えを否定し、決別するという意味を持つ行為です。
この二つの行為の結果、エペソでの伝道は、拡大し、多くの人が信仰に導かれ教会が誕生しました。
私たちは、「さらけだして告白し」、「焼き捨てなければならない」ような、ひそかに行っている罪はないでしょうか。私たちが普段考えていること、習慣的に行っている事は、神様の御前に受け入れられ、喜ばれることでしょうか。私たちは、聖霊様の助けをいただいて心をチェックしましょう。
私たちは、今、聖霊を受けています。ですから私たちは、聖霊なる神様に満たして頂いて、信仰告白をして歩みましょう。そのような歩みを通して福音が広がって行きます。
また、私たちは、主なる神様を畏れ敬い、主イエスの御名の力を信じて歩みましょう。主への正しい畏れは、福音が広がっていく道を開きます。
私たちは、聖霊なる神様に心を探っていただき、悔い改め、捨てるべきものがないかを確認しましょう。私たちが、信仰を持って悔い改め、謙遜に主を見上げる時、福音は広がって行きます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。福音が広がる時、聖霊なる神様が働き、畏れが生じ、悔い改めの実が結ばれていきます。聖霊なる神様、パウロを用いられたように、私たちを用いてください。私たちは、正しい心で神様を畏れ敬い従います。そして私たちは、罪を告白し心から悔い改めます。私たちの悔い改めをお受け取りくださり、罪をお赦しください。
神様、教会を通して、クリスチャン一人ひとりを通して、福音が伝えられる時、主への畏れが生じ、悔い改めが行われるように助け、導いて下さい。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」