2022年10月9日(日)礼拝説教 列王記第一17章1-16節 「神の守りの御手」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>

 皆さん、イスラエルの国というと、何を連想しますか?(塩分が濃い)死海、ほこりっぽい遺跡、エルサレムの旧市街…。他にも実は、果物という答えもあります。昨日飲んだオレンジジュースの原料はイスラエル産でした。意外ですね。これは現代のイスラエルのイメージです。
 一方で皆さんがシリーズで聞いているのは、古代のイスラエルのお話です。ダビデ王の息子ソロモン王の罪がもとで、その次の代で国が2つに割れてしまったのでした。地図を見て下さい。北がイスラエル王国。ソロモン王の家来たちのクーデターで出来た、北側十部族の国です。南がユダ王国。ダビデ王の子孫が治める、南側2部族の国です。面積は同じくらいですが、多くの国民が北イスラエルに属していました。今日は北王国イスラエルのある王様の時代のお話をします。

 この人は北王国イスラエルのアハブ王です。人相が悪いですね。この人は聖書の神様を信じていません。バアルという外国の偽物の神様を拝む人でした。奥さんが外国の王女様でバアルを深く信じていたので、自分もそうしていました。アハブはバアルのための立派な神殿まで建てて、自分も礼拝しました。すると王国の人たちも「王様が拝むバアルの神様を拝もう」と、偶像礼拝をするようになりました。この王はイスラエル最悪の王様だったと聖書には書かれています。

 一方この人は誰かというと、預言者のエリヤです。神様がエリヤにおっしゃいました。「アハブ王の所に行き私のことばを伝えなさい」。何をしでかすかわからない恐ろしいアハブ王ですが、エリヤは王に会いに行って言いました。「王様、私が仕えている神様は生きておられます。国中に偶像礼拝を広めていますが、このままでは何年も雨が降らなくなります」。アハブは不機嫌になって言いました。「何だと?私のすることに文句を言うな!」そういうとエリヤを追い出してしまいました。

 その後イスラエルでは日照りが続き、雨が全く降りませんでした。するとどうなりますか?土地がカラカラに乾いて作物が育ちませんね。麦も野菜も果物も取れません。人も動物も飲み水に困ります。王様は叫びました。「これでは国中の食べ物がなくなってしまう。雨が降らないのはエリヤのせいだ!エリヤを捕まえて来るのだ!」。
 神様はエリヤに言われました。「ケリテ川のほとりに身を隠しなさい。あなたの食事はカラスに運ばせるから。」カラス…?そう、カラスです。エリヤが言われた通りに身を隠していると、朝に夕にカラスが飛んで来ました。肉をくわえているもの、パンをくわえているものもいます。エリヤに食べ物を渡すとカラスはどこかへ飛んで行きました。神様の約束通り、毎日毎日エリヤはこの食べ物と川の水を飲んで、暮らしていました。この後も、ご主人をなくして息子と暮らしていた貧しい女の人がエリヤをかくまってくれたとも聖書には出てきます。神様に信頼したエリヤを、神様は確かに守って下さったのですね。今日のみことばを読みましょう。

 「生きている」とは確かに見ておられるし聞いておられる、ということです。ご自分への信頼や背き、そうしたものに応じて報いを与えられるということです。生きた神様と共に、私たちは歩んでいます。その方にふさわしい心で歩み、神様の守りを頂いて行きましょう。

<祈り>
「神様。危険の中でエリヤを守られた様子を学びました。私はあなたが生きておられ、祈りを聞き私たちを見ておられる神様だと信じます。また守って下さる神様とも信じています。どうぞエリヤのように固く信仰を持って神様にお従い出来るようお導きください。御名によってお祈りします。アーメン。」

「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」    列王記第一17章1節

<適用>

 教会では、月に一度、土曜日に習字の練習の時間を持っています。習字の先生に来ていただいて教えてもらっています。先生には、説教題とする言葉のお手本を書いてもらい、それを見ながら書いています。私は、もっぱら練習をしていますが、他の人たちは、説教題を練習し、礼拝用に清書をしています。先生は、私が練習しているのを、見守るようにして見てくださっています。私は、「見守られながら書く」と言う状況に最初は緊張していましたが、徐々に慣れて来て、今では「見守られている」と言うことに安心感を持っています。先生は、私の様子を見ながら筆の運び方を教えてくださいます。
 私たちの人生も「見守られながら」歩むことが出来ます。私たちは、神様に見守られながら、神様の守りの御手に支えられながら、人生を過ごすことが出来ます。
 北イスラエル王国で預言者として活躍していたエリヤの姿から、「神の守りの御手」の恵みを学びましょう。

Ⅰ;混乱の時代に生きる者

 私たちには、混乱した時代に生きているとしても、神様の守りの御手があります。預言者エリヤが活躍していた時代は、まさに混乱に満ちた時代であり、国と国が侵略し合う戦国の時代でした。
 エリヤが預言者として神様の言葉を語った時代は、北イスラエル王国第7代目の王アハブの時代です。このアハブについては、Ⅰ列王記16章30節~31節で「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、バアルのために祭壇を築いた。」と言われています。このようにアハブ王は、まことの神様から離れ、積極的に偶像礼拝を行いました。そしてバアル礼拝だけではなく、アシェラ像も作って礼拝し、神様の怒りを引き起こすのです。アシェラというのは、女神として崇拝され、バアルとともに豊作の神々として崇められていました。

 北イスラエルの王アハブが積極的に偶像礼拝をしたことによって、北イスラエルの人々は、創造主なる神様から離れ不信仰に陥りました。本来なら、天地を造られた主なる神様を礼拝し、神様から与えられる祝福を享受するべきイスラエルです。北と南に分裂してしまったとは言え、北イスラエル王国が心がけるべきことは、主なる神の御言葉を聞き、従い、心からの礼拝を捧げる事だったのです。しかし、北イスラエルの初代王ヤロブアムの罪によって霊的な価値観が失われることとなりました。さらには、バアル礼拝の宗教的な祭儀には、性的な乱れが容認され、人々は混乱し、神様の教えが無視されることとなります。

 エリヤは、このような混乱の時代に神様によって用いられた預言者でした。エリヤは、アハブや国民が神様に立ち返るために、アハブの前に出て神様の裁きの言葉を告げます(17:1)。その裁きと言うのは、神様のことばがなければ数年間雨や露が降らず、干ばつになるというものでした。エリヤは、混乱と不信仰が溢れる時代にあって、神様の言葉を真っすぐに語りました。そこに神様の御手の守りがあることを確信していただからです。

 私たちの生かされているこの時代は、やはりエリヤの時代のように混乱しています。人々は、主なる神様を無視し偶像礼拝をしていて、神様の御心を求める心を持ちません。世の中から暴力はなくならず、自分さえ良ければ周りがどうなってもかまわない、という自己中心が当然の権利とされるような社会になっているように思います。それだけではなく、人々を惑わす間違った教えが蔓延しています。このような時代の中で私たちは、エリヤのように神様の言葉を語る役目が与えられています。神様にこそ救いがあり、神様だけが私たちを守り、導くお方だからです。私たちには、主なる神様の守りの御手がさし伸ばされるのです。だから、私たちは、どんな時でも神様を見上げて信じて、信頼して生きることが出来るのです。

Ⅱ;主に従う者

 神様に従う者には、神様の守りの御手が差し伸べられます。エリヤは、干ばつになるという神様の言葉をアハブに伝えました。ヨルダン川の周辺の地域に雨が降らないということですから、この干ばつの被害を当然エリヤ自身も受けることになります。そこで神様は、エリヤをヨルダン川の東のケリテ川のほとりに導きました。このことは、エリヤが干ばつから守られることを意味しますが、もう一つは、神様に背を向けているアハブの追っ手から守ることにもなったのです。神様は烏によってエリヤを養いました。
 しばらくしてその川の水が干上がってしまいました。すると今度神様は、エリヤにシドンのツァレファテに移動するように命じます。そこの一人のやもめによって養うというのです。エリヤは、神様に言われたとおりにツァレファテに向かいました。

 ケリテ川のほとりで烏に養われることも、ツァレファテに行くことも確証があるわけではありません。川の水を飲むことは理解できます。けれども、烏がパンと肉を運んでくるという事は、どうして信じられるでしょうか。「えっ、烏が食べてしまうのではないか?」と思うのが当然です。ツァレファテは、エリヤにとっては異国の地です。干ばつの影響を受けて苦しんでいる異国の女性が、どうして見ず知らずのエリヤを助けると期待できるでしょうか。考えれば疑問が出て来ることですが、エリヤは、神様を信じて従いました。エリヤが確信していたことは、主なる神様は「生きておられる」ということでした(Ⅰ列王記7:1)。人によっては不確かなことと思えることですが、エリヤにとっては「生きておられる」主なる神様が言われることで十分、確かな事だったのです。

 私たちは、何の問題もないと言う人生を送ることは出来ません。クリスチャンになったから、問題や悩みから解放され、まったく苦しみのない人生となるという事ではありません。エリヤが、干ばつの影響を避けられなかったように、私たちは、この世にあって様々な影響を受けて生きていきます。私たちは、問題や困難に直面することが問題だと考えてしまいます。確かに、私たちには大きな問題であり、解決の糸口が全く分からない状況に右往左往します。しかしそれ以上に、問題が発生した時に、どこに目を向けるかが問題なのです。

 エリヤは、言いました。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きてらえる。」と。天地を造られた主なる神様は、何もできないお方ではありません。人が作った偶像は、ただそこにあるだけで命がなく、何もできない置物にすぎません。けれども人間を創造し命を与えてくださる神様は、私たちを生かし、私たちを愛し、導き、祝福を与えてくださる、まことの神様です。エリヤの告白は、私たち一人一人の告白となるべきことです。「主なる神様は生きておられる」「私の信じている神様は生きておられる」と信じ、主に従う者には、神様の守りの御手が差し伸べられます。皆さんは、その事を信じますか。私たちは、心の底から信仰をもって「私の信じ仕える主なる神様は、生きておられる」と告白して歩みましょう。

Ⅲ;主のみわざは行われる

 私たちには、永遠に生きておられる神様の守りの御手があるので、今も主のみわざを信じ期待して歩むことが出来ます。
 エリヤは、ツァレファテに行き、やもめに出会います。そして少量の水とパンを求めました。するとこの女性は、干ばつのために食べ物がなく、残りの粉と油でパンを作って、後は死を待つだけだと告げます。12節の女性の言葉は、イスラエルの神様を信じていたというよりは、挨拶の言葉と理解していいでしょう。

 神様はエリヤを通して、この女性に素晴らしい約束を与えてくださいました。神様はこの女性を通してエリヤを養う計画を持っておられたのです。女性にとっては、粉と油が尽きることは明らかなことでした。しかし神様は、雨が降るまで粉と油は尽きることはないと約束してくださったのです。このやもめがエリヤの言う通りにすると、なんと粉と油は尽きることがありませんでした。こうして彼女の家族の命は守られたのです。

 神様は、今も生きておられます。そしてご自身のみわざをしてくださいます。けれども、「神様が超自然的な方法で食べ物を与えてくださるなら、いつも祈って神様から与えてもらえば良い」と油の容器を手に持って祈り続けるという様なことは間違っていると思います。それは、エリヤを通してなされた神様のみわざの間違った受け止め方です。

 神様は、エリヤとツァレファテの家族のために必要な方法を用いて導いてくださいました。同じように、主なる神様は、私たち一人ひとりに必要な方法で答え、導いてくださるのです。そのような意味で、私たちは主の力あるわざを見ることが出来るのです。今私たちは、主の守りの御手の中にいます。「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった」ように、私たち神様の守りの御手によって大いなる祝福を与えていただくことができます。なぜなら、私たちの神様は生きておられるからです。

祈り
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、永遠に生きておられ、私たちを守り、導かれる神様を信じます。私たちは、困難な時代の中に生きています。多くの問題に直面し右往左往してしまうものです。どうか神様、私たちを御手のうちに支え、御自身のみわざの中を歩ませてください。
 新型コロナウイルス感染から一人一人を守り、感染拡大が収束して行きますように助けてください。全世界に神様の恵みが溢れ、御心が天で行われているように、地でも行われますようにとお願いします。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」