2022年10月16日(日)礼拝説教 列王記第一18章1-19節 「主なる神を信頼する」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 ちょっと想像力を働かせてみてください。皆は、学校から帰ってきました。喉が渇いて、お腹もペコペコです。皆は、どんな行動に出ますか。……。
 まず、手洗いとうがいをしますね(ここ大切ですよ)。そしていよいよ喉を潤すために水を飲みます。次には空腹を満たすためにおやつの時間です。しかし、いつもおやつが置いている場所にありません。さあ、どうしましょうか。きっと、キッチンを捜しまわるのではないでしょうか。

 先週のお話しを覚えていますか。北イスラエルのアハブ王と預言者エリヤが登場しました。アハブ王は、神様を礼拝せず、神様の御言葉も無視して、バアルという偶像を礼拝し続けていました。エリヤは、そんなアハブ王に神様の言葉を語り、数年は雨が降らず露も降りないと神様の裁きを語りました。エリヤが言った通り、その地域には雨が降らず、川が干上がり、大飢饉がやって来ました。
 「エリヤのやつめ。あいつが神の裁きなどと語り、その言葉の通りになり、もう3年も雨が降っていない。何と言う事だ。軍隊の馬車を引く馬のための草や水が必要だ。」アハブ王は、イライラしながら、部下のオバデヤと一緒に水と牧草地と探し回ることにしました。アハブ王がしなければならないのは、愚痴を言うことではなく、自分の罪を悔い改めることでしたが、アハブ王は、悔い改めて、神様を信じる事がありませんでした。

 神様は、3年目にエリヤに「アハブに会いに行きなさい。」と命じました。そこでエリヤは、まずアハブ王の側近のオバデヤに会いに行きました。オバデヤは、すぐにエリヤだと分かり、「あなたは、エリヤ先生ではありませんか。今までどこにおられたのですか。」と挨拶をしました。するとエリヤは、「今日、アハブ王に会います。アハブ王をここに連れて来てください。」と言います。オバデヤは、びっくりして「そんなことをしたら、危険ではないでしょうか。自分も危険な目にあうことになってしまう」と答えました。しかしエリヤは、「必ずアハブに会うから」と約束をしました。
 「エリヤ!!おまえか、イスラエルにわざわいをもたらして、のこのこと出て来たのか。」アハブ王は、エリヤに怒鳴りました。エリヤは、「アハブ王よ。あなたこそ、主なる神様を捨てて偶像を礼拝し、神様の裁きがくだっていることがなぜ分からないのですか。」と負けていません。そして「カルメル山にバアルの預言者450人とアシェラの預言者400人を集めなさい。」と要請します。

 こうして、カルメル山にバアルの預言者たちが集まり、イスラエルの代表者たちが集まりました。当然アハブ王もいます。エリヤは、「皆さんは、どうして真の神様を信じないのですか。今いけにえを用意して、それぞれ神にささげましょう。その時、天からの火をもって答える神が、本当の神様です。」こうしてバアルの預言者450人対主の預言者エリヤ1人の対決が始まりました。
 最初は、バアルの預言者です。彼らは、「バアルの神よ。どうか私たちの願いを聞いてください。」と祈り、踊りながら祭壇の周りを回ります。1時間、2時間続けても何も起こりません。エリヤは、「どうした。バアルの神は何をしているのかな。寝ているのか?もっと大声で叫んだらいいのではないか」と言います。バアルの預言者はさらに大声で叫び、彼らの慣わしに従って刀で自分の身を傷つけています。でも何の変化もありません。何もできない偶像を「神よ。」と呼び掛けても答えがないのは当然のことです。

 いよいよエリヤの番です。エリヤは、人々を呼び寄せ、神様への礼拝のための祭壇を作り直し、周りに溝を掘り、薪といけにえを載せました。「さあ、水を汲んで来て、ささげものの上にかけなさい。それを3度しなさい」と言いました。そんなことをしたら、水浸しになって燃えるわけがありません。エリヤは、誰もが不可能と思う状況を用意しました。
 エリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。永遠に生きておられる神よ。今、答えてください。あなたこそまことの神であることをみんなが知ることが出来るように。」と祈りました。するとその瞬間、天からの火が降りて来て、水浸しになった祭壇を含めていけにえを焼き尽くしてしまったのです。人々は、それを見て「主こそ神です。」と告白しました。その後しばらくして、神様は、雨を降らせてくださいました。

 エリヤの信じている神様、僕たちが聖書を通して信じている神様は、力強いお方です。神様は、僕たちの祈りを聞いて、答え、僕たちを助け導き、支えてくださるのです。主なる神様を信頼して歩みましょう。

 祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。エリヤの祈りを聞いて答えてくださった神様は、今も生きていて僕たちの祈りを聞いてくださることを心から感謝します。神様を信じ、信頼して歩みます。どうぞ助け導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」
                             列王記第一18章24節

 

<適用>

 車についているカーナビは、とても便利ですね。今では、目的の建物の前までの道がしっかり案内されます。以前、カーナビで道順を確認しながら運転していた時、不思議な案内がありました。それは、右折する時の事でした。カーナビから「次の信号を右斜め後ろです」と聞こえたのです。「右に斜めに進んでください」なら分かるのですが、そこに「後ろ」がついたのです。私は、「どう言う事だろうか?」と不安になりながら右折をしました。すると確かに単なる右折ではなく、今まで向いていた方向からすると「斜め後ろ」方向に進むような道でした。これは、目に見えてすぐに確認できる道路ですから、私は、カーナビを信頼して安心して運転する事が出来ました。
 では、私たちは、目に見えない、すぐには進むべき道を確認する事が出来ない人生について、何を信じ、信頼して進むことが出来るのでしょうか。私たちは、主なる神様を信じ、信頼したエリヤ、そしてオバデヤの姿から、教えられ、励まされます。

Ⅰ;日々の生活の中で

 私たちは、日々の生活の中で主なる神を信頼して歩みましょう。生活の中で主を信頼して歩むと言うのは、神様の御言葉を読み、御言葉を心に留め、教えられて歩むという事です。私たちが、御言葉に教えられ続けるならば、私たちは、自分の姿を見つめ直し悔い改めに導かれ、そして日々神様から力を与えられて歩むことが出来ます。

 アハブ王は、エリヤが語った神様の言葉の通りに雨が降らず、イスラエル中が飢饉に苦しんでいるのに悔い改めることをしませんでした。アハブがしたことは、国民のために水や牧草地を見つけることではありませんでした。彼は、水と牧草地を求めましたが、それは、軍馬のため、自分の家畜を養うためでした。アハブは、苦境に立っても、自分の罪や心の思いを考える事をせず、悔い改めて神様を求めることがありませんでした。アハブは、側近のオバデヤと手分けして国中を回る事にしました。
 この時、エリヤは神様の導きを受けて、オバデヤに会いに行きました。それは、アハブ王に会うためです。このオバデヤと言う人は、アハブ王の側近として仕えていましたが、神様を恐れ敬う信仰の人でした。王妃イゼベルが、主の預言者を殺してしまう時、オバデヤは危険を顧みず、主の預言者を100人も助け守ったのです。このように信仰に熱心な人がいても、アハブは主を信じようとはしませんでした。オバデヤは、アハブ王のしていることを間近で見ていて、心を痛めていたのではないでしょうか。オバデヤが主の預言者をかくまうには、相当な勇気が必要だったと思います。けれどもオバデヤは、いつも主を見上げていたので、神様からの励ましと勇気を与えられて行動する事が出来ました。

 私が小中学生の時、学校で遠足や旅行などに行く時、必ず神社やお寺がルートに入っていました。そこに行くと、多くの場合「お参り」がセットになっているのです。私は、どうして個人的な行動にしてくれないのだろうかと思ったものです。私は、皆が頭を下げてお辞儀をしても、ずっと立たままでいました。クラスの担任や友達は、私が牧師の子どもであり、クリスチャンである事を知っていました。それでも偶像礼拝を避けるために、皆と違う行動をとることは勇気が必要でした。私は、神様に力を与えてください、守ってくださいと祈り心をもって行動をしていた事を覚えています。感謝な事に神様は、私の行動を用いてくださいました。友だちは、私がクリスチャンであることをより意識してくれたし、聖書の神様を意識してくれるようになりました。そのために必要な信仰の戦いだったと思います。

 皆さんも、地域や会社などで行われる、仏事や神事があるでしょうか。そのような時にクリスチャンとしてどのように行動するべきか迷うかもしれません。それだけではなく、私たちは、いつ試練に直面するのか分かりません。私たちは、突然、心が揺れ動く不安な出来事を経験するものです。そのような時に私たちの日々の生活の仕方が問われます。私たちは、普段から聖書を読み、教えられ、御言葉を心に留め、神様から知恵を与えられて歩みましょう。そこに様々な状況に対処できる秘訣があります。そして、そのような生活を通して、私たちは、周りの人々に主なる神様を信頼する生き方があることを証しする事が出来るのです。

Ⅱ;確信をもって祈る

 私たちは、主なる神様に信頼し、確信をもって祈る求めることが出来ます。なぜならば、主なる神様は、私たちをご覧になり、私たちの祈りに耳を傾け、答えてくださるお方だからです。

 エリヤは、アハブに一つの提案をしました。それは、カルメル山でいけにえを捧げた時、天からの火をもって答えるお方がほんとうの神であるというものでした。この時エリヤは、アハブを始めイスラエルの人々に、「主に従うのか、バアルに従うのか」といつまでどっちつかずの生き方をしているのかと問い詰めました。これは、人間が作った何も出来ない偶像を礼拝し続けるのか、それとも天地を造られ、私たちを愛し導いてくださる、まことの神を礼拝するのかどちらを選ぶのかという信仰の決心の問いかけでもありました。

 まず、バアルの預言者から始めます。彼らはいけにえを祭壇の上に乗せ、朝から昼まで祈り続けます。しかし何も起こらず、そのうちに彼らは踊り始めました。それでも何も変化がありません。27節のエリヤの言葉は、偶像礼拝に対する痛烈な非難ですが、人々はそれでも心を変えようとしないのです。するとバアルの預言者は自分たちの体を傷つけて祈りだしますが、やはり何も起こりませんでした。それもそのはずです。人々は、エリヤが痛烈に非難したように、存在しない、何もできない偶像の神に祈りをささげているのです。祈る対象が空しいものであるなら、その答えもまた空しいのです。

 ここにきて、人々の目はエリヤに向けられることとなります。いよいよエリヤが動きました。Ⅰ列王記18章30節には、「壊れていた主の祭壇を築き直した。」とあります。これは、北イスラエルでは、主なる神様への礼拝がなおざりになっていて、主の祭壇が見向きもされなかったという事なのです。それだけ人々の神様への信仰が失われていたことを意味しているのです。エリヤは、祭壇を築き直し、周囲には溝を掘り、いけにえを祭壇の上に乗せました。そしてエリヤは、祭壇のすべてに水をかけるように指示しました。すべてが水浸しになったという事は、人間の力の入り込む余地がなく、誰の目にも火がつくなど不可能と思える状況にしたということです。

 ささげ物の時間となった時、エリヤは祈りました。バアルの預言者と比べると、短い祈りです。エリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明かになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。(1列王18:36‐37)」と祈りました。このエリヤの祈りに対して天からの答えがありました。主の火が降って来て、一瞬にしてすべてを焼き尽くしてしまったのです。人々は、主なる神様の力強いみわざを見て、ひれ伏し「主こそ神です。主こそ神です(39)」と礼拝するのです。
 エリヤはバアルの預言者を滅ぼし、アハブに雨が降ることを宣言します。そしてエリヤが祈るとなんと雨が降り出しました。

 私たちは、「主こそ神です。(39)」の告白を自分の心からの告白として宣言しましょう。この地のすべてを造り、人間を造られた創造主なる神様こそ、まことの神様です。そして神様は、今も力あるみわざを行い、私たちを導くお方です。なぜならば、私たちの信じ信頼する主なる神様は、生きておられるからです(Ⅰ列王記17:1)。エリヤは神様を信じて疑わず、信仰を持って祈りました。それに神様はお答えになられたのです。
 エリヤは、イスラエルの民に「あなたがたは、いつまでどっちつかずでいるのですか」と問いかけ迫りました。エリヤは、今この瞬間も私たちに問いかけているのではないでしょうか。私たちは、どのように答えるでしょうか。あなたの信じているものは、本当に信頼できるものでしょうか。
 聖書は、私たちに心から信頼し、すべてを任せることが出来るお方、永遠に生きておられる創造主なる神がおられることを教えています。私たちの毎日の生活は、創造主なる神様のみわざで溢れています。ですから、私たちは、いつでも確信をもって祈ることが出来るのです。私たちは、家族のために、友人たちのために、彼らがまことの主なる神様を知ることが出来るように祈りましょう。そして、今、教会で取り組んでいるトラクト配布のために祈りましょう。そのトラクトを手にする方々に神様の恵みあるように、そして一人でも多くの人が神様に心を向けることが出来るようにと祈りましょう。神様は、私たちの祈りを聞き、答え、御自身のみわざを行ってくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。オバデヤが信頼して従っていた神様、あなたは今も生きていて私たちを助け、導いてくださることを信じます。エリヤの祈りを聞き答え、力強いみわざを行ってくださった主なる神様、あなたは今も私たちの祈りを聞き、答え、みわざを行ってくださることを感謝します。
 主よ、あなたこそまことの神です。私たちはどんな時でもあなたを信じ信頼して歩みます。そして私たちは、聖書の御言葉を心に留め教えられ歩みます。どうか私たち一人一人の歩みを祝福してください。
 また神様、教会では、トラクト配布をしています。どうか配られるトラクト1枚1枚を用いてください。トラクトを手にする方々が、主なる神がおられることを知り、あなたを求めることが出来るように導いてください。
 この祈りを、私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」