<子どもたちへ>
前回のダニエルさんのお話から、70年以上たったころのお話です。ユダの国からダニエルたちを連れて来たバビロニアは、別の国に滅ぼされていました。そしてその頃は、ペルシャがとても広い地域を支配していました。今日はその国で王妃様になった人のお話です。
この人がその女性です。名前はエステル。ユダヤ人で、本当の神様を信じていました。ある時王様がお妃を選ぶことになりました。国中のきれいな女の人がお城に集められて、エステルもその中にいました。一年間、お行儀やお化粧の練習をしました。その後一人ずつ王様に会うのですが、王様はこのエステルを一番気に入りました。そして、占領された民族、ユダヤ人の娘のエステルが、冠をかぶせられて王妃様に選ばれたのです。まるでシンデレラ物語のようですね。
その頃、こんな人もいました。ハマン、という大臣です(人相が悪いですね)。とても高い地位についていたので、ハマンと出会うと誰でも膝をついてひれ伏して挨拶しなければなりませんでした。「おーい!ハマン様のお通りだ!みんな、ひれ伏してハマン様を拝め~!」そんな声がかかります。
ところが、一人だけハマンにひれ伏したりしない人がいます。この人です。「私はまことの神様だけを信じて礼拝している。人間であるハマン大臣にひれ伏すなんてやり過ぎだ。私は絶対にしないぞ!」この人の名前は、モルデカイです。やはりユダヤ人です。そして実は、エステルの育ての親だったのです。エステルには親がいなかったので、親戚のモルデカイが育てていたのです。
これを知ったハマンは腹を立てて、王様にこう言いました。「王様、ユダヤ人たちはこの国の法律を守りません。今にきっと大変なことになるでしょう。今のうちにユダヤ人を滅ぼしましょう。」恐ろしいことですね。モルデカイへの怒りが、ユダヤ人皆殺しに繋がってしまったのです。王様は言いました。「よろしい。お前に任せよう。」こうしてユダヤ人を皆殺しにして滅ぼすように、という命令が国中に広まりました。
さあ、ユダヤ人たちはどうしたでしょうか。みんな「ああ、私たちは殺されてしまう!!」とみんな混乱に陥りました。モルデカイはお城のエステルに知らせて言いました。「ユダヤ人を助けてくれるよう、王様にお願いしておくれ。」それを聞いたエステルは考えてしまいました。何故なら法律で「呼ばれてもいないのに王様のそばに行くものは死刑になる」と決まっていたからです。たとえ王妃でも死刑になります。
「どうしよう…」と心配するエステルに、モルデカイは再び伝えました。それが今日のみことばです。一緒に読みましょう。これを聞いてエステルは覚悟を決めました。「どうぞみんなで断食してお祈りして下さい。私も侍女たちも断食して祈ります。私は王様の所に行きます。わたしはもし死ななければならないなら、死にます」。
エステルは自分が今ここにいることの意味を受けとめました。神様がエステルをペルシャの王妃になさったということ。自分はユダヤ人を助けられる立場にいること。そして命がけで自分のすべきことをしようと決心したのです。みんなの新しい年にも、「もしかするとこの時のため」という瞬間があるかもしれません。そして私にしかできないことがあるとしたら、神様のため他の人のために、するべきことを実行する年に出来たら幸いです。
<祈り>
「神様、礼拝に導いて下さりありがとうございます。エステルは『もしかするとこの時のため』に自分がいるかもしれない、と信仰をもって受けとめました。そして危険の中でもなすべきことを実行しました。エステルと同じようにあなたに助けをお祈りしつつ、勇気をもって行動出来ますようお導き下さい。御名によってお祈りします。アーメン」
<適用>
近年ポピュラーになったハロウィンという行事がありますが、同じようなユダヤ人のお祭りがあるのをご存知でしょうか。それはプリムの祭りと呼ばれるものです。仮装を楽しみ贈り物やごちそうを贈りあうもので、現代でもユダヤ人コミュニティでは盛大に祝われています。ユダヤ歴により毎年時期が異なるようですが、昨年は3月に2日間行われました。この祭りはエステル記に記された、ユダヤ人虐殺が食い止められたことのお祝いです。ハマンが虐殺の日を決めるときに引いたくじ(=プル)にちなんでプリムの祭りとよばれています。
ユダヤ教の会堂ではエステル記が朗読されます。その時人々が必ず用意するものがあると言います。それは「ガラガラ」です。赤ちゃんをあやすときに使う、あのマラカスのようなものです。ユダヤ人の敵ハマンの名が出てくると、一斉にガラガラを振ってブーイングをするのが習わしだそうです。民族根絶の可能性があったのですから、その思いはわかる気がします。
ユダヤ人にとって大きな意味のあるこのエステル記ですが、私たちにはどんな意味があるのでしょうか。かつてキリスト教会ではエステル記を低く評価していた時期があると言います。民族的なことが書かれているだけだとして、7世紀までは注解書すら書かれていなかったそうです。しかしエステル記を注意深く学ぶならば、異教社会で生きる信仰者を、神様が確かに導いておられることを教えられるのです。今日はその前半から学んで参りましょう。
1.神の節理による導き(1,2章)
まず覚えたいのは、一見何の関係もないような事柄にも神様の摂理の御手が伸べられているということです。見て参りましょう。
エステル記1章には伏線となる事件が記されています。1章1節にはこうあります。「クセルクセスの時代、クセルクセスが、インドからクシュまで127州を治めていた時のことである。」皆さんの中に新改訳聖書第3版をお使いの方がおられるでしょうか。出だしから違った名前が書かれていることに気づかれるでしょう。第3版では王の名が「アハシュエロス」と記されています。アハシュエロスはへブル名で、クセルクセスはギリシャ名、同一人物とみられています。新改訳聖書2017では一般的によく用いられる「クセルクセス」を採用したようです。
この王が治世の第3年に半年に及ぶ大宴会を開いたとあります。歴史の事実をみるならば、この時期クセルクセス1世はギリシャ征服を目指して遠征をしています。それに先立って、支配地域の反逆を防ごうとその威光を見せつけたのがこの宴会と言われています。大宴会は成功し、その後関係者をねぎらう7日間の宴会が開かれます。その席上で騒動は持ち上がります。余興に美しい王妃ワシュティを披露しようとしましたが、王妃がそれを拒んだのです(12節)。インドからクシュ(すなわちエチオピア)、そこにはエジプトすら含まれる大ペルシャ帝国の王の前には、王妃といえど地位の低い時代でした。ワシュティがなぜ拒んだのかはわかりません。酔った王が裸身をさらすよう命じたのではないか、王妃は妊娠中で姿を見せることに抵抗があったのではないか、など、言われていますが憶測の域を出ません。この騒動で王妃は廃位され、王はワシュティを失ったことを残念がる様子が記されています(2:1)。
これだけなら単にペルシャ王室内の家政の問題ですし、ユダヤ人はもとより現代の私たちには何の関係もないように思えます。しかし、ここには神様の摂理の御手が垣間見えるのです。なぜならこの騒動が発端で、ユダヤ人が虐殺から救われるよう歴史が整えられて行くからです。
更にはユダヤ人の娘エステルが、まるでシンデレラのように王宮に召し出されて行きます。そしてあまたの民族の美しい女性たちを凌いで、王妃として戴冠するのです。シンデレラ物語なら「めでたしめでたし」でここで終わりです。しかしこれらすべてが神様の摂理の導きでした。
異教社会の中で、しかも決して高尚ではない騒動や事柄の中でさえも、神様はそのご計画を進めておられます。人の悪や愚かしさに邪魔されることなく、備えられた神のご計画は実現していくのです。すべて支配しておられるのは神様です。私たちはその神様に信頼して誠実に歩んで参りましょう。
2.モルデカイの応答(3章)
更に見て行きたいのは、モルデカイの神への応答です。彼はエステルの養父にして年の離れたいとこでした(2:7)。その彼が、先に見た高官ハマンへの拝礼を拒否したのが3章に記された出来事です。彼がこれを礼拝行為ととらえたのか、ハマンのふるまいに反感をもっていたのかはわかりません。しかし聖書にいくらかのヒントがあるように思います。
ここで目を留めたいのはハマンが「アガグ人、ユダヤ人の敵」とあることです(1、10節)。アガグとはⅠサムエル15章に出てくるアマレクの王の名です。ハマンはそのアガグの子孫です。
片やモルデカイはといえば、2:5によればベニヤミン人キシュの子孫です。キシュはサウル王の父親です。ですからモルデカイはサウル王の子孫なのです。サウル王は、アガグを含めてアマレクを聖絶せよ、との主のご命令に逆らいました。それでサウルが王位から退けられたのは私たちも知っています。当然モルデカイは先祖の失敗としてよく知っていたことでしょう。モルデカイは自らの良心に基づいて神に応答することを選んだのです。
しかし彼のこの対応は、ハマンの怒りと民族抹殺の復讐を引き起こしました。それは「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子供も女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え」(3:13)というひどいものでした。こうなるとはモルデカイは予想していなかったでしょう。民族を滅亡に陥れる結果になって、同胞からも責められたかもしれません。これではかえって神を悲しませることになったのではないか。あなたの責任だ…。こうした攻撃が、時として信仰者を苦しめることがあるのかもしれません。何が正解なのでしょうか。
遠藤嘉信牧師はここをこう解説しておられます。
「モルデカイやユダヤ人にとっては恐るべき危機のこの状況において…ハマンは致命的な失敗を犯していたということです。彼は『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる』という事実を知らないでいるのです。これが私たち信仰者の確信です。とりかえしのつかない失敗を私たちはしないのです。たとい失敗しても、神が導いて益としてくださいます。まして主のみことばにこだわってしたことは、主が必ず祝福へといざなって下さるということです。」
モルデカイはこの後、ひたすら主の憐れみを祈りつつ彼に出来る行動をとって行きます。すなわち魂を注ぎ出しての祈りと嘆願です。彼を支えたのは、主がこの試練を良きに変えることが出来る、という信仰でした。私たちもすべてのことを働かせて益として下さる神様に信頼しましょう。そして主がみわざをなして下さる様祈り求めましょう。
3.エステルの応答(4章)
モルデカイは王の門の前まで行きました(4:1)。これは王宮にいる王妃エステルに行動を促すために取った行動です。しかしエステルはユダヤ人という出自を隠していますし、この状況下でモルデカイが王宮に入るのは危険すぎます。荒布をまとったままでは入門不可の決まりが功を奏して、モルデカイはエステルの信頼する近臣ハタクと接触することに成功します。そして状況を伝えたのは先ほど学んだ通りです。
エステルにはユダヤ民族虐殺を食い止めるには、自分は不十分と思われたようで、ためらう気持ちをモルデカイに伝えています。招かれずに王を訪ねれば死刑であること、自分は約1か月王に召されておらず、王の気持ちが自分にあるかも分からないこと。出来ない理由を数えたらきりがありません。
けれどそんなエステルの胸に突き刺さったことばがありました。「もしあなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(4:14)。これによりエステルの覚悟は決まりました。自分は当事者なのだ、そしてこの事態を変えうる可能性があるのは自分だけなのだ。エステルはそう受けとめたのです。
エステルは断食の祈りを要請します。自分や侍女も同じく断食し、その上で命をかけて王のもとに嘆願にいくとモルデカイに応えました。これはモルデカイに、という以上に神への応答であると言えます。実はエステル記は「神」という言葉が一度も出てこない書です。この重大な会話の中にも神という語は出てきません。しかしここでの祈りと断食は、明らかにイスラエルの神に捧げられるものです。著者は意図的に「神」という語を避けており、単なる神話や民族の伝説と取られないようにしているとも言われます。
ここでエステルは、神が摂理の内に自分を王宮に導いたと確信しました。そして、安全な王族としてではなく、神の民の一人として危険に立ち向かうことを選びました。彼女の勇気は自分自身の強さによるものではありません。多くの人の祈りに支えられなければ、彼女はとても実行できませんでした。私たちもお互いのために祈りあって支えられることが必要です。チャレンジが与えられるとき、躊躇せず祈りの要請をしていきましょう。神様だけが摂理と共に恵みの御手で私たちを守ることの出来るお方です。応答する信仰をもって、勇気をもって歩んで参りましょう。
<祈り>
「神様、新しい年をあなたへの礼拝と共に歩めることを感謝いたします。エステル記より学ばせて頂きました。異教社会で、また目に見えないあなた様に従って生きるという点で、当時と現代に通じるところがあるように思います。しかし、摂理をもってすべてを導かれるあなたに信頼いたします。誠実に日常を歩み得ますよう、お助け下さい。
また、信仰による判断がどのような結果を伴っても、すべてを益に変えてくださるという確信のもとに、希望を失わずに祈り続ける者として下さい。
チャレンジを頂く時には、祈りによる支え手も起こして下さり、エステルのように立ち上がっていきたく願います。どうぞあなたの憐れみと助けを備え、大きな御恵みをみさせて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」