<子どもたちへ>赤松由里子師
先週は大雪が降りました。遊べるほど長い間残らないのが残念のような、すぐ消えてくれるのはありがたいような、複雑な気持ちですね。受験生にはまだまだ大変な時期だと思いますが、色々な意味で春はすぐそこまで来ています。前向きな気持ちで進んでいきましょう。
さて先週は、ペルシアの王様のお触れで、エルサレムの神殿の再建が始まったお話でした。キュロス、という王様が出てきました。長い間打ち壊されたままだった神殿の土台が作られて、外国から帰ってきたユダヤ人たちは涙を流して喜んだのでした。
今日は、それから数十年後のお話です。キュロス王から、何代も王様が変わり、様々な妨害がありました。でも守られて、土台だけでなく神殿が完成しました。今日の主人公はエズラ、神様の祭司です。巻物を広げて勉強していますね。そう、エズラは神のことばの学者でもあったのです。イスラエルに帰った人たちもいましたが、エズラはペルシアの国に住んでいました。「ああ、私もイスラエルに帰りたいなあ。そしてみんなに神様のことばを教えて一緒に礼拝したものだ。」エズラはいつもそう思っていました。
ある日のこと、ペルシアの王様がエズラに命令を出しました。王様の名前はアルタクセルクセス、と言います。王様は言いました。「あなたは仲間を連れてエルサレムに帰りなさい。ユダヤ人に神様の教えを伝え神様を礼拝しなさい。」神様が王様の心を動かして下さったのですね。王様は、神殿で捧げるようにと金や銀も用意してくれました。ペルシアに残るユダヤ人たちも、捧げものを預けてくれました。
エズラはみんなに呼びかけて、一緒に行きたい人を集めました。この時最初にしたことは何でしょう…?それはお祈りでした。「神様、どうぞこの旅をお守りください。みんなの安全を、神殿に運んでいく宝物を、守って下さい。」それもそのはずです、この時代の旅は本当に危険で、妨害しようとする人たちもいたのです。またエズラは王様に「神様が私たちを守って下さいます」と宣言していたので、護衛をつけてくれとは言いたくなかったのですね。
神様は祈りに応えて下さり、エズラたちは敵から守られ、無事に礼拝を捧げることが出来ました。エズラたちも先にエルサレムに帰っていた人たちも大喜びです。
ところが、思わぬ問題が持ち上がりました。一人の人が暗い顔をしてエズラのところにやってきました。「エズラ先生。実は多くのユダヤ人が神様の教えに背いたままです。外国の神々を拝む人と結婚したり、神様に喜ばれない生活をしているのです。」
エズラはびっくりしました。調べると確かにその通りです。イスラエルとユダの国が外国に滅ぼされたのは、偶像の神を拝んで神様を悲しませた罪のためでした。それなのに同じ罪を繰り返しているとは。せっかくイスラエルに戻ってエルサレムの神殿で礼拝を始めたのに、これでは台無しです。エズラは大声で泣きながら祈りました。「神様、私たちはまたあなたに背きました。どうぞお赦し下さい」。みんなもやって来て、大声で泣きながら同じようにお祈りしました。エズラは言いました。「皆さん、勇気を出して神様だけを信じてその教えに従いましょう。」人々は「神様の教えに従います」と決心して、悔い改めました。
皆さん、私たちも神様に従っていなかったことに気づかされる時があります。その時には見て見ぬふりをするのでなく、このお話に出てくる人たちのように、心から神様にお詫びして方向転換することが大切です。今日のみことばを読みましょう。形だけ礼拝をしているのではなく、自分自身が罪からきよめられて行くことが、神様を信じる人にはふさわしいということです。私たちの悔い改めを神様が導いて下さいますように祈りましょう。
<祈り>
「神様、いつも守って下さりありがとうございます。私たちは、あなたを悲しませるような失敗や罪を犯すことがあります。そのことに気づかせて下さり、心からお詫びして方向転換させてください。神様から愛され、イエス様の十字架で赦された者としてふさわしく歩めますよう、お助け下さい。御名によってお祈りします。アーメン」
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
ローマ人への手紙12章1節
<適用>赤松勇二師
「またそんなことをして!」私が子どもの頃、そのように親から叱られたものです。私は、小学生1年の時に補助輪なしで自転車に乗れるようになりました。そうなると自分で移動できる距離が延びることとなり、一人で友だちの家に遊びに行くことが出来ます。私は、友だちの家に遊びに行って帰ってくると決まって叱られていました。それは、帰る時間を約束しても、家に帰り着くのは約束の時間よりも20分くらい遅いからです。例えば親と「4時には帰って来なさい」と約束をしたとします。私は、ちゃんと4時に遊びを終わりにして家に帰ります。私が家に帰り着く時には、4時半近くにになっています。もっと遅くなってしまったこともあると思います(きっと、ありました)。とにかく私は、家に着くと叱られるわけです。私は、そのような繰り返しの中で、約束した時間には家に到着する事が必要であることを学びました。ですから私は、今、自分の子どもたちが遊びに行く時には、「○○時には、家に着いているように」と注意をします。すると子どもたちは、「そんなこと、知っているよ」と答えます。私は、「それはすごいなぁ」と思いつつ子どもたちを送り出しています。
イスラエルの民は、神様に対して同じ罪を繰り返してしまうという歴史をたどりました。どうしてそのような事になるのでしょうか。今日は、「悔い改めと従順」という信仰の姿勢について学びましょう。
Ⅰ;何を悔い改めたのかを忘れないこと
私たちは、「悔い改める」と言う時、何を悔い改めたのかを忘れないようにすることが大切です。そして私たちの悔い改めに対して、神様がどれほどの恵みと愛をもって赦してくださったのかを忘れない事も大事な事となります。イスラエルの民は、神様の前に悔い改め、神様に赦されたことを忘れてしまうという失敗を繰り返してしまいました。
先週は、捕囚の民とされていたイスラエルの民が、ペルシアのキュロス王の時にエルサレムに帰還し、神殿の土台を据えることが出来たという事を学びました。その後、神殿建設は、周囲の民族からの妨害行為があり中断された時期もありましたが、約20年後に完成しました(エズラ記4‐6章)。
神殿再建から約60年後の事になります。祭司アロンの子孫であり、モーセの律法に通しているエズラがエルサレムへの帰還をします。彼は、当時のペルシアのアルタクセルクセス王の命を受けてエルサレムへ向けて出発するのです。エズラは、エルサレムに到着すると祭司として感謝のいけにえを捧げ、神殿での礼拝を導きます。またエズラは、律法の言葉をも人々に教えたことでしょう。そのような時にエズラに信じられない知らせが伝えられました。それは、イスラエルの民が、他の民族との婚姻関係を結び、その結果、偶像礼拝をしてしまっているという事でした。異国の民と婚姻関係を結ぶと言うことは、その異国の習慣を受け入れることであり、異国の宗教を取り入れ、偶像の神々を礼拝するということを意味しています。これを知ったエズラは、悲しみのなまり衣を引き裂き、茫然として座り込んで、主の前に祈りました。その祈りがエズラ記9章6節から書かれています。
「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。…。私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。(9:6‐7)」
ではもともとイスラエルの民は、神様からどのような戒めを受けていたのでしょうか。申命記7章を少し見ることにしましょう。神様はモーセを通して「あなたがたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、…。あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。…。また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。…。というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである(1‐4)。」と語っておられました。
さらに神様はモーセを通して「あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。しかし、ご自分を憎む者には一人ひとりに報いて彼らを滅ぼされる。主はためらわず、ご自分の憎む者一人ひとりに報いられる(9‐10)。」
神様がイスラエルの民に異国の民族との婚姻関係を結んではいけないと言われたのは、イスラエルの民が神様への礼拝を捨て、他の神々に心を向けて偶像礼拝に陥ってしまわないようにという目的があったのです。また神様はご自分の愛や恵み、祝福を有り余るほど与えるために御言葉に聞き従うようにと命じておられるのです。けれどもイスラエルの民は、神様の言葉を聞かず、主なる神様に背を向け、偶像礼拝を続け、神様の律法にも耳を傾けませんでした。その結果、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされ、人々は捕囚とされ、エルサレム神殿は廃墟となるという裁きを受けることとなりました。けれども神様は、イスラエルの民を忘れず、憐れみをもって導き、エルサレムに帰還できるようにしてくださったのです。エズラは、人々が自分たちの先祖の罪とそれに対する神様の裁きの厳しさ、それだけではなくイスラエルに対する神様の憐れみと愛と恵みを知っているはずだと言います(エズラ9:8)。にもかかわらず、イスラエルの民がまたも先祖と同じ過ちに陥ってしまったことに、エズラは大きな悲しみを覚えるのです。
私は、エズラの言葉の中に、イスラエルの民が何を悔い改めて主に立ち返り、神様の赦しを得ることが出来たのかという神様の恵みを忘れてしまったという嘆きがあるように思います。悔い改めたことを忘れた時人は、同じ過ちを繰り返すこととなります。
皆さん、私たちは神様の御前に罪を告白し、イエス様の十字架の赦しを得ることが出来ました。しかし、もし私たちが、何を悔い改めたのかを忘れ、神様の恵み深さを忘れ、神様の愛を無視するようなことがあるなら、私たちは神様を大いに悲しませることになってしまいます。私たちは、自分の罪について神様の前に申し開きは出来ません。私たちは、神様に裁かれるべき存在です。けれども神のひとり子イエス様が、私たちの身代わりになり十字架にかかり、神様の裁きを全部引き受けてくださいました。それほどに私たちは、神様に愛されているのです。この神様の愛を忘れず、悔い改めて赦されたことを忘れずに歩みましょう。
Ⅱ;従順に生きる信仰の道
私たちは、悔い改めたならば、当然進むべき方向が定まって行きます。「悔い改め」というのは、180度向きを変えることを意味します。それまでは、間違った方向を向いていたことを知ったのですから、方向を変える必要があるのです。
エズラの悲しみと祈りの言葉を聞いた多くの人々が、エズラのもとにやって来ました。それは、エズラと心を一つにしてか神様の御前に悔い改めるためです。
エズラ10章1節「エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来た。民は涙を流して激しく泣いた。」
このようにして人々は、主なる神様の信頼を裏切り、罪を犯したことを認めて悔い改めました。そして人々は、方向転換をして一つの行動を起こします。それは、異国の女性を妻とした人たちは、その妻と生まれた子どもをイスラエルの民から追い出すということです。悔い改めの結果、彼らは、罪を離れ、神様に従う道を選んだのです。しかし、これには大きな痛みと悲しみが伴うこととなりました。それでもイスラエルの民は、神様の御前に誠実に、そして御言葉に従順に生きる信仰の道を選ぶのです。
さて、私たちは、何を悔い改めたのかをしっかりと心に留めましょう。イエス様を信じる前、皆さんの心の目は、何を見ていたのでしょうか。私たちは、神様を知る前は神様なしの生きる目的も希望も分からない歩みをしていました。私たちは、神様の前に罪を犯しているとは思っていなかったはずです。けれども神様は、私たちを愛し、私たちを憐れみ、恵みを与えようとしておられる主なる神様を信じないで背を向け、自分の好きなように生きることを「罪」だと教えています。そしてそのような自己中心で、暗闇の生き方を悔い改め、方向転換をして神様に照らされ、目的と希望をもって生きるようにと私たちに救いの道を用意してくださったのです。そのような生き方が、神様の御言葉に従順に生きる信仰の道です。
今週の聖句を一緒に読みましょう。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ人への手紙12章1節。
パウロは、私たち一人一人が見るべき方向を示しています。その方向とは、私たちを造り、愛し、共に歩み導いてくださる主なる神様です。私たちは、神様に背を向けていた時には、神様の前にふさわしく生きていませんでした。しかしパウロは、今、私たちには、最もふさわしい生き方があると言うのです。それは、私たちのからだ、私たちの人生の全てを神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として神様に献げることです。それこそ、私たちが当然するべき、ふさわしい礼拝なのです。神様を見上げて、礼拝し、従うことが私たちの生き方となるのです。
そのためにパウロは、もう一つ私たちに勧めています。それは続くローマ人への手紙12章2節です。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
私たちは、心を神様に満たして頂き、心を変えられて歩みましょう。そうすることで、神様の喜ばれる道へと進むことが出来ます。
私には、兄弟が4人います(私を含めて5人兄妹となります)。私は、子どもの頃、毎日の様に兄弟と、特に妹と弟と兄弟喧嘩をしていました。理由は、ほんの小さなかことです。例えば、一緒に掘り炬燵に入っていて、隣に座る弟の足があたったといって文句を言い喧嘩をします。嫌なら炬燵に足を入れなければ良いだけのことです。時には、物を投げたり、蹴ったりして激しい喧嘩をしました。この兄弟げんかは、高校1年生まで続きました。変化は突然やって来ました。私は、高校1年の時イエス様を信じる告白をして洗礼を受けました。私が洗礼を受けてしばらくたった時です。いつものように弟と言い争い、弟を壁に押し付けたのです。その時私は、それまで感じた事のない感情を抱きました。その思いとは、「一体自分は何をやっているのだか。どうして自分は怒っているのだろうか」という冷静な気持ちでした。その瞬間、私は喧嘩がとても空しいつまらないことだと知ったのです。そして私は、その場で弟に謝り喧嘩を止めました。今思い返しても、あの瞬間に神様が私の心に働きかけてくださり、方向を変えてくださったのだと思っています。
神様は、私たちの歩みの中に御手を指し伸ばしてくださり、私たちの心を変え続けてくださいます。そこに神様からの祝福が溢れ、神様に喜んでいただける歩み、私たちの幸いな道があるのです。私たちは、神様の御言葉に従順に従って歩みましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。エズラは、イスラエルの民の罪を知った時涙を流して悔い改めました。人々もエズラと共に悔い改め、方向転換し主に従う道を選びました。
神様、今、私たちも神様の御手の中にあることを感謝します。私たちは、悔い改めて赦されたことを忘れることなく歩みます。神様は、私たちの罪を赦し、恵みを与え、愛と憐れみをもって導いてくださることを感謝致します。私たちは、神様に喜ばれる歩みをしたいと願います。神様に従順に従いたいと願います。神様、どうぞ私たちの心を支え、進むべき方向を示してくださり、従う信仰を与えてください。
神様、一人一人の健康を守り、仕事支え、必要の全てを満たしてくださいますようにとお願い致します。受験生たちの上に神様の御手があり、神様の御心のうちに進路を導いてください。
この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」