<子どもたちへ>赤松由里子師
先週はイエス様が「私は良い羊飼いです」と言ったことを学びました。イエス様がどんなお方なのか良く分かるように、教えて下さったのですね。今日のお話でもイエス様は「私は○○だ」と言っておられます。では学んで行きましょう。
ここはベタニア村、エルサレムの近くです。マルタ、マリア、ラザロという兄弟が住んでいました。3人ともイエス様を心から信じて大好きでした。イエス様も時々3人の家に立ち寄って、お食事をしたり話をしたりしていました。
さてある日のことです。イエス様の所に使いの人が来ました。「イエス様、大変です。ベタニア村のラザロが病気で今にも死にそうです。どうかすぐに来て下さい!」これを聞いてイエス様は言われました。「この病気は死で終わるものではありません。神様の栄光のためのものです。」こう言って、イエス様はすぐには出かけず、何故だかその場所に留まっていました。
2日経った時です。イエス様は言われました。「さあ、ラザロを起こしに行きましょう。」ベタニア村についてみると、ラザロは亡くなってもう4日目になっていました。マルタがやってきてイエス様に言いました。「イエス様、あなたがここにいて下さったら私の兄弟は死ななかったでしょうに…。」するとイエス様はおっしゃいました。「ラザロはよみがえります。」そしてとても大切なことをおっしゃいました。今日の聖句を一緒に読みましょう。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。そしてマルタに聞きました。「あなたはこのことを信じますか?」マルタはその言葉の意味が良くわかりませんでした。でもこう答えました。「はい、私はイエス様を神の子キリストだと信じています!」
妹のマリアもやってきて「もしここにいて下さったら、私の兄弟はしななかったでしょう。」と言って泣きました。周りの人たちも、またイエス様も涙を流された、と聖書に書かれています。
イエス様はラザロのお墓の前に立ち、入り口の大きな石をどかすように言いました。マルタはびっくりです。「お墓に入れて4日も経っているのですよ…(やめておきましょうよ)」と留めました。でもイエス様は言いました。「信じるなら神の栄光を見る、と言ったではありませんか」。そして「彼らがわたしを信じることができますように」とお祈りしてから、大声でこう言われました。「ラザロよ、出てきなさい!」
すると、死んでいたラザロが、頭から足まで布でぐるぐる巻きにされたまま、お墓から出てきたではありませんか。みんなびっくりです。「ラザロが生き返った!イエス様がよみがえらせたんだ!」これを見た人たちの多くがイエス様を信じました。
この出来事は、イエス様がいのちをも支配しているお方だと私たちに教えます。人はいつか必ず死にますが、死で終わりではない、というのが聖書の教えです。信じるなら神の栄光を見る、とイエス様はおっしゃいましたね。イエス様を救い主と信じ、神様の救いを受けた人には、死の先にも希望があるのです。よみがえりと永遠のいのちがイエスさまによって与えられるからです。みんなの人生は様々な希望や可能性に満ちていると思いますが、その中でも一番大切なこと、永遠のいのちの希望を、イエス様を信じて受け取って歩んでいきましょう。
<祈り>
神様、イエス様がラザロを生き返らせたお話を学びました。「わたしはよみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様に、「はい、私は信じます」とお応えします。どうか私に罪の赦しと永遠のいのちをお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン
「イエスは彼女に言われた。
『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」
ヨハネの福音書11章25節
<適用>赤松勇二師
先週から、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が始まりました。これは、プロ野球の世界一を決める大会といって良いでしょう。日本代表は、ダルビッシュ選手や大谷翔平選手など素晴らしい選手が揃っていて、順調に勝ち進んでいます。野球少年だった私にとっては、気になる大会です。野球少年といっても、ほとんど補欠で試合に起用されたことはめったにありません。WBCを前にダルビッシュ選手がテレビのインタビューを受けていました。その中でダルビッシュ選手は、代表チームのメンバーが楽しんで野球をプレーすることが大切だと言っていました。ダルビッシュ選手は、「野球をする子どもが減っている今の時代、野球が楽しいスポーツであることを知ってもらいたい。野球をしている子どもたちにプロ野球選手を目指す希望を与えられたら嬉しい」というようなことを言っていました。私は、彼のインタビューを聞きながら、また試合を見ながら、バットを振りたくなりましたが、すぐに体を痛めてしまいそうです。
今日は、ヨハネの福音書11章から、私たちに永遠の希望が与えられているというイエス様の語りかけに耳を傾けましょう。
Ⅰ;イエス様にいのちがある
私たちには、永遠の希望の約束があります。なぜならイエス様は、よみがえりであり、いのちだからです。イエス様は、一つの出来事を通してそのしるし(証拠)を示してくださいました。
少しヨハネ11章の背景を見ることにしましょう。イエス様は、「わたしは良い牧者です」と人々に教えられました(ヨハネ10:11)。その頃エルサレムではユダヤ人の祭りの「宮きよめの祭り」が行われていました。「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。・・・。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。(ヨハネ10;22-23)」そこであるユダヤ人たちは、イエス様に質問をします。イエス様は、その質問にご自分が神から遣わされ、神の言葉を語り、神のわざを行っているとお答えになられました。ユダヤ人たちは、イエス様の言葉に怒り「神を冒涜している」とイエス様を石打にしようとしました。イエス様は、押し寄せる群衆から逃れて、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けていたヨルダン川に身を避けました。そこでもイエス様は、人々を教えておられたのです。「そして、イエスは再びヨルダン川の川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された(ヨハネ10:40)。」
そこに、一つの知らせが届きました。イエス様ととても親しくしていた兄弟(マルタ、マリア、ラザロ)のうちの一人、ラザロが病気になっているという知らせです。しかもその病気は、とても重い病気で、ラザロは危険な状態だったようです(ヨハネ11:3)。イエス様は、彼らを愛していましたが、知らせを聞いてもなお2日、ヨルダン川の近くに留まってすぐに行動を起こすことはありませんでした。
おそらくマルタとマリアは、イエス様が知らせを聞いたらすぐにでもベタニアに来てくれると期待したことでしょう。私たちも読んでいてそう考えるのではないでしょうか。すぐに行かないまでも、イエス様が「ラザロは治る」と宣言すれば、ラザロを癒す事が出来たのです。イエス様は、それもしませんでした。何故なのでしょうか。イエス様には、マルタたちや弟子たちの(そして私たちの)考えを超えたご計画があったのです。
2日後、イエス様は、ようやくユダヤに行こうと言われました。弟子たちは、それは危険であると進言します。弟子たちは、エルサレムで石打にされそうになったことを鮮明に覚えています。しかもユダヤ人たちは、イエス様を捕え、殺す計画を立てているのです。弟子たちは、そのことを良く知っていました。当然イエス様も知っていました。けれどもイエス様は、ユダヤに行く、ベタニアに行く必要がありました。それは、ラザロをよみがえらせるためです。イエス様は、この奇跡を通して、イエス様ご自身にいのちがあることを弟子たちが信じることを願っていたのです。「その場に居合わせなかったことを喜んでいます」というイエス様の言葉は、ラザロのよみがえりによって神様の栄光が示されること、イエス様ご自身にいのちがあることが明らかになることを意味しています。
私たちは、マルタとマリアのようにイエス様がすぐにでも御心を示し、導き、みわざを行ってくださると考えます。けれどもイエス様が、何をしておられるのか分からなくなったり、イエス様は、物事を遅らせていると感じることがあるかもしれません。私たちは、自分が考える「ふさわしい時」と神様の考えている「ふさわしい時」の違いにイライラすることがあるかもしれません。私たちは、直面している事柄の中で、この先どうなるのか分からなくて、不安になり、信仰が揺らぐこと、悲しみ、意気消沈することもあります。そのような時私たちは、しっかりと思い出す必要があります。それは、イエス様には、イエス様の時があり、神様には、神様の最も良いと考える時があるということです。イエス様は、私たちにいのちを与え、希望を与え、生きる力を与えてくださいます。神様は、ご自身の栄光をあらわして私たちを導いて下さるのです。イエス様は、よみがえりであり、いのちです。イエス様のいのちに永遠の希望があります。
Ⅱ;死を打ち破る
私たちには、永遠の希望の約束があります。イエス様は、死を打ち破る力をもっておられます。イエス様は、よみがえりであり、いのちです。イエス様を信じるすべての人は、このいのちを受け、死んでも生きるいのち、永遠のいのちを与えられます。そのために、イエス様は死を打ち破ってくださいました。
イエス様が、ベタニアに到着するとすでにラザロは死んでいて4日も経っていました。ベタニアまでの移動に1日かかったとすると、ラザロは、イエス様に知らせが届いた前後に息を引き取ったことになります。マルタは、イエス様が近くまで来られたことを聞いて、すぐに迎えに行き、イエス様に自分の思いを打ち明けました(21-22)。イエス様は、マルタに対して、「あなたの兄弟はよみがえります」と告げ、25-26節のようにイエス様のわざに目を向けるようにと励ましました。
妹のマリアはイエス様が来ていることを聞いて、飛び出して行きました。そしてマルタと同じことを言います(32)。多分彼女たちは、この4日間同じことを繰り返しつぶやいていたのではないでしょうか。そのつぶやきとは、「イエス様がここにいたらラザロは死ななかった。イエス様が、すぐにでも来てくれたなら・・・」という心の底からの叫びです。イエス様は、マリアが泣いているのを見て「霊に憤りを覚え、心を騒がせ(33)」ました。この時のイエス様の感情は、マリアたちへの同情や悲しみだけではありません。イエス様が霊の憤りを覚えたのには、もっと深い理由がありました。イエス様は、ラザロの死に直面し、人々が悲しんでいるのを見て、「罪」のもたらす結果を見ておられたのです。全ての人は、罪を犯し、神様に背を向けているために、「死」という神様の裁きを受けます。そして人は、この罪から来る報酬である死に絶望感を持ちます。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(ローマ3:23)」、「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」。イエス様は、人類が直面する現実を深く、深く、感じたのです。イエス様の憤りは、罪と死というサタンの支配に対する怒りです。そしてこの後イエス様は、この罪と死、サタンの支配に立ち向かわなければなりません。イエス様だけが、この暗闇の支配に対して立ち向かい、勝利する力を持っておられるのです。
イエス様は、ラザロが葬られている墓に案内されました。誰もがラザロの死は確実で、生き返ることなど不可能だと認めていました(39)。けれどもイエス様は、ただ一人、大いなる可能性を知っていたのです。墓から石が取り除かれるとイエス様は、父なる神様に感謝をささげてから、大きな声で「ラザロよ。出て来なさい(43)」と言われました。するとどうでしょうか、ラザロがよみがえり、ぐるぐる巻きにされたまま出てきたではありませんか。
イエス様は、死を打ち破り、罪と死の束縛から私たちを解放してくださるお方です。ラザロのよみがえりは、地上のいのちへのよみがえりでしたが、イエス様が永遠のいのちを与えるお方であることの明確なしるしとなったのです。もやは、死は終わりでも絶望でもなく、イエス様を信じる全ての人にとって天の御国へと続くこととなるのです。ここに永遠の希望の約束があります。
もう一つ心に留めておきたいことがあります。それはイエス様の涙です。イエス様は、墓に向かう道すがら「涙を流され」ました(ヨハネ10:35)。これはとても短い一節ですが、イエス様のお姿、イエス様による慰めを現しています。イエス様は、ラザロの死をとても悲しんだのです。この「涙を流された」というギリシャ語には、声を出して泣くと言う意味もあります。イエス様は、マリアとマルタの悲しみに寄り添い、共に泣いて下さったのです。それは今でも変わりません。イエス様は、私たちの悲しみ、辛さ、心の動揺を知って下さり、私たちに寄り添い、共に泣いて下さるのです。しかもイエス様がそのように寄り添って下さる所には、イエス様の大きな慰めと力が現されます。
Ⅲ;永遠のいのちを得る
私たちには、永遠の希望の約束があります。イエス様は、マリアに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」という大切な真理を教えてくださいました。そしてイエス様は、罪から来る死という人類の現実を見、霊の憤りを覚えられました。実は、ラザロが病で死んでしまったのは、イエス様が十字架にかけられる直前の出来事でした。イエス様は、ラザロの死とよみがえりを通して、ご自身がこれから通る十字架の死と復活を予め示しておられたのです。ラザロのよみがえりは、地上のいのちでした。しかしイエス様は、永遠のいのち、天の御国へと続くいのちを持ってよみがえり、信じる全ての人に永遠のいのちを与えるのです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの身代わりに神様の裁きを受けて死なれました。けれどもイエス様は、死を完全に打ち破り、復活され、今も生きておられます。だからイエス様を信じる人は、永遠のいのちを受け「決して死ぬことが」ないのです。
イエス様は、マルタに「あなたは、このことを信じますか(ヨハネ11:26)」と聞きました。イエス様は、今日も私たちに「あなたは、このことを信じますか。」と問いかけています。皆さんは、どのように答えるでしょうか。私たちは、「はい主よ。今日も私は、あなたを信じます。イエス様の十字架の救いを信じます。永遠のいのちが与えられ、永遠の希望の約束があることを信じます。」と告白しましょう。
イエス様は、よみがえりであり、いのちです。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、イエス様が、よみがえりであり、いのちであることを信じます。イエス様は、十字架の救いを信じる者の罪を赦し、永遠のいのち、天の御国へと続くいのちを与えて下さることを感謝致します。この永遠の希望の約束をしっかり握って歩みます。どうか私たちを主ご自身の栄光の中で導いて下さい。
神様、この世界を憐れみ、平和を与えて下さい。一人でも多くの人がイエス様の与えて下さる、永遠の希望の約束を信じて、神様による希望をもって生きることが出来るように導いて下さい。
一人ひとりの上に神様からの恵みが豊かにありますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。」