2023年4月9日(日)イースター礼拝 ルカの福音書24章1-12節 「十字架と復活」 CS説教:赤松由里子師 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>赤松由里子師

 先週は聖会がありましたので、一緒に礼拝をするのは2週間ぶりになります。先週は受難週でした。そして今日はイースターです。ユリの花を飾ったり、卵探しをしたり、楽しみにしている人がいるでしょう。教会ではとても大切にしている日です。それはイエス様が死に勝利された日だからです。では十字架のお話から改めて学んで行きましょう。

 ここはローマ総督ピラトの官邸です。ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を捕まえて、ピラトの所に連れて来たのです。イエス様が気にいらないので、ローマの裁判のもと死刑にしてやろうと思ったのです。でもイエス様はどれだけ悪くいう人がいても、何も答えず黙っておられました。その様子を見てピラトは思いました。「この人は何も悪いことはしていない。」そこで釈放しようとしたのですが、群衆が騒ぎ出しました。「十字架だ、十字架につけろ!」「イエスを十字架につけるんだ!」大騒ぎになったのを見て、ピラトは仕方なくイエス様をむちで打って十字架にかけるよう、兵士たちに命令しました。

 イエスさまはゴルゴタの丘まで連れていかれ、手足は十字架に釘付けられました。十字架が丘の上に立てられたのは、朝の9時のことでした。お昼頃になると、あたりが真っ暗になりました。そして午後3時頃、イエス様は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んで、息を引き取られました。そのお姿を近くで見ていた百人隊長は「この方は本当に神の子であった」と言いました。その通り、罪のない神の御子イエス様が死刑にされたのです。それは、私たちが受けるはずの罪の罰を代わりに受けて下さったということでした。私たちが赦されるようにと十字架に死んで下さったのです。

 さてイエス様のお体は、アリマタヤのヨセフという弟子が来て引き取りました。そのお体を白い布で包んで、新しいお墓に納めました。そこに大きな石が転がされ、入り口がふさがれました。日が暮れるまでに、大急ぎで弟子たちが埋葬しました。日が暮れると安息日が始まってしまい、何もできなくなるからです。
 さて十字架から3日目の朝のことです。女の弟子たちが朝早くからお墓に向かっています。マグダラのマリアたちです。「慌てて埋葬してしまったから、お墓に行ってイエス様の体に香油を塗って差し上げましょう。」「でも、入り口の大きな石を誰かどかしてくれるかしら?」話しながらお墓に着くと、なんと石が転がしてあります。びっくりしてお墓に入ってみると、イエス様のお体がありません。すると、光り輝く御使いが現れました。女の人たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せてしまいました。「どうして生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。必ず3日目によみがえると言っておられたのを思い出しなさい。」女の人たちは、はっとしました。「そうだった!イエス様はそうおっしゃっていた!」女の人たちは大急ぎで十一弟子の所に行って、このことを伝えました。ところが、使徒たちは信じようとしませんでした。「何を言ってるんだ?夢でもみたのかい?」と、本気にしてくれないのです。

 でも、ペテロは違いました。イエス様が捕まった時に「イエスなんて知らない!」と3回も否定してしまい、申し訳ない気持ちでたくさん泣いたのでした。「イエス様が生きている」と聞いて、ペテロはじっとしていられませんでした。立ち上がってお墓へと走り出しました。そしてお墓をのぞき込むと、イエス様を包んでいた布だけが見えました。もう一人の弟子も後から来たそうですが、彼らはこの様子を見て「信じた」と聖書には書いてあります。
 このあとお弟子さんたちがイエス様に会えるのは、もう少し時間が経ってからです。この時はからっぽのお墓があるだけ、そしてイエス様が前もって語っていたみことばがあるだけでした。見ないで信じる、というのは難しいことです。でも女のお弟子さんたちは信じました。ペテロも残された布だけを見て信じました。

 今の時代の私たちも、生きたお体のイエス様を見ることは出来ません。「そんなことあるはずないよ」「人は死んだら終わりだよ」と周りの友達は言うかもしれません。でもそれはイエス様の教えて下さったことと違いますね。死んで終わりではなく、罪赦された人は永遠のいのちによみがえることが出来る、というのが聖書の教えです。そのためにイエス様は苦しい十字架を受けて下さったのです。死に勝利したイエス様がよみがえられた日、それがイースターです。私たちの希望も、このイエス様の復活にかかっています。私たちもイエス様のよみがえりを、聖書のお言葉によって信じようではありませんか。いのちの主イエス様とみんなが、いつまでも一緒に歩むことが出来ますように。神様と教会から離れずに今年度も過ごしていきましょう。

<祈り>
「神様、イエス様の十字架は私の身代わりであったことを感謝します。死で終わりではなく、よみがえって死に勝利されたことを感謝します。私もイエス様のよみがえりを信じます。永遠のいのちによみがえらせて頂く希望をもって、歩んでいきます。どうぞ神様のそばにいつもとどまらせてください。御名によってお祈りします。アーメン。」

ルカの福音書24章6節
「ここにはおられません。よみがえられたのです。」
ローマ人への手紙4章25節
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」

<適用>赤松勇二師

 イースターおめでとうございます。2023年度が始まりました。学生たちは、明日から2023年度の学校生活が始まりますね。春休みを満喫していた状態から、一日も早く抜け出すことが出来るように祈っています。
 新学年が始まる前にイエス様の十字架と復活の恵みを受けてスタート出来ることを嬉しく思います。以前、イースターを迎える時期にあるスーパーで「イースターには卵料理を食べましょう。」という宣伝が流れていました。今年は、卵が値上がりして貴重な食材となりました。「イースターには卵料理を」という宣伝を聞いて私は、「確かにイースターでは、卵を使うけれど、イエス様の復活がどこかに行ってしまった。」と驚いたのを覚えています。
 もう一度イエス様の十字架と復活の出来事に目を向けて行きましょう。

Ⅰ;イエス様の十字架

 イエス様は、私たちの罪のために十字架の死に渡されました。私たちは、まずイエス様の十字架に目を向けましょう。
 イエス様は、弟子たちと過越しの食事をされた後、いつものようにオリーブ山(ゲッセマネの園)で祈られました。それは、十字架を前にしての最後の祈りであり、十字架に向かって行く備えをするためでした。そこに弟子の一人であるイスカリオテのユダが群衆を引き連れてやって来ました(ルカ22:47)。こうしてイエス様は、捕えられ、真夜中の不当な裁判を受け、最終的にピラトによって裁判が行なわれました。ピラトは、取り調べの中で、イエス様が無罪であるという事実が分りました。ピラトは、何回もイエス様が無罪であると宣言します。「ピラトは祭司長たちや群衆に、『この人には、訴える理由が見つからない。』と言った。(ルカ23:4)」(他にルカ23:14-15、22)。ピラトは、イエス様を釈放しようと努力します。しかし群衆は、祭司長たちの扇動によって、イエス様の十字架刑を叫び続けて、暴動でも起こしそうな勢いです。エルサレムの町で暴動が起きてしまったら、すべて総督ピラトの責任となります。ピラトは、ユダヤ人の暴動だけは避けたかったのです。ピラトは、「十字架につけろ」という群集の声に負け、イエス様を好きなようにさせるために引き渡してしまいました。

 この時イエス様は、茨の冠をかぶせられ、笑い者にされます。そして、むち打ちの刑にされました。この鞭打ちは、堅い突起物のついた鞭が使用されました。鞭が振り落とされるたびに、突起物がイエス様の体に突き刺さります。振り上げられると突起物がイエス様の体を引き裂いて行くのです。このような鞭打ちを死ぬ直前の回数と言われる39回も受けるのです。イエス様の体は、傷だらけ血だらけの状態、体力もすでに限界を迎えていました。それでもローマ兵は、十字架刑を受ける罪人としてイエス様に十字架を背負わせるのです。途中イエス様は、十字架を背負う事が出来ず、その場に居合わせたクレネ人シモンが代わりに十字架を負ってイエス様の後についていきました(ルカ23:26)。
 こうしてイエス様は、ゴルゴダの丘に着き、両手、両足を釘付けにされ、十字架にかけられました。マタイは、「彼らはイエスに、苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった(マタイ27:34)。」と記しています。この苦味を混ぜたものは一種の麻酔のようなもので、十字架の痛み、苦しみを和らげるために用意されたものです。けれどもイエス様は、それをお受けにはなりませんでした。イエス様は、人類の罪に対する神様の怒り、裁きを全部そのままお受けになるのです。

 では、どうしてイエス様は、そこまでして十字架刑をお受けになったのでしょうか。それは、私たちのためです。人々は、十字架のイエス様を眺めながら、「神の子なら十字架から降りて来い」「他人を救ったが自分を救うことはできないのか」などとイエス様を馬鹿にし、あざ笑います(34-39)。それほどまで言われても、イエス様は、十字架から降りません。イエス様が十字架から降りることは簡単でした。イエス様は、子なる神ですから十字架から降りて、人々に反撃することは簡単な事でした。でも子なる神だからこそ、十字架から降りることは出来なかったのです。なぜならば、もしイエス様が自分を救ってしまったら、もしイエス様が十字架から降りてしまったら、私たち人間の罪の赦しの道がなくなってしまうからです。
 イエス様は、十字架から降りるのではなく、人々の罵声が響く中で静かに「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。イエス様は、十字架刑を叫んだユダヤ人たちのために、実際に十字架刑を執行しているローマ兵のために、そして私たちのために祈ってくださったのです。イエス様の祈りにある「彼ら」の所には、自分の名前を入れて読むことが出来ます。イエス様は、「父なる神様、今、自分が十字架にかかり罪の罰を受けますから、彼ら一人ひとりの罪を赦してください。彼らは神様が見えず、心が閉ざされていて、本当は何をしているのか自分でも分からないのですから」と私たちのために祈ってくださったのです。

 人は、神様に完全に従う事は出来ません。人は、神様の教え、神様の愛、神様の導きとは、かけ離れ的を外した生き方しかできません。聖書は、それを罪と言います。ですから、神様に対して罪があるのは私たちです。神様に捨てられ、裁かれ、死ななければならないのは、罪ある私たちです。しかし神様は、私たちではなく、イエス様を身代わりにされました。イエス様は、私たちの罪を全て背負い、神様に捨てられ、裁かれ、十字架で死なれたのです。私たちが罪の赦しを得るためです。イエス様は、私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。

Ⅱ;イエス様の復活

 イエス様は、私たちが義と認められるためによみがえられました。 イエス様は、十字架で息を引き取り、誰も葬られたことのはい墓に葬られました。その様子は、先ほど由里子先生が話した通りです。
 イエス様が十字架にかけられた金曜日を含めて三日目の週の初めの日のことです。数名の女性たちは、朝早くイエス様が葬られた墓に向かいました。実は、イエス様の埋葬にあたっては、ローマ兵の番兵がつくという厳重警戒態勢がとられていました。ですから、そう簡単にイエス様のお墓に近づくことは出来ません。けれども彼女たちは、イエス様のお墓に行かずにいられなかったのです。彼女たちは、お墓に向いながら、入り口の石をどうやってどかそうかと話し合っていました。ところが墓に行ってみると入り口をふさいでいた大きな石が脇に転がしてあったのです。マタイの福音書では、御使いが降りて来て石をどかした時に大きな地震があったとあります(マタイ28:2)。彼女たちは驚きながら墓の中を覗き込みました。なんとイエス様の体は、どこにも見当たらないのです。途方に暮れている彼女たちに対して御使いが、素晴らしい知らせを伝えました。イエス様はよみがえられたのです。イエス様は生きておられるので、死人の中にはいません。墓にはいないのです。

 日曜日の朝、イエス様はよみがえられました。しかもこの復活の出来事には、人の手が加わっていません。女性たちは、復活の瞬間の目撃者ではありませんでした。彼女たちは、復活の事実の目撃者だったのです。彼女たちは、埋葬の様子を見届けました。確かに、イエス様はお墓に葬られたのです。しかし、あるはずのイエス様のからだが、そこにないのです。イエス様は、三日目の朝、死を打ち破りよみがえられました。だから墓は、空っぽだったのです。イエス様は、よみがえりました。そして今も生きておられます。ここに私たちの救いがあるのです。
 この事実は、私たちに大きな希望を与えます。人は、どうして「死」を恐れるのでしょうか。人は、どうしてお墓に希望を見いだすことが出来ないのでしょうか。私が、行田教会で奉仕をしていた時のことです。天に召された教会員の納骨式をしていた時、召された方のご主人が「真っ暗だな」と言われました。私は、その言葉に、死を前にした人間の無力さを感じました。私はすぐ、その方に、イエス様によって永遠のいのちが与えられる道があることを伝えました。人は、「死」の先に何も見いだすことが出来ないので、絶望を感じます。人間は、「死」とは裁きであり、この裁きを誰も逃れることが出来ないことに気づいているのです。だから、死を恐れ、絶望に近い感情を持つのではないでしょうか。しかし、神様は、人は死で終わるのではないことを明確に教えています。それがイエス様の十字架と復活の事実です。

 もしイエス様が死んでそのままなら、私たちも死が最後であり、それ以上でもそれ以下でもないということになります。そこにどんな希望があるでしょうか。もし復活がなかったら、何の望みもなく、私たちは罪に捕らわれ、絶望と闇の中を生きることになるのです。
 皆さん、「イエス様は、よみがえられました」。これは、何度言っても、言いすぎることはありません。イエス様は、私たちの罪のために神様の裁きを受け死なれました。神様は、イエス様に人類の(私たちの)罪の責めを全部背負わせて十字架で罰してくださいました。もしそこで終わりなら、私たちもイエス様と同じように罪のために裁かれるだけで、永遠の滅びに向かうことになってしまいます。けれども、神様は、この十字架の身代わりが完全であることを証明するために、イエス様をよみがえらせてくださったのです。イエス様は、私たちの罪が確かに赦され、義と認められるためによみがえられたのです。
 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえれました。」(ローマ4章25節)

 私たちは、イエス様の十字架のゆえに、信仰によって赦されるのです。それに加えて私たちは、滅びではなく、イエス様がよみがえられたように永遠の命が与えられ、天の御国への希望が与えられているのです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)。」
 皆さん、今日、イエス様の十字架は、私のためであると信じましょう。私たちの罪は赦されました。
 今日、イエス様が、私たちの罪が赦され、私たちが義と認められ、永遠の命を与えるために復活されたことを信じましょう。私たちは神の子とされ、永遠の命、天の御国への希望を与えられています。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様に対して罪ある者です。神様に裁かれ罰せられるべきなのは私たちです。しかし、神様、あなたは私を裁くのではなく、私たちの罪を御子イエス様に背負わせて十字架で裁いてくださいました。私たちは、イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかってくださった事を信じます。イエス様の十字架によって罪が赦されることを信じます。
 それだけではなく、イエス様は死を打ち破り、よみがえって今も生きておられる事を信じます。私たちは、イエス様によって永遠の命、天の御国へと続く命が与えられることを信じます。
 イエス様、私たちの心を十字架の血潮できよめてくださり、復活の力で満たしてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」