<子どもたちへ>
新学年が始まって一週間となります。クラスのお友だちは、どうでしょうか。新しい友だちは出来ましたか。小学生や中学生、高校生の時の友だちは、一生の友だちとなることがあります。僕は、高校の時の友だちとフェイスブックで30年ぶりに出会い、それぞれの近況を知ることが出来るようになりました。また、自動車の事では、整備士になった中学の同級生に随分お世話になりました。学校で良い友だちに巡り合えるように、そして皆が、周りの人たちにとって良い友となることが出来るように祈ります。
さて、皆は、この絵を見たことがありますか。エマオに向かう3人の旅人を画いたものです。この3人は、どんなことを話しているのでしょうか。
最初は、二人でした。「エルサレムでは大変な事が起きてしまったね。」「そうだね。まさかイエス様が捕まって十字架につけられて死んでしまうなんてね。」エルサレムの町からエマオに向かう二人の旅人が力なく、トボトボと歩いています。「はぁ~。これからどうしようか。何を心の支えにして生きて行けば良いのだろうか。」二人は、考えれば、考えるほど、気が重くなってしまいました。
そんな二人に後ろから歩いて来てもう一人が声をかけます。「さっきからため息をついて、何を話しているのですか。なんか暗―い感じがしますけど。」二人はびっくりして言います。「え~!あなたもエルサレムにいたのでしょう。それなのにエルサレムで起きていることを知らないのですか???」二人は、もっと暗い顔をして話しはじめます。「イエス様の事ですよ。イエス様は、力のある預言者で人々を教えて励まして神のわざを行っていました。私たちは、イエス様こそイスラエルをローマの支配から解放してくださるお方だと思っていました。イエス様は、多くの人たちから信頼されていたのに、ユダヤの祭司長たちに捕らえられ、十字架にかけられ死んでしまったのです。」「それだけではありません。」もう一人が言います。「イエス様が十字架で死なれ、お墓に葬られてから三日目となる今日の朝、女性の弟子たちがびっくりするような知らせを持ってきたのです。朝早くイエス様のお墓に行ったら、イエス様の体が見当たらないと言うのです。そして不思議な事ですが、御使いが、イエス様はよみがえったと言ったというのです。もう何が何やら訳がわからないのですよ。」
ここまで聞いていたもう一人の旅人は、「あーー何と心の鈍い人たちだろうか。旧約聖書の言葉をどうして信じないのですか。」と言うのです。途中で加わった旅人は、復活されたイエス様ご自身でした。けれども二人には目の前の旅人がイエス様だとは分かりません。まったく気づかないのです。イエス様は、「聖書には何と書いてありましたか。キリストはそのような苦しみを受けて、よみがえると書かれているのではないですか。」と続けました。そしてイエス様は、旧約聖書の中にある救い主預言などを含めて、ご自分について書かれていることを一つ一つ教えてくださったのです。
目的の村に近づいた時、すでに日も傾いていましたので、二人は、イエス様を引き留めて、「一緒に泊まりましょう。もっと聖書の事を教えてください。」とお願いしました。夕食の時イエス様は、パンを取って感謝の祈りをしてから二人に分けました。その時、「あっ、イエス様!!」二人は突然目の前の人物がイエス様だと気づくのです。するとイエス様は、見えなくなりました。二人は、「今目の前にいた人は、イエス様だった。本当にイエス様は、よみがえって生きておられる。なんて素晴らしい事だろうか。」、「そうだよ!!道々聖書の話を聞いている間、心が内側から燃やされ、元気づけられていることを感じていた」と話し合います。「こうしてはいられない。すぐにエルサレムに戻って、イエス様にお会いしたことをペテロさんたちに伝えよう。」こうして二人は、その晩、エルサレムに戻ってほかの弟子たちに伝えました。
イエス様は、僕たちの罪を背負い十字架で死なれました。それだけではなく、イエス様は死を打ち破ってよみがえられ、今も生きています。そして丁度エマオに向かう二人の弟子たちと歩いたように、イエス様は僕たち一人ひとりと共に歩んでくださいます。イエス様は、僕たち一人ひとりの人生を導いて、励まし、生きる力を与えてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、僕たちの罪が赦され、救いを受けられるようにと十字架にかかり、死なれ葬られ、そして三日目によみがえってくださいました。イエス様は今も生きていて、僕たちを力づけ、励まし、助けてくださることを信じます。イエス様、聖書の御言葉を通して僕たちを教え、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」 ルカの福音書24章32節
<適用>
私たちは、人の言葉で力づけられることがあり、勇気づけられることがあります。また、その反対のことを感じることもあるかもしれません。皆さんの心を力づける言葉は、どんなものがあったでしょうか。小学4年生の時、私が一人で下校した時の事です。夕方に担任の先生から電話がありました。私が一人歩く姿を見て、元気がなさそうに見えたので心配して電話をしてくれたのです。具体的に先生がどんな言葉をかけてくれたのかを鮮明に思い出すことは出来ませんが、先生が自分を見ていてくれたこと、そして電話をしてくれて、言葉をかけてくれたことが嬉しかったのを覚えています。
エマオに向かう二人は、イエス様と出会って心が燃やされ、励ましを受けるのを感じていました。今もイエス様は、私たち一人ひとりに必要な声をかけてくださいます。
Ⅰ;心の火が消えかけていた二人
エマオへ向かう二人の弟子の心は、火が消えかけていたような状態でした。ルカ24章13節の「ちょうどこの日」と言うのは、1節の「週の初めの日」のことで、イエス様が復活なさった日と言う事です。その日の午後のこと、二人の弟子がエルサレムから約60スタディオン(約11㎞)離れたエマオという村に向かっていました。この二人のうち一人は「クレオパ」と名前が出ていますが、もう一人は誰かわかりません。そしてクレオパも聖書のここに名前が出ているだけで詳細は分からないのです。しかしはっきりしていることは、彼らはイエス様に従っていた弟子だったと言う事です。そして二人は、イエス様がエルサレムで捕らえられたこと、十字架にはりつけにされたこと、三日目によみがえった事などをすべて知っていました。彼らは、エマオに向かう道すがら、「これらの出来事すべて」について話し合い、論じ合っていたのです。でも論じ合えば論じ合うほど、彼らの思いは、混乱と絶望に支配されたのではないでしょうか。
エマオに着いた時夕刻に近い時間帯になっていた事を考えると、私は、エマオに向かう二人の弟子は、徐々に日が傾き、影が長くなる午後、ちょっと寂しさが漂う道を重い足取りで歩いていたと想像します。
そんな彼らの所に一人の旅人が近づいて来ました。イエス様です。けれども二人の目はさえぎられていてイエス様であるとは分かりませんでした。何が二人の目をさえぎっていたのでしょうか。ルカ24章19節から21節の二人の言葉から考えると、彼らは、イエス様に相当な期待を込めていました。けれどもイエス様は、自分たちの期待とは違い、十字架にかけられて死んでしまったのです。それだけではなく、日曜日の朝、イエス様がよみがえったという衝撃のニュースがエルサレム中を駆け抜けました。もう何がどうなっているのか分からない状態です。この二人の弟子にとって、イエス様復活の知らせは、混乱と疑問しか生み出さなかったようです。このような落胆と混乱によって心の火が消え、夢破れた彼らは、信仰の目が曇り、近づいて声をかけてくれる人物がイエス様であるこが分からなかったのです。
私たちの人生においても、夢破れ、心の火が消えてしまうようなことが起きます。私たちが心くじけて、力が湧いてこないという事があります。ある人が、自分自身の失敗のために頸椎損傷という大けがを負い手足が不自由になりました。出来ることが極端に少なった時、口にペンをくわえて絵を描いている星野富弘さんのことを聞きました。でも自分には出来るわけがないとあきらめていました。でも徐々に口にペンをくわえて絵を描き始めました。そのような中一人のクリスチャンとの出会いで彼は、聖書の話を聞くようになりました。メッセージの中で、脳性麻痺のために30年間外に出たことがないけれど神様と出会い、信仰を持った喜びを詩に書いていた水野源三さんのことを聞きました。彼は、「これほどのことをなさるお方は本当の神に違いない」と確信して、キリストを信じる信仰に導かれクリスチャンになりました。すると彼の生き方、考え方が変わり、喜びに溢れるようになりました。(人生の転機/クリスチャン新聞/130-134㌻)
私たちは、様々な出来事に直面します。時には、どうしてこんなことが起るのか理解できないことを経験するものです。私たちの心が、思い煩い、心配事で埋め尽くされ、何が何やらわからないといことがあるものです。そして私たちは、「あなたを離れず捨てない(申命31:6、8)」と約束してくださる神様も分からなくなってしまのです。私たちも信仰の目、心の目がさえぎられてしまうときがあります。けれどもイエス様は、私たちに近づき、私たちの経験する絶望、失意、挫折、空しさ、その他全ての事柄にあって私たちと一緒にいてくださるのです。
Ⅱ;心が内に燃やされた二人
エマオへ向かう二人は、イエス様の話を聞きながら、心が内に燃えるのを経験することが出来ました。そのためにイエス様は、二人の弟子と時間を共有してくださったのです。
二人の弟子は、本当に落胆し、打ちのめされていました。それは、エルサレムを離れると言う行動によっても分かるのではないでしょうか。この二人の弟子は、興味本位でイエス様の話しを聞きに行ったのではありません。ちょっとイエス様に従ったという人でもないと思います。彼らは、イエス様の十字架を他の弟子と共に目撃し、イエス様の復活を伝える女性たちの言葉を伝え聞くことが出来る立場にいました。イエス様に付き従ってきた人たちなら、イエス様のからだがないという事実をどのように受け止めたら良いか、これからどうなるのか他の弟子たちと一緒に話し合い、考え様子を見るべきところです。しかし彼らは、イエス様の復活で沸き立つエルサレムから離れているのです。何の希望もない、何も信じられない状態の二人でした。
イエス様は、二人の言葉を最後まで聞かれました。今度はイエス様の番です。イエス様は、彼らの不信仰を「愚かな人」「信じない、心の鈍い人」と指摘しました。
二人の弟子は、何故「愚か」と言われてしまったのでしょうか。それは、彼らがイエス様の約束の言葉を忘れていたからです。イエス様は、十字架にかけられ、三日目によみがえると何度か予告しておられました。しかも旧約聖書には、イエス様に関する預言が溢れているのです。
二人は、何故「心の鈍い人たち」と言われてしまったのでしょうか。それは、イエス様が語っておられた言葉、聖書の預言の言葉に対して心が開かれていなかったからです。二人の弟子は、旧約聖書を知らなかったのではありません。彼らは、幼い時から聖書を学んでいました。けれども彼らは、聖書の言葉を知識としては学んでいても、信仰をもって学ぶことができなかったのです。
イエス様は、聖書全体(旧約聖書)から預言者を通して語られていた救い主についての預言がイエス様によって成就したことを丁寧に教えられました(ルカ24:25-27)。イエス様が話している間、二人は、その話に聞き入っていました。私は、イエス様から直接、聖書講義を受けた二人を、「ほんとうらやましいなぁ」と思います。二人は、目的の村に着きましたが、もっと聖書のことを聞きたいので一緒に泊まりましょうと誘いました。彼らの心は、イエス様との会話によって開かれる備えが出来ました。食事の時イエス様がパンを裂き二人に与えられた瞬間、彼らは目の前の人がイエス様だと分かったのです。するとイエス様は、姿を消して見えなくなられました。
でも彼らは、戸惑う事も恐れもありません。彼らは、イエス様と話しをしている間、消えかけた心が再び燃えて活力が与えられていたことに気付いたのです。二人にはそれで、もう十分でした。彼らは、イエス様の導きの中で心が開かれ、イエス様を知り、イエス様を体験し、喜びに満たされ、イエス様と共に歩むことの恵みを経験したのです。二人の弟子は、イエス様との出会いと聖書の御言葉によって「心は内に燃えていた(32)」という感動を味わいました。だから二人は、その感動を分かち合うために、来た道を戻り、エルサレムの弟子仲間のところに行ったのです。
私たちの人生は、時としてエマオへ向かっていた弟子たちのように心くじけ、落胆し、悩みに支配されることがあります。時には、心の内に神様への愚痴や神様の御心を疑いたくなるような思いが沸き起こることもあるでしょう。そのような時私たちは、聖書を読んでいても理解できず、心が閉ざされた状態になるのです。
けれどもそのような時こそ、私たちは、聖書を読み、御言葉に心を向けていきましょう。神様は、聖書の御言葉を通して私たちに語りかけて、私たちの心に活力を与えてくださいます。なぜなら、神様は、天地を造られ、私たちを愛し、生かし、導いておれるからです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます(ヘブル4:12)。」とある通りです。この御言葉に続く言葉が、今年度の御言葉ヘブル4章16節です。神の言葉は生きていて、力だあります。だから私たちは、折にかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づいて、心に力をいただき、燃やして頂きましょう。
もし私たちの心が鈍くなり、心の火が消えそうになった時があったら、私たちは、聖書を開きましょう。神様は、聖書の御言葉を通して私たちに教え、神様ご自身のみわざを見させてくださいます。
人生という道の途中にある私たちは、神様のことばである聖書の御言葉を通して、心燃やされ、神様からの喜びと恵み、神様の愛と赦しを知り、心の内側からワクワクするような湧き上がる感謝に満たされることが出来ます。イエス様は、今日も私たちにそっと近づき教えてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様、今日も私たちと共に歩んでくださることを心から感謝致します。
イエス様、私たちはエマオへ向かう二人の弟子のように、心くじけ力なく人生を歩くことがあります。私たちは、エマオへ向か二人の弟子のように、心が鈍くすぐにはイエス様のなさることを信じられない者です。どうかイエス様、エマオに向かう二人の弟子に近づいたように、私たちにも近づき、人生を一緒に進んでください。イエス様、聖書を通して私たちに語りかけ、教えてくださるようにとお願い致します。
聖書の御言葉を通して与えられる、心の底からの感動を与えてください。神様、聖書の御言葉通して私たちがもっと神様の事を知り、十字架の救の恵みを喜んで受け入れ、喜びをもって歩めるように導いてください。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」