2023年5月21日(日) 創世記3章1-15節 「神から離れた結果」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 大きなショッピングモールなどに行くと時々「迷子のお知らせをいたします。」という放送が流れます。その放送を聞くたびに、「迷子になった子どもは不安で泣いているだろうなぁ、きっと親は心配で、心配で、泣きそうになりながら探しているだろうなぁ」と思います。子どもは、親から離れると、どこに行ったらよいのか、どうしたら良いのか分からなくなってしまいます。今日は、神様から離れてしまった人間が、どうなってしまったのかを見ることにしましょう。
 そのためにまず、神様がアダムに命じていた命令を確認しましょう。神様は、アダムを造られ、エデンの園に置かれました。そして神様は、アダムにこう言っておられました。「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』(創世2:16-17)」この神様のご命令を覚えておいて下さい。

 さて、最初の人アダムは、どのように神様から離れてしまったのでしょうか。創世記3章1節では、蛇がエバを誘惑したように見えますが、悪魔が蛇を利用してエバを誘惑したのです。蛇は言います。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか(1)。」と。この言葉に込められた意味を含めて言い直すと、「神は園の木の実をどれからも食べてはいけないと言われたのではないのか。神は、本当に意地悪で、心の狭いお方ではないか。」となります。蛇は、神様の禁止事項が多く、神様が意地悪をしているかのように思わせて、エバの心を惑わしたのです。エバは答えます。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはいけない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。(2-3)」このエバの答え何かおかしいと思いませんか。神様は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言っておられたのです。神様は、気前よく思いのまま、欲しいだけ食べて良いと言っていたのです。ただ、「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と言われたのです。食べてはならないのは、園の中央にある「善悪の知識の木」でした。エバは、神様の言葉を正確に覚えていませんでしたし、勝手に付け加えていたのです。神様は、「食べてはならない。食べたら必ず死ぬ。」と言われました。けれどもエバは「食べてはいけないし、触ってもいけない。死ぬといけないから」と答えたのです。エバは、勝手に神様の禁止事項を増やし、神様が断言したことを曖昧な表現に変えてしまいました。

 この時のエバの心には、もしかしたら神様の命令を聞き間違えていたのかもしれないし、善悪の知識の木から食べても問題ないのかもしれないという思いがあったかもしれません。蛇は、そのエバの思いに寄り添って、「そう、そう、死ぬことはありませんよ。それを食べると神のようになれるのです。だから一つくらい大丈夫。」と誘惑します。エバは、蛇の言葉に心揺さぶられ、その実を見るとそれは美しく、美味しそうに見えました。それまでは避け続けた善悪の知識の木でしたが、エバはそれに手を伸ばし、手に取り食べてしまいました。一口食べて「美味しかった」のでしょうエバは、側にいたアダムにも渡しました。アダムは、エバの近くにいてエバを止めることをせず、蛇の誘惑に負けて食べてしまいました。これは、アダムの心が神様から離れた瞬間です。

 こうしてアダムとエバは、神様から離れました。その結果、罪が人間の心に入って来たのです。そして人は、エデンの園を追い出され、いずれ死を迎える者となりました。神様が、人間を創造された時、人間は神様ととても良い関係を持っていました。そしてアダムは、神様の言葉を守り、神様に従うことが大切であると知っていました。けれども彼らは、悪魔の誘惑に負け、神様の言葉に従うのではなく、自分の思いを優先して生きるという神様なしの生き方への一歩を踏み出してしまいました。神様は、アダムとエバに悔い改めることを期待していました。そうすれば、すぐに神様との関係は改善したのです。しかし二人は、素直に、「神様、ごめんなさい」と謝る事が出来ず、その心は堕落したままとなってしまいました。

 アダムの罪の結果、人は、罪の性質を持って生まれてくることとなりました。そして今でも悪魔は、少しくらい神様の言葉を無視しても大丈夫と誘惑します。悪魔は、僕たちが神様から離れることを喜びます。そうならないように、神様に助けていただきましょう。もし、自分の罪に気づいたら、すぐに悔い改めましょう。神様は、僕たちが素直に「神様、ごめんなさい」と罪を悔い改めることを待っておられます。神様から離れず、神様に心を向け、神様との良い関係を持たせていただきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。最初の人アダムは、神様から離れて罪を犯してしまい、神様に悔い改めることをせずエデンの園から追い出されてしまいました。
 今も悪魔は僕たちを神様から引き離そうと誘惑します。神様、僕たちを罪の誘惑から守り、神様から離れてしまうことがないように助けてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」  ローマ人への手紙3章23-24節

<適用>
 引き続き、今日の箇所から私たちが心に留めるべきことを学びましょう。先日、車で初めて行く場所に車で出かけました。初めてですから当然、カーナビを使って行きました。私は、目的地の近くまでカーナビの案内の通り順調に運転して行きました。けれども目的地直前で、道を間違えてしまいました。右折するべきところを直進してしまったのです。私は、道を間違えた場合、方向さえ合っていればたどり着けると考えカーナビを無視して運転することがありました。しかしその場合、目的地に着くまで相当な時間を要するのです。その経験から、私はカーナビを無視しては駄目だと学びました。ですから今回は、しっかりカーナビを確認しながら目的地にスムーズにたどり着くことが出来ました。
 人間は、神のかたちに似せて造られ、神様と交わりを持ち神様の言葉を心に留め、神様を喜ぶ者として生きることが出来ていました。けれども最初の人アダムは、神様を無視し、神様から離れてしまいました。その結果、人はどうなったのでしょうか。

Ⅰ;全ての関係が崩れた

 神から離れた結果、人を取り巻く全ての関係が崩れてしまいました。
 まず、神様との関係が崩れました。「罪」とは、神様に背を向けることです。聖書で言う「罪」は、「的を外す」と言う意味の言葉が使われています。これは、神様の言葉、神様の御心という的から外れて、他の方向にずれてしまうということです。アダムが的を外し、罪を犯したことによって、それ以降の全ての人がこの罪の性質を持って生まれ、的を外した生き方をしています。

 さて、蛇は、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようなって善悪を知るもとなる」と言って誘惑しました。エバは、この「神のように」という言葉に惑わされ食べてしまいました。アダムも食べました。その結果は、どうだったのでしょうか。彼らは、目が開かれました。けれども人は、神のようになったのではなく、お互いが裸であることを知りました。そしてそれが、恥ずかしいことであるのを知り、イチジクの葉で腰の覆いを作りました。腰の覆いを作ったという行為は、お互いの恥を隠すため以上に、自分の罪、神様に背を向けた罪悪感を隠すという意味があるのではないでしょうか。それが、神様から隠れるという行動になっていくのです。

 罪の結果、人は神様から隠れるようになります。それまでは、神様と自由に交わることが出来、神様に呼ばれれば、「はい、ここにいます。」と喜んで御前に出て行くような親しい関係があったのです。それなのに、今アダムは、神様から隠れるのです(8)。今でも人は、何か罪を犯すとそれを隠そうとします。また隠れようとします。子どもは、誰に教えられなくても、何か悪さをするとそれを隠します。それは、そのような性質を持つ人間だからです。

 アダムとエバは、罪を犯した結果、すぐに死ぬことはありませんでした。しかし、彼らは、いずれ死を迎える存在となったのです。そして肉体的な死だけではなく、アダムは神様との霊的関係が崩壊するという、霊的な死を迎えるのです。それがエデンの園の追放です。こうして神様と人間との関係が断絶してしまいました。蛇は、エバの心に神様への疑いを芽生えさせました。少しの疑いが心の中で膨らみ、神様を心から閉め出す事となるのです。アダムは、神様の言葉よりもエバの言葉に聞き従い、自分の欲望、自分の思いを心の中心に置いてしまったのです。ヨハネの手紙第一2章16節に「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。エバは、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで」という肉の欲、「目に慕わしく」という目の欲、「またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」という暮らし向きの自慢・自己中心、という三つの部分で誘惑に負けてしまったのです(創世記3章6節)。今でも、悪魔は、私たちの肉の欲望を刺激し、目に見えるものが信頼できるかのように思いこませ、自分中心で生きることが当然であるかのように心を揺さぶります。気をつけなくてはいけません。

 神様との関係が崩れた結果、人間関係も崩壊しました。神様は、アダムに「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか(創世記3:11)」と聞きます。神様に問い詰められアダムは、エバの責任だと言い訳をしました。その言い方は「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです(3:12)。」というものでした。これは、「神様が、私のあばら骨から造って側に置いたエバがくれたから食べたんだ。自分はそれほど悪くはない、神様にも責任があるのではないでしょうか。」という意味となります。そしてエバは、蛇の責任だと言います(13)。アダムもエバも、それぞれ自分には責任がなく、周りが悪かったと言います。その言い方の中には、そもそも神様の責任じゃないかという意味合いが込められているのです。アダムとエバの間にあった親しい、愛による交わりは失われ、お互いが罪の責任を擦り付け合い、攻撃し合う状態となりました。この自己中心や自己保身という姿が、すべての争いの原因です。今でもこの要素は変わっていません。

 では、私たちの人間関係はどうですか、夫婦の関係、親子の関係はどうでしょうか。もしあまり良くないと感じることあったら、まず自分と神様との関係を見直してみましょう。神様との愛の関係が回復することによって、私たちの心に神様の愛が満たされ、それが夫婦関係、親子関係、その他の人間関係に回復を与えて行きます。皆さん、悪魔は、私たちが神様から離れること、神様との関係が壊れることを喜びます。そのために悪魔は、今でも私たちに疑いの心を起こさせます。その方法は、エバの時と同じです。悪魔は、神様の言葉を使いながら、その言葉を巧みに言い換えて私たちを惑わします。ですから私たちは、聖書の御言葉をしっかりと聞き、正しい心で受け止めることが出来るようにいつも祈り求めましょう。

Ⅱ;罪の報酬と救いの約束

 神から離れた結果、人は罪の報酬を受けることとなりました。今週の御言葉を読んで見ましょう。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ人への手紙3章23-24節。
 またパウロは、「罪の報酬は死です(ローマ6:23)」と言います。人は、罪のために肉体的な死を迎える存在となり、神様との関係の断絶により霊的に死にました。神の栄光を受けることができず、交わりが断絶したままの状態が続いてしまっています。

 神様の裁きの言葉は創世記3章14節からとなります。この部分、アダムとエバについては、申し開きをする機会が与えられていました。11-13節です。しかしアダムとエバは、この申し開きの機会で悔い改めることが出来ず、罪の責任を他者に転嫁して、罪に罪を重ねてしまう結果となりました。蛇については、どうかというと、蛇に関しては弁解の余地がありませんでした(14)。
 エバには、出産の苦しみが増し加わることとなりました。また妻は夫を慕うが、夫は妻を支配するようになると言われています。これは、健全な夫婦関係を持つためには神様を中心とする必要があるということを教えているのではないでしょうか。アダムには、苦労して糧を得なければならないことと、人は死ぬ存在となったのでいずれ、土に帰ることが語られます。こうして人間はエデンの園を追い出されてしまいます。

 けれども神様は、裁きの中でも憐れみを示しておられました。確かに罪の報酬は死です。しかし神様は、罪への裁きを告げるだけではなく、人を見捨てることをせず、憐れみの御手を差し伸ばしてくださるのです。パウロは、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」と言います。すべての人は、罪があり神様から離れているので裁きを受けなければなりません。けれども神様は、イエス・キリストの十字架によって信仰によるこの救い、罪の赦しという恵みを与えてくださるのです。
 この恵みが、すでに創世記3章15節で語られていました。15節は原福音と呼ばれています。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」女の子孫が蛇(サタン)に勝利するという約束は、イエス様の十字架と復活で成就しました。私たちの罪が赦され、罪への勝利を得ることが出来るのは、イエス様の十字架以外にありません。創世記3章15節には、神様による救いの計画、イエス・キリストによって神様と人間との関係が回復するという約束が含まれているのです。

 また、創世記3章21節では神様が皮の衣を作ってくださったとあります。イチジクの葉で作った腰の覆いはすぐに枯れてしまいます。神様は、より丈夫な皮の衣を作り二人に着せて下さいました。これで安心して生活することが出来ます。この皮の衣は、神様の憐れみです。神様は、人が裸であることを憐れみ、その恥を覆うために「皮の衣」を作って、着せてくださったのです。人は、神様に捨てられて当然なのに、神様は人に対する愛を少しもやることなく、愛することが当然のように御手を差し伸ばしておられるのです。
 創世記3章9節の神様の言葉も、アダムに対する神様の大きな憐れみです。神様は「あなたはどこにいるのか」とアダムに呼びかけて下さいました。神様は、アダムの居場所を知らなかったから捜したのではありません。神様は、アダムの自発的な応答、悔い改めを求めておられたのです。アダムは、神様から離れ罪を犯し、神様という方向ではなく、自分中心という方向に向いてしまいました。神様は、「あなたはどこにいるのか」という問いかけで、方向転換をして悔い改めるきっかけを与えて下さったのです。けれどもアダムは、神様の前に悔い改める事をしませんでした。

 皆さん、今でも神様は、「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられます。迷子になった我が子を捜す親の気持ちを想像してみてください。親は、子どもの名前を呼んで、どこにいるのかと呼び掛けて捜す事でしょう。神様は、神様から離れ、罪に迷い、道を見失っている私たち一人ひとりに「あなたはどこにいるのか」と声をかけ、捜してくださるのです。私たちは、神様の語りかけを聖書の御言葉を通して聞くことが出来ます。そして私たちは、ご自身の御手を伸ばしてくださる神様の愛と恵みを神様の導きの中で見出すことが出来ます。
 神様は、私たちのことを決して諦めたりせず、私たちがいつも神様の方向を向くことを待っておられるのです。私たちは、自分の罪が分かったらすぐに悔い改めましょう。神様は、待っておられます。神様は、私たちにご自身の大きな愛を注いでおられます。私たちは、神様から離れた人生ではなく、神様と交わり、神様を喜び、神様の愛、神様の大きな憐れみに包まれた人生を歩むことが出来るのです。主なる神様を見上げましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様から離れた結果、人は罪を犯し、神様との関係が断絶し、人間関係も崩れしまいました。今も悪魔は、私たちが神様から離れるようにと誘惑してきます。神様、誘惑に打ち勝つ力を与えてください。神様、私たちがあなたから離れることなく、神様を見上げ、神様に守られ、支えられ、赦しと愛の中を歩むことができるように導いて下さい。
 また私たちの人間関係、夫婦関係、親子関係を祝福し、神様の臨在と神様の愛で満たして下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」