<子どもたちへ>
皆の得意な事は何かありますか。スポーツ、料理、畑仕事、美術などいろいろな事がありますね。その得意なことが将来の仕事に大きく影響を与えるかもしれませんね。
今日は、最初の人アダムとエバの間に生まれた二人の子どもたちを見ることにしましょう。アダムとエバは、残念なことに神様の御言葉に聞き従うことができずに悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまいました。彼らは、神様の背を向け、神様なしの自分中心の人生を選んでしまったのです。その結果二人は、エデンの園を追い出されてしまったのでしたね。その後、アダムとエバには子どもが生まれました。お兄ちゃんはカイン、弟はアベルです。二人は、大きくなって仕事をするようになりました。カインは、「一生懸命、土を耕してたくさん作物を作ろう」と畑仕事をします。アベルは、「僕は、動物の世話をしよう。」と羊を飼う仕事をはじめました。神様は、二人の仕事を守ってくださいました。
あるとき二人は、考えます。「いつも守ってくださる神様への感謝をささげて礼拝しよう。」こうして二人はそれぞれ神様へのささげものを用意しました。すると神様は、アベルとそのささげものに目を留め、受け入れてくださいました。でもカインとそのささげものには目を留めず受け入れることはありませんでした。それを見たカインは、「何でアベルのものは良くて、僕のがダメなんだ。アベルめ、覚えていろよ。」と怒りだし、その怒りの感情がカインの心の中で大きく、大きくなっていきました。
神様は、それをご覧になり、「どうしてあなたは、そんなに怒っているのか。あなたが正しい心でささげものをしていてばよかったのだよ。怒りの心のままではダメだよ。怒りに任せて罪を犯してはいけないよ」と、カインに声をかけます。これを聞いたカインですけど、聞く耳を持ちません。彼はアベルに「ちょっと、野に出掛けよう」と誘います。アベルは、「兄さん、いいよ。行こうか」と答えます。二人で出掛けたとき、なんとカインはアベルに襲いかかり、アベルを死なせてしまったのです。これは、人類最初の殺人事件です。
神様は、カインに語りかけます。「カイン、アベルはどこにいるのだろうか。」。するとカインは、「僕は、アベルの番人ではないので、そんなこと知りませんよ。」と答えます。神様は、「なんということをしたのか。アベルを殺してしまうとは。」とカインの罪を指摘して裁きを伝えました。神様は、カインのしたことを知らなかったのではなくて、カインに「神様、ごめんなさい」と悔い改めてほしかったのです。でもカインは、「そんなこと知りません」と知らん顔をして、「ごめんなさい」とは言いません。神様は、カインの命は守ると約束してくださいましたが、カインは住んでいる所を追い出されて、地上をさまよって暮らすこととなりました。
神様は、今も僕たちを見ておられ、僕たちの罪を気づかせてくださいます。神様に対して罪が分かったらどうしたらよいでしょうか。「そんなこと知りません。何かの間違いじゃないですか」と言って言い訳をすることでしょうか?それとも、「神様のごめんなさい。僕の罪をお赦しください」と素直に悔い改めることでしょうか?神様は、悔い改めることを願っています。自分の心の中にある罪に気づいたら、カインのように罪を隠すのではなく、直ぐに悔い改めましょう。僕たちが素直に悔い改める時、神様は、罪を赦してくださいます。そして神様は、僕たちの心を愛と恵みで満たし導いてくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。カインは、神様に罪を教えられた時、素直に悔い改めることが出来ませんでした。僕たちは、罪が分かったら、すぐに『ごめんなさい』と悔い改めます。神様、僕たちの心を守ってください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
創世記4章7節
<適用>
「蒔いた種を刈り取る」という諺があります。人は、良くも悪くも自分の行いの結果をこうむることになるということです。勉強を怠れば良い成績をとることが出来ません。物事を後回しにすると、結局何事も前に進まず、大失敗をすることとなるのです。そうとわかっていても、なかなか良い方向に向かうことが出来ないのが人の弱さです。
「人の振り見て我が振り直せ」という諺もあります。他人のしていることを見て、自分の行動を見直すという事です。これも多くの人は分かっているのだけれども、なかなか難しい部分かも知れません。今日の聖書箇所は、創世記4章です。カインとアベルは、私たちに何を教えているのでしょうか。私たちは、何を学び取ることが出来るでしょうか。
Ⅰ;妬みと憎しみ
神様は、カインに「戸口で罪が待ち伏せている」と言われました。この時カインは、どのような感情を抱いていたのでしょうか。彼は、「妬みと憎しみ」という感情を心に持ってしまいました。こうした負の感情は、私たちの心を大きく揺さぶることとなります。カインは、まさに妬みと憎しみで心が支配されてしまった人です。
カインは、大地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。二人の仕事は、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう(創世記1章26節)」と言われた神様の目的を果たす事となります。カインもアベルも自分の出来ることを通して、神様の造られた世界を大切にして、治めることになりました。アダムから学んだことだったことでしょう。神様は、二人の仕事を祝福してくださいました。ある時二人は、神様に捧げものをささげることとなりました。カインは地の産物から、アベルは羊の初子の中から肥えたものを持ってきて主にささげました。すると神様は、アベルとそのささげ物に目を留められ、カインとそのささげ物には目を留めなかったのです。その結果、カインの心には苦々しい思いが沸き起こって来ました。その苦々しさは、嫉妬と憎しみです。カインは、アベルと比較をして「どうして弟だけが受け入れられて、自分はだめだったのだろうか。」と考え、アベルのささげ物が受けいけられ、自分が拒否されたという現実に押しつぶされそうになったのです。カインは、「どうしてアベルが、どうしてアベルが」とアベルへの嫉妬心をもち、それが彼への憎しみへと変ってしまうのです。
だからカインは、神様が語り掛けてもその言葉に信仰を持って答えることが出来ななかったのです。神様は、「なぜ、憤り、なぜ顔を伏せているのか」と語り掛けたのです。そして7節で神様は、カインの行動、その心が正しくなかったと言っておられます。そして罪を犯すことがないように、しっかりと主なる神様を見上げるべきであると言われたのです。ある人は、「顔を隠す」ということは、自分の殻に閉じこもり、嫉妬と憎しみに支配されたカインの姿を現していると説明しています。
カインは、神様からの悔い改めの勧めに応じることをせず、神様の言葉に心を開くこともなく、アベルを野に誘い出し、アベルを殺してしまいました。人は、罪の結果、神様から離れ、自己中心になり他者を傷つけることをします。ヤコブは、この罪の現実を「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」と言っています。これが今も私たちを罪へと誘い込む悪魔の手法です。
今、「ぶどうの会」では、堀肇先生の書かれた「谷陰を超えて歩むー聖書の世界に生きた人々【旧約篇】」を読み進めながら学びをしています。先週の日曜日に、堀肇先生が召されたというニュースがありました。突然の事でびっくりしてしまいました。堀先生は、この本の中で「カインとアベル」も取り上げています。堀先生は、カインとアベルの出来事の中に兄弟関係に現れる問題を見ていました。そしてこのように私たちに問いかけています。「いずれにしても兄弟間をめぐる問題は単純ではなく、だれもがカインのように嫉妬心を持つことがあります。しかしそんなとき、相手に問題があると考え、怒って顔を伏せるところまで発展させないようにしたいのです。それは大事件に到らなくても関係の破綻によって傷つき、心に血が流れるような悲劇を引き起こさないためです。これが「最初の殉教者」とも言うべきアベルの死が私たちに告げるメッセージではないかと思うのです。(谷陰を超えて歩むー聖書の世界に生きた人々【旧約篇】71㌻)」
皆さん、私たちの心にも嫉妬心や憎しみを生み出す要素はあります。悪魔は、私たちの感情を刺激し、嫉妬と憎しみと怒りで私たちが支配されることを狙っています。ヤコブは、そのような感情に支配されると、罪を生み、罪が死を生み出すことになると語るのです。私たちは、心を神様に向けて歩みましょう。私たちは、常に罪の誘惑を受けています。その罪から神様に向きをかえ、死ではなく、命を生み出す神様の祝福の中を歩みましょう。
Ⅱ;礼拝の態度
神様は、「罪が戸口で待ち伏せている」とカインに語りました。その罪の姿は、私たちの礼拝の態度に現れてしまいます。
そもそも、カインとアベルの間に会った違いは何だったのでしょうか。神様は、何を問題とされたのでしょうか。何が問題だったのでしょうか。創世記では、その原因が明確にされていません。ささげ物に問題があったのでしょうか。私は、ささげ物そのものには問題がなかったのではないかと思います。なぜならば、二人とも自分の仕事の中で得たものを主の御前に持って来たからです。
問題となったのは、ささげる人です。神様は「アベルとそのささげもの、カインとそのささげもの」と言っています。さらに神様は、カインに対して「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。」とも言われました(創世記4章7節)。神様は、ささげ物の以前にそれをささげる人の心を見られるのです。カインとアベルの関係について、新約聖書から一つのヒントを得ることが出来ます。ヘブル人への手紙11章4節には「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。」とあります。ヨハネの手紙第一3章12では「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」と言われています。
問題となったのは、主なる神様への信仰があるかないか、また、正しい心で神様の前にいけにえをささげたのかということでした。神様の前にどのような心で進み出るのか、そこに神様への礼拝の心、感謝の心があるのかどうかが問題となったのです。
今でも悪魔は、私たちの礼拝を妨げようとします。「戸口で待ち伏せる罪」というテーマで見た時、私たちの礼拝の姿勢、態度は、どうなのだろうかと見つめ直すことが大切だと気づきます。カインとアベルの心をご覧になった主なる神様は、私たち礼拝者一人一人の心をご覧になります。イエス様は、真の礼拝者は、「霊とまことによって、御霊と真理によって礼拝する」者であると言っています(ヨハネ4:23‐24)。私たちは、礼拝の場に集いさえすれば、後は何を考えていても構わないと言うのではなりません。賛美を歌い、献金をして、説教を聞けば礼拝した事になるのではありません。賛美を歌っていてもそこに神様による喜びがなかったら賛美ではありません。感謝からの献金をささげることが必要です。説教を聞いていても、信仰をもって御言葉を聞き、応答することがなければ意味がありません。
アベルが告げる私たちへのメッセージは、私たちは、どのような心で主の御前に出て礼拝しているだろうかと言うことでもあると思います。
Ⅲ;悔い改め
神様は、カインに「戸口で罪が待ち伏せている。あなたはそれを治めなければならない」と言われました。これは、悪魔のささやきに負けて罪を犯してはならないという事であり、罪を悔い改めて主なる神様に立ち返るべきであるという促しでもありました。しかし、カインは、神様に立ち返ることをせず、アベルに襲い掛かってしまったのです。
その後、神様は再びカインに声をかけました。この時も神様は、悔い改めのチャンスを与えるのです。しかしカインは、神様に完全に背を向け、「そんなの知りません。自分には関係ない。」と言い切ったのです。そこで神様は、カインに厳しい裁きを宣言されました(創世記4章10-12節)。土地に定住して耕して作物を得る生き方をしていたカインは、地上をさ迷い歩くさすらい人とされてしまいました。彼は、何もかも失うことになるのです。このような宣言がされてもなお、カインは、悔い改めることをしません。13-14節のカインの言葉は、自己中心の極み、自己保全というか自己義認の姿です。カインは、自分の罪を認めず、悔い改めないで、自分の思いと自分の要求だけを主張しました。
この姿は、今でも人の中にあります。人は、自分の罪を認めることをせず、常に周りが悪い、自分は悪くない、自分は悔い改める必要などないと主張し続けているのです。ここで必要なのは、「人の振り見て我が振り直せ」の実践です。カインのように罪を認めず悔い改めないで罪に留まるのではなく、私たちは、罪が分かったらすぐに罪を認め、悔い改め罪から離れ、神様に立ち返ることが必要です。
罪は、いつも心の戸口で待ち伏せています。私たちは、本当に気をつける必要があります。私たちは常に、「今の自分は、神様中心に生きているだろうか。」、「今の自分の心は、神様に支配され、神様に真っ直ぐ向いているだろうか。」、そして「今の自分の信仰は、神様に喜んでいただけるものなのだろうか。」と考えつつ、祈りつつ歩んでいきましょう。
<祈り>
愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。カインの姿は、決して他人事ではありません。私たちは、嫉妬心や憎しみの感情を持ち、そのような感情で心が支配されやすい者です。神様、私たちが負の感情に負け罪を犯すことがないように守り導いてください。罪が分かったらすぐに悔い改めることが出来るように助けてください。
私たちは、アベルのように信仰をもって、心から感謝と喜びをもって神様を礼拝します。神様、私たちの礼拝を導いてください。私たちが、いつも神様に喜ばれ、受け入れて頂ける礼拝をささげることが出来るように祝福してください。
台風で大きな被害が出ている地域があります。どうか神様の支えをお与えてください。武力衝突が行われている世界中の地域に神様の平和があり、神様による解決がありますようにとお願いします。
今日から始まる一人ひとりの一週間が神様の祝福と恵みと憐れみで満ち溢れますようにとお願いします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン。」