2023年8月27日(日)創世記15章1-6節 「神を信じるとは」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 突然ですが、なぞなぞです。基本的にダジャレです。おやじギャグとも言えるかもしれません。聖書に出てくる人物を答えて下さい。第一問:世界で最初に入れ歯をした人はだれ?第二問:胃の摘出手術をしたらプリンセスになった人はだれ?
 大人の皆さんはもうお分かりですね。答えは1.アブラム。2.(その奥さんの)サライです。今日のお話に出てくる2人ですよ。どうして入れ歯と胃の手術なのかは、今日のお話に出てきますよ。見て行きましょう。

 この人はアブラムです。「アブラム、あなたはわたしに良く従っている。だから、あなたに素晴らしい祝福を与えよう。」するとアブラムは言いました。「神様、私はもう年寄りなのにまだ子供がいません。もう子供は与えられないのですか?」すると神様は言われました。「外に出て空を見てごらん。」見上げるとたくさんの星が輝いています。「この星を全部数えることが出来るかい?あなたには必ず子供が生まれる。その子孫はあの星のように数えきれないほどに増えるのだ。」そう言われてアブラムはどう思ったでしょうか。今日のみことばを一緒に読みましょう。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世15:6)。アブラムは、約束の中身も信じましたが、何より神様は真実なお方だと信じたのですね。神様はアブラムの素直な信仰をとても喜ばれました。「義と認められた」とは「正しいと認められ、受け入れて頂いた」という意味です。この後アブラムは「神の友」と呼ばれていきます。

 さてそれから何年も時が過ぎました。アブラムは99歳になりました。奥さんのサライは89歳です。立派な超高齢者です。二人にはまだ子供がいませんでした。ある日神様はこうおっしゃいました。「アブラムよ。あなたの名前をアブラハムに変えなさい。サライはサラと名を変えなさい。」似たような名前ですが、アブラムは1文字増えました。「ハ」が入りましたね。そう、なぞなぞの「入れ歯」というのは、この「ハ」が入ったことです。サライは1文字減りました。「イ」を取ったので、「胃の摘出手術」です。子供たちはこんなダジャレは教会で聞いていないかもしれませんね。
 アブラハム、とは「多くの国民の父」という意味です。子孫がどんどん増えて、国が出来るというのです。サラ、とは「王女(プリンセス)」という意味です。子孫から王様が出ると言われているので、王妃様のような立場になる、ということでしょうか。この改名は、必ず子孫が与えられるのだ、という神様からの約束の念押しだったのです。

それから少しして、ある日3人の旅人がアブラハムのところにやってきました。「ああ、旅のお方。どうぞここで休んで行って下さい」。アブラハムは美味しいパンや子牛の料理を出してもてなしました。すると、一人の人が言いました。「来年の今頃、サラに男の子が生まれます。」アブラハムはびっくりしました。「この人は一体どういう人なのだろう?」実はこの旅人たちは、神様と2人のみ使いだったのです。
 となりのテントではサラが会話を聞いていました。「まあ…私はもうおばあさんなのに。赤ちゃんだなんて、フフフ、そんなはずないわよね。」声には出しませんが、サラは心の中で笑ってしまいました。
 すると神様はアブラハムにおっしゃいました。「なぜサラは笑うのか。神に出来ないことがあるだろうか。来年の今頃私はまた戻ってくるが、その時サラには男の子が生まれている。」アブラハムは神様のおことばを信じて、サラと一緒に赤ちゃんが生まれるのを楽しみに待つことにしました。

 皆さん、最初にアブラハムが神様から約束を頂いてからこの時まで、10何年も時間が経っていました。なかなか実現しない中でも、アブラハムはあきらめないで信じて待ちました。神様はご自分が全能であることを思い出させて下さり、アブラハムを励ましてくれました。アブラハムは神様が必ず約束を守って下さるお方であると信じたので、神様に喜ばれたのです。神様は私たちのことも、祝福すると約束していてくれています。アブラハムの子孫に生まれた救い主が、イエス様です。このお方を信じるなら、血は繋がっていなくても霊的な意味でアブラハムの子孫だと聖書は言っています。私たちも神様を信じイエス様を信じて、祝福の約束を受け取らせて頂きましょうね。

<祈り>
 神様、アブラハムがあなたを素直に信じたことを学びました。イエス様を信じた時に頂ける祝福を、私も受け取らせて頂きたいです。何でもお出来になるあなたを私も信頼します。どうぞ信仰を強めて下さい。御名によってお祈りします。アーメン

「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」
                               創世記15章6節

<適用>
 先週は私が西荻チャペルでのご奉仕をさせて頂きました。FKKの礼拝奉仕は初めてでしたが、旧知の兄弟姉妹もおり幸いな礼拝のひと時に感謝しております。専任の牧師がいない教会にあって、大勢の先生方の奉仕のリレーで数年も守られているというのは凄いなあ、というのが一番の感想です。普通なら教会が疲弊してしまうところです。西荻の方々は「小川教会の皆さんにはご無理を言って申し訳ない」と恐縮しておられました。主の時に後任の先生をお迎えして行けるよう、引き続き西荻チャペルのためお祈り下さい。
 さて先週から、聖書において信仰の父、神の友と呼ばれるアブラムを学んでいます。今日は、アブラムの生涯において決定的に重要な箇所を学んで参ります。
 それは「信仰による義」が聖書で初めて語られるところであり、「アブラハム契約」と呼ばれる契約が与えられるところです。神を信じるとはどういうことなのか、アブラムから学んで参りましょう。

1.真実な神に信頼する

 神を信じるとはまず、真実な神に信頼して応答するということです。
 先週は、12章からアブラムの生き方を学びました。そこから本日の15章までに、アブラムは様々なところを通りました。飢饉によるエジプトへの避難、甥のロトとの別れ、周辺の王たちとの戦争など、波乱万丈です。「これらの出来事の後」(1節)というのはそういうことです。主は時を経てアブラムに語られました。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの報いは非常に大きい。」アブラムはエジプトにおいて、サライにまつわる失敗をしています。ファラオを恐れて妻を妹と偽ってしまったのです。自分の弱さを思い知ったことでしょう。また王たちとの死闘に勝利したことが14章に出ていますが、落ち着いてみると王たちの報復への恐れが芽生えたかもしれません。そのような不完全な存在としてのアブラムに、神様が優しく語り掛けて下さったのです。

 神様とアブラムのやり取りがそこに記されます。以前に子孫が与えられると言われたのに、いまだ子が生まれない不安を彼は申し上げます。そんなアブラムに、神様は夜空の星を見上げるようにおっしゃったのです。そして「あなたの子孫はこのようになる」(5節)とはっきりと告げられました。
 アブラムはこの時「主を信じた」と書かれています。何を信じたのでしょうか?実はここにはアブラムの二重の信仰が秘められています。

 1つは「主の約束が守られる」という信仰です。アブラムは明確に約束の実現を信じました。子孫が星のように与えられる、そしてカナンの地が与えられるという約束です。アブラムに対する約束は、いつも子孫と土地がセットで語られていました。
 もう1つは「主は真実なお方である」という信仰です。恐らくは80歳を超えていたアブラムにとって、子孫も相続地も雲をつかむような約束です。しかし、神様は真実で信頼に足るお方だと堅く信じたのです。
 「信じた」ということばは「アーメン」の語源です。「アーメン、あなたは信ずるに足る真実なお方です」という信仰を神様は大いに喜ばれたのです。それで神様は「それを彼の義と認められ」ました。聖書に初めて出てくる「信仰による義」です。ここで義と訳されているヘブル語には、いくつかの意味があります。倫理的な正しさ、法のもとに無罪であること、契約関係における誠実さ、などです。先に見たように、アブラムは完全無欠だったわけではありません。ここでは最後の「契約関係における誠実さ」がふさわしいと思われます。神様とアブラムの関係において、神様がこうあって欲しいと思われるあり方だった、ということなのです。

 皆さん、聖書には多くの恵みの約束がちりばめられています。けれども約束を信じる信仰は、「神様は私に対して真実なお方だ」との、信頼の信仰で裏打ちされることが必要なのです。神様はこのような信仰を、私たちに求めておられます。アブラムにならい、信仰によって応答しましょう。

2.神との契約の内に生きる

 神を信じるとはまた、神との契約の内に生きる、ということでもあります。
 神様とアブラムの対話は続きます。7節では土地の約束が語られ、アブラムは「それを所有することが、何によってわかるでしょうか」と問いかけています。神様は動物の犠牲による儀式をアブラムに用意させます。17節によれば、儀式が行われたのは日没の時でした。夜空の幻から、時間の経過が伺われます。裂かれた動物の間を煙と火が通りすぎました。これは神様ご自身が通られたことを意味します。契約を破ったならこの動物のようにされてもかまわない、という厳粛な契約の儀式です。不思議なことに、神様が一方的にその当事者としての役割を果たしておられるのです。聖書はこの行為を主とアブラムとの「契約」(18節)と呼んでいます。

 そして17章においては「代々にわたる永遠の契約」(17:7)と言われています。ノアの洪水のあとの虹の契約も「永遠の契約」呼ばれていました。それと同列のとても重要な契約が今、アブラムに与えられました。信仰の人アブラムは、契約の内に生きることになったのです。それは一方的な神の恵みの契約です。もちろん彼が約束の実現を見るには長い忍耐が必要でした。しかも星のように増え拡がるのを、彼は生きている間に見ることはありませんでした。それでも信仰を働かせて、その日を遙かに仰ぎ見て信仰のうちに歩み続けていくのです。

 では、このことは現代に生きる私たちにどう関係があるのでしょうか?新約聖書はこう語っています。「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とある通りです。ですから信仰によって生きる人々こそアブラハムの子であると知りなさい」(ガラテヤ3:6,7)。またこうもあります。「律法によって神の前に義と認められるものが、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』からです」(ガラテヤ3:11)。

 神様は不完全な罪人をも、信仰によって義と認めて受け入れて下さるお方です。しかし神の義と信仰による義認は本来対立するものです。その矛盾を解決するために神様が備えて下さったのが、アブラハムの子孫として生まれたイエス・キリストです。このお方に罪の裁きを身代わりに担わせることによって、神の義と信仰義認の矛盾が解決されたのです。
 イエス様は私たちに「ご自分の血による新しい契約」を与えられました。罪人にかわり十字架であがないの血を流し、信仰によって救われる道を完成してくださいました。そしてアブラムに約束された大いなる祝福を、今の時代を生きる私たちにも与えて下さるのです。信仰義認の恵みを、アブラムと同じように受けることが出来ます。私たちの分を越えた大いなる恵みです。ただ神様の選びによるとしか言えない恵みです。しかもそれは契約として、確かな約束として差し出されています。

 礼拝を共にしている皆さん。どうぞこの契約への招きにお応えいたしましょう。「私もイエス様を信じます。あなたとの永遠の祝福の契約の内に生かして下さい」と祈りを捧げましょう。神様は永遠に変わらず私たちを愛し、祝福を実現してくださるお方です。神を信じ、契約に生きる人生を始めて行こうではありませんか。

<祈り>
 恵み深い天の父なる神様。アブラムへの信仰義認と永遠の祝福の約束を学ばせて頂きました。アブラムのようにあなたは信ずるにたる真実なお方、との信仰を、私も告白いたします。罪に汚れた者ですが、イエス様の十字架の血潮に清め、受け入れて下さい。あなたの永遠の契約の内に飛ひこむ信仰を私たちに与え、その御手で迎え入れて下さい。すでに信仰によって義として頂いている者を更に励まし、この契約の内に忍耐と希望をもって信仰の歩みを続けさせて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。