<子どもたちへ>
長く、楽しい夏休みが終わって、2学期が始まってしまいましたね。お父さんお母さんは、「やっと夏休みが終わった」という思いがあり、皆は、「もう夏休みが終わっちゃった」という残念な気持ちでしょうか。皆にとってどんな2学期になるでしょうか。皆が神様に守られ、楽しい、素敵な2学期になるようにと祈ります。
「祈る」と言えば、今日は、アブラハムの祈りに注目しましょう。
先週のお話しを覚えていますか。先週は、アブラムの名前がアブラハム、サライの名前はサラになったことを聞いたと思います。そしてある日、アブラハムのところに3人の旅人が来て、びっくりすることを伝えましたね。それは、高齢のアブラハムとサラに男の子が生まれると言う知らせでした。今日は、その続きです。
3人の旅人の姿をしたうちの一人は神様、2人は御使いでした。3人の旅人は、アブラハムとの話しが終ると旅を続けます。アブラハムは、3人を見送るために一緒に歩いています。すると神様は、何かを考えておられました。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろか(創世記18:17)。」神様ですから、アブラハムに言わなくても隠していることにはならないと思います。でも神様は、「アブラハムには伝えるべきだろう」と考えてくださったのです。その内容は、アブラハムにとってはびっくりするようなものです。
神様は、アブラハムに言いました。「アブラハム、わたしがこれからしようとすることを聞いてほしい。わたしは、これからソドムとゴモラの町に行くことにしている。その町の罪は非常に大きく、これ以上見過ごしには出来ない。罪が大きすぎてもう滅ぼすしかないと考えている。だから直接、ソドムとゴモラに行って確認するんだよ。」
これを聞いたアブラハム、「えーーー、神様そんな秘密を言われても、ちょっと困ってしまいます。」という気持ちになったでしょうね。でもアブラハムは、神様の言葉を聞いた時、落ち着いて考えました。そしてアブラハムは、神様に一つの事をお願いすることにしたのです。それがアブラハムの祈りです。アブラハムは、ソドムとゴモラの町のために神様に祈るのです。それは、甥のロトたち家族の事を考えたからかもしれません。とにかく、アブラハムは、神様に祈らずにはいられなかったのです。
アブラハムは言います。「神様、一言よろしいでしょうか。神様は、正しい人と悪い人を一緒に滅ぼすことはしませんよね。その町に50人神様を信じる正しい人がいるかもしれません。その正しい50人のためにソドムとゴモラを赦して頂きたいのです。正しい人を滅ぼすなんて神様はしないですもんね。」
神様は、「滅ぼさないよ。そこに50人の正しい人を見つけたら。」と言ってくれました。これで一安心。いいえ、アブラハムはまだ心配で、「神様、正しい人が45人しかいなかった場合、その町を滅ぼしてしまうのですか。」と訴えます。神様は、「滅ぼさない」と言われます。まだ心配なアブラハムは、「神様、怒らないで聞いてください。30人ならどうでしょうか。20人なら、10人ならどうでしょうか。」と、どんどん人数を減らしていきました。神様は、「うるさい」とは言わずにアブラハムの言葉を聞いておられます。そして神様は、最終的に、10人そこに正しい人が見つかったら滅ぼさないと約束をしてくださったのです。
アブラハムの祈りは終り、神様はアブラハムを離れて行かれました。このアブラハムの姿は、人のためにお祈りをするということの大切さを教えています。アブラハムは、甥のロトを含めて、ソドムとゴモラの人たちのために祈りました。神様は、アブラハムの祈りに耳を傾けて聞いてくださいました。神様は、今も僕たちの祈りを聞いてくださいます。僕たちは、自分の事はもちろんのこと、家族のために、友だちのために祈ることが大切です。このような祈りを「執り成しの祈り」と言います。特にまだ教会に来ていない友だち、聖書の神様を知らない友だちのために祈ることが大切です。学校の友だちが、教会に来ることが出来てイエス様の十字架の救いを信じる事が出来るように祈りましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。アブラハムは、神様の御前に執り成しの祈りをしました。僕たちも、家族のために、友だちのために祈ることが出来るように助け導いてください。神様、2学期が始まった一人ひとりの学校生活を守り祝福してください。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「主は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます。」
詩篇145篇8節
<適用>
私は、7月末に東京のお茶の水にある、お茶の水クリスチャンセンター(OCC)に行きました。それは、5月に召された堀肇先生の感謝の集いに出席するためです。OCCにはキリスト教書店を始め、色々なキリスト教団体の事務所が入っています。テレビ伝道をしている太平洋放送協会(PBA)の事務所もあります。私は、沼田教会で奉仕をしていた時に、PBAの方と知り合っていたので、挨拶をしようと思っていました。PBAの事務所の前で、丁度その人に会う事が出来ました。すると彼は、私をすぐに事務所の中に案内してくださり、そこで働いている方々を紹介してくださいました。堀先生の感謝の集いまでは、まだ30分以上時間があるという事で、その方の執務室で休憩までさせてくださったのです。彼は、私が少しでも安心して過ごせるようにと配慮をしてくださいました。私たちは、時として間に入ってくれる人の存在で安心するものです。
執り成しの祈りというのは、そのように神様と人々の間にあって仲介の役目をすることになります。アブラハムは、神様との交わりの中で執り成しの祈りに導かれた人です。私たちは、アブラハムと一緒に神様の言葉に応答する者となる必要があります。
Ⅰ;私たちの特権(16‐21)
「執り成しの祈り」は、私たちの特権です。執り成しの祈りとは、他の人のために祈ることです。私たち自身の祈りを振り返ってみて、その祈りは、自分のため、他者のため、どちらの内容が多いでしょうか。すでに執り成しの祈りをしているという人もいるでしょう。ある人は、自分のような者は他の人のために祈ることなど出来ないと考えかもしれません。しかしそのように考える必要はありません。執り成しの祈りは、私たちに与えられた特権であることを知る必要があります。また執り成しの祈りをすることは、信仰者として大切であることを知っていただきたいと思います。
神様は、アブラハムの事を「わたしの友(イザヤ41:8)」と言われました。神様は、アブラハムを友とお考えになり、ご自身の御心を示されました。アブラハムは、神様の友と言う関係を与えられ、その中で執り成しの祈りに導かれていくのです。アブラハムだから「神の友」と呼ばれたのだろうと思うでしょうか。確かにアブラハムだからということもあるでしょう。しかし、神様は、一方的な恵みをアブラハムに注ぎ、アブラハムを選び、彼を友と呼んでくださったのです。
それは私たちも同じです。イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と言っておられます。イエス様は、私たちを友と呼び私たちのために命を捨ててくださいました。そして、イエス様は、友である私たちに神様の御心を教えてくださるのです。私たちは、友であるイエス様と親しいかかわりを与えられ、主なる神様に大胆に近づくことが出来るのです。だからこそ私たちもまた、アブラハムのように神様の御前で、人々のために執り成しの祈りをする特権を与えられているのです。もしこの特権を否定するならば、「友」と呼んでくださる神様の恵みを否定することにもなるでしょう。
Ⅱ;主は求めておられる(22)
執り成しの祈りを考える時、私たちは、神様が執り成す者を求めておられるということを心に留める必要があります。神様は、アブラハムにソドムとゴモラに対してする事をすべて打ち明けました(20-21)。神様は、ソドムの事を知らないからそのように言うのではありません。神様は、ソドムとゴモラの罪の大きいことを良く知っていました。けれどもその罪に対する裁きの前に悔い改める機会を与えようとされたのではないでしょうか。この神様の知らせは、アブラハムにとって非常にショッキングな報告です。主が言われるように二人の御使いがソドムとゴモラの方に向かって進んでいきます。主は、アブラハムの所にいました。22節「アブラハムは、まだ主の前に立っていた。」とありますが、主は、アブラハムの側に残りました。まるでアブラハムの言葉を待っているように。実際に主はアブラハムの言葉を待っていたのでしょう。
アブラハムは二人を見送りながら、側におられる主に向かって口を開きます。それが23-32節のアブラハムと神様とのやりとりです。50人の正しい者がいたらその町を赦してください。アブラハムは神様の公正や神様の義に訴えます。アブラハムは言います。「世界を公正に裁かれるお方が正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすことはありえないことです。罪に心を痛めている正しい者のためにその町をお赦しにはならないのですか。」このアブラハムの訴えに対して神様は、50人のために町を赦そうと言われます。アブラハムは50人と切り出しましたが、不安になり、正しい者の人数を減らして神様に訴えます。45人、40人、30人、20人。神様はどの訴えにもその町を赦そうとおっしゃいました。最終的には10人の正しい者がいたらその町を赦そうと約束してくださいました。アブラハムは、神様との交わりの中で執り成しの祈りへと導かれました。彼は、自分の救いや自分だけの平安、自分の祝福だけを求めてはいませんでした。アブラハムは、他者のために祈り、主の憐れみを求めたのです。そして神様はそのようなアブラハムの祈りを無視することはありませんでした。というよりもアブラハムが執り成すのを待っておられたようにさえ思えます。
神様は私たちの祈りをも待ち望んでおられます。イザヤ書59:16には、「主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに愕然とされた。」とあります。またエゼキエル書22:30には、「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」とあります。神様は、人々のために主の前に執り成し、主の憐れみを求め、救いのみわざを求める人がいないのを悲しんでおられます。私たちは神様の前にどのように祈るでしょうか。
イエス様は私たちを友と呼んでくださいました。そして神様の御心を私たちは知っています。その御心とは、神様が一人一人を愛しておられること、人間は罪人であり、その罪に対する神様の裁きがあること。神のひとり子イエス様が、私たちの罪のために十字架で神様の裁きを身代わりに受けてくださったこと。イエス様の十字架の救いを信じる人は救われ永遠の命が与えられること。神様は、一人でも多くの人が救われることを願っておられること。神様に従って歩むことが大切であること。等々を私たちは、神様から教えられています。だからこそ私たちはまだ神様を信じていない人々のために執り成すことが求められているのです。アブラハムは、神様のお考えを知ったので、執り成し、憐れみを求めずにはいられなかったのです。私たちはどうでしょうか。神様は私たちの執り成しの祈りを求めておられます。そして今私たちは、この執り成しの祈りをするようにと主に招かれている事を覚えましょう。
Ⅲ;執り成しの根拠と忍耐(23-32)
最後に、私たちが執り成しの祈りが出来る根拠とそこに必要な忍耐を見ることにしましょう。
アブラハムは、主の前に祈る時、神様の公義と正しさに訴えました(19)。アブラハムは、必死に祈るから神様聞いてくださいとは言いませんでした。彼は、謙遜にへりくだって、神様ご自身のご性質や愛、正しさに訴えたのです。私たちは、主の前に祈る時、自分の状態や自分の祈りの必死さで訴えるのではありません。「神様、これだけ必死に祈り、ずっと祈っているのだから、そろそろ聞いてくださっても良いではないですか。」と祈るのではありません。私たちは、アブラハムと同じように、謙遜にへりくだって神様の正しさと愛、神様ご自身の御言葉の約束に訴えるのです。神様は「情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 恵みに富んでおられます(詩篇145:8)。」。これが私たちが、執り成しの祈りをする事が出来る根拠となるのではないでしょうか。神様は、私たちの執り成しを、愛と恵みをもって聞いてくださるのです。
そして、アブラハムはあきらめずに訴えました。執り成すのには忍耐が必要です。その祈りが聞かれるまで、主の答えが示されるまで祈り続けることになるからです。そして執り成しの祈りには、愛が必要です。執り成しの祈りは、私たちに愛の心を育てます。愛のバロメーターということが出来るでしょうか。アブラハムは、甥のロトが住んでいたことも関係していたのかもしれませんが、ソドムの町のために祈りました。しかしアブラハムを動かしたのは、「罪深い人々とはいえ神様の愛が注がれる余地はないのだろうか。」という思いではなかったでしょうか。アブラハムは、ソドムとゴモラの人々のことを思うゆえに執り成したのです。
神様も愛の執り成しに対して答えてくださいました。神様の側にも忍耐と愛がありました。こうして神様は、友であるアブラハムとのかかわりの中でご計画を進められたのです。神様と人との生き生きとした交わりの中で神様は働かれるのです。決して私たちを無視してことを行うことはありません。だからこそ神様は愛と憐れみと忍耐と寛容をアブラハムの祈りに示してくださったのです。
神様は、私たちの祈りにもご自身の憐れみと寛容を示してくださいます。この信仰があるからこそ私たちは、執り成しの祈りをすることが出来るのです。クリスチャンの祈りは、執り成しの祈りであるべきだと思います。でも自分のことを祈ってはいけないというのではありません。しかし自分のことだけを祈っていればいいというのでもありません。イエス様が十字架の上で「父よ。彼らを赦してください。」と祈られたように私たちも他者のために祈る必要があります。隣人を愛すると言うならば執り成しの祈りが出来るはずです。何を祈れば良いのかと考え込んでしまうことがあるでしょうか。どんなことでもいいのです。まだ神様を信じていない人が神様を信じられるように。具体的に名前をあげて祈ることが出来るしょう。その人が罪を止められるように祈るのです。また兄弟姉妹のためには、日々の生活が守られるように、健康が支えられるように。いつも主を信じて歩めるように。その人の毎日が祝福され、賛美に満たされ、感謝の心で歩めるように祈りましょう。
ニュースを聞けば祈りの課題が山ほどあります。日本の国のために、世界中の国々のために祈るべきことは尽きません。私たちは、日本に、世界に、神様の憐れみが注がれ、神様の平安があるようにと祈り続けましょう。
執り成しの祈りは、私たちを神の友としての交わりに引き上げ、私たちの信仰を強めます。私たちは、主の前に執り成す者となり、主の祝福をさらに経験していきましょう。
<祈り>
「情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く恵みに富んでおれる主なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちが、あなたの御前に進み出て祈れることを感謝致します。神様は、執り成すものを求めておられ、私たちが執り成しの祈りをするのを待っておられます。神様、私たちの祈りを導き、執り成す者となされてください。
私たちは、家族のために、友だちのために、日本のために、世界のために祈ります。神様、私たちの祈りを引き上げてください。神様、私たちの家族がイエス様を信じる信仰に導かれますように。神様、私たちの友だち、会社の同僚、近所の方々に、神様の祝福を注いでください。神様、日本に世界に恵みを満たし、一人ひとりの心に神様の愛を溢れさせて下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」