2023年9月10日(日)礼拝説教 創世記19章1-14節 「主の憐れみの御手」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師
 アブラハムのお話が続いていますね。今日はその親戚の人のお話をします。それはこの人…アブラハムがいつも気にかけていた大事な甥っ子、ロトです。アブラハムが約束の地を目指す旅をする時も、我が子のようにいつも一緒に行動していた人です。ロトは、アブラハムから離れて、ソドムというとても栄えた町にくらしていました。

 ある時ロトのところに、3人の旅人がやってきました。そう、アブラハムのところにもやってきたあの3人です。それは、神様とみつかいたちでしたね。神様が言っておられたのは、「ソドムの町が悪に染まり切っているので、町を滅ぼしに来たのだ」ということでした。あの時アブラハムが50人、45人…いや10人正しい人がいたら町を助けて下さい、ととりなしたのは、そこに住んでいるロトを心配してだったのです。

 さて、3人の旅人がロトの住むソドムにやってきました。けれどもソドムに住む人たちは、平気で悪いことをする人達でした。ロトは旅人を心配して、「ああ、皆さん。よろしければ私の内に泊まって下さい」と声を掛けました。ごちそうも出してもてなしました。アブラハムと同じ行動ですね。すると夜、町の人たちが押し寄せてきて騒ぎ出しました。「おい、そいつらを出せ!ひどい目にあわせてやる!」ロトは「皆さん、やめて下さい!」と必死に止めようとしました。でも人々はロトに暴力をふるって、今にもドアを打ち破りそうです。するとあの人たちが不思議な力でロトを守りました。ドアをさっと開けると目つぶしのような光が起こり、ロトの手をつかんで家に引き戻したのです。

 みつかいは言いました。「あなたの家族をみな連れて、この町から脱出しなさい。私たちは神様のさばきで、この町を滅ぼそうとしています。」ロトはびっくりしましたが、大急ぎで町に出て親戚に声をかけて回りました。でも、娘たちの他は誰も信じる人はいません。「どうしよう、私の妻と2人の娘しかこのことを信じてくれないぞ」。ロトを入れたらたったの4人です。ロトはどうしていいかわからなくなってしまいました。するとみつかいは彼らの手をつかんで、家から引っ張り出してくれました。神様がロトたちを助けよう、と憐れんで下さったからです。町の外まで来てようやく一息つくと、みつかいは言いました。「さあ、この先は後ろを振り向かずにいのちがけで逃げなさい。立ち止まらずに逃げないと、滅ぼされてしまいます。」
 ロトの願いによって別の小さい町に逃げこむことが許されたので、みんな必死に逃げました。ロトの奥さんは、自分の家やソドムの町が気になって振り向いてしまいました。するとどうでしょう、なんと塩の柱になってしまいました。ロトたちが町に逃げ込んだその時、ソドムとゴモラの上に、天から火と硫黄が降って来ました。生き物も植物もみな、滅ぼされてしまいました。

 とても悲しい事件ですね。罪に対する神様の怒りと裁きは、恐ろしいものだなあと思わされます。でも今日覚えたいことがあります。それはそんな罪の世の中でも神様は救いを与えて下さるということです。神様は神様に従って生きようとする者を、ロトのように憐れんで守って下さるお方です。アブラハムが必死にとりなしの祈りをしたとはいえ、10人の正しい人もいなかったソドムです。でも神様は人数に関係なくロトを守って下さいました。
 今日のみことばを読みましょう。「すべて主を愛する者は主が守られます」(詩篇145篇20節)。ロトも完ぺきな人ではありませんでした。罪の町ソドムに自分から住んでしまった弱さもありました。でも神様はロトの願いを聞いて下さったり、家族を説得する時間を下さったり、何より手をつかんで助け出して下さいました。ロトは神様を信じて神様を愛する人だったからです。私たちもロトと同じで、完ぺきな人はいません。でも神様は私たちを憐れみ、親身になって守って下さるお方です。神様を信じてお従いしていきましょう。

<祈り>
「神様、みことばをありがとうございます。ロトは完ぺきではありませんでしたが、あなたはロトを守られました。私たちもことも大事に守って下さることを感謝いたします。神様を怖れて罪から離れ、信仰をもって歩んでいきたいと願います。続いて私たちをお守りください。御名によってお祈りします。アーメン。」

「すべて主を愛する者は主が守られます。」    詩篇145篇20節

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを送らせているのはなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
                               Ⅱペテロ3章9節

<適用>赤松勇二師
 私たちには、「記念日」と言える日がいくつかあると思います。「記念日」としなくても記念とする何かをするという事もあるでしょうか。生まれたことを記念する「誕生日」大切な日です。「結婚記念日」、「自転車に乗れるようになった日」、「初めて給料をもらった日」等々です。私は、高校を卒業し予備校や専門学校に通う時に、新聞配達をしながら通いました。私が受け取る給料の半分以上は自動的に学費となります。しかし私は、自分で働いて手にする初めての給料をもらった時、嬉しかったのを覚えています。「家族にプレゼントを」と思った私は、一人一人に送るプレゼントを選び始めました。記念だからと思って値段を見ないで選んでいたら、「手取りの給料がなくなってしまう」という事に気づいて、慌てて値段を見直してじっくり選びました。
 教会では、イエス様を信じた「信仰告白記念日」、洗礼を受けた「洗礼記念日」などがあります。そして今日の礼拝は、「召天者記念礼拝」です。天に召された兄弟姉妹を偲び、その信仰の姿に思いを向けて行きましょう。
 彼らは、神様の憐れみの御手を信じ、信頼し信仰をもって歩んでいました。今日は、創世記19章を開きましたが、19章には、神様の厳しい裁きが記されてあります。けれども、厳しい裁きの中にある主の憐れみの御手を見ることが出来ます。ご一緒に見て行きましょう。

Ⅰ;ソドムの罪

 「主の憐みの御手」は、ソドムの罪の中にあっても差し伸べられていました。アブラハムから分かれた二人の御使いは、夕暮れにソドムに着きました。この時ロトは、町の門に座っていてこの旅人を迎えました。当時の門というのは、単なる入り口ではなく、町の長老たちが集まり、様々な事が議論されていました。ロトがこの門に座っていたということは、彼がソドムの町である程度の地位を得ていたということです。ロトは、最初アブラハムと行動を共にしていました。しかし家畜や財産が増えた時、アブラハムは、ロトに別々に行動しようと提案します。ロトは、「場所を先に選らんでよい」と言われ、緑豊かなヨルダンの低地を見て、そこに移動しました。ロトが選んだ地域は、ソドムとゴモラの近くでした。ロトは、遊牧民としてヨルダンの低地に移動しましたが、ソドムの町に天幕を移して定住するようになります (創世記13:12‐13)。

 ロトは、野宿をするという旅人を強いて自分の家に招きます。それは、ソドムの人々の実態を知っていたからこその行動でした。事件はその晩に起こりました。町の男たちがロトの家にやって来て、二人の旅人を自分たちによこせ、二人を知りたいと言い出します。この「知りたい」というのは、性的なことにおいて知りたいということです。このことからも分かるように異常な世界がソドムの町を支配していたのです。この結果、ソドムの罪は極めて重いこと、主の裁きを避けることは出来ないことが明らかになりました。神様がアブラハムと約束した10人の正しい人を、ソドムでは見つけることが出来なかったのです。

 ソドムの罪は道徳の崩壊、性の乱れ、不品行、あらゆるむさぼりに満ちていました。しかし現代の私たちの社会もソドム的な社会と言えるかもしれません。創世記19章に当てはめて考えるならば、神様の裁きは避けることが出来ないのではないでしょうか。しかし、神様の裁きはまだ下されていません。神様は今の状態を容認しておられるのでしょうか。そうではありません。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3:9)」神様は、この世界に対する裁きを定めておられます。しかし神様は、その時を遅らせてくださっています。なぜなら、私たちが罪を離れ、悔い改めて主に立ち返るためです。神様は、忍耐しておられ、私たちを待っていてくださいます。私たちは、「だれも滅びることがなく」という私たちに差し伸べられた神様の憐れみの御手をしっかりと心に留めましょう。

Ⅱ;アブラハムの執り成しゆえ

 「主の憐みの御手」は、アブラハムの執り成しがあったので、ロトに差し伸べられました。ソドムの罪は主の裁きを決定的なものとしました。その渦中の中にいてロトは大きな失敗をしています。
 ロトの失敗の一つ目は、ソドムとゴモラの罪から離れることが出来なかったと言う点にあるのではないでしょうか。ロトは、最初ソドムの町の側に天幕を張っていました。しかし時間の経過の中で彼は、ソドムの町に移り住むようになっていました。彼は、旅人を見つけて宿を与えるという紳士的な態度を持っていました。ペテロもロトのことを義人と言っています。「そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正し人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。(Ⅱペテロ2:7-8)」

 確かにロトは、町の人々の悪の行いに心を痛める正しい人であったでしょう。けれども彼は、自分から悪の町に入り、離れることが出来なかったのです。そしてソドムの罪は、ロト自身も気づかないうちに、彼の行動に影響を与えていました。それは、町の男たちが旅人を求めた時、自分の娘を差し出すから旅人には手を出すなと言ったことに見られます。ロトは、旅人に誠意を尽くしたいと考えたのでしょう。しかし彼は、人々の罪を指摘して正そうとすることはありませんでした。ロトは、正しいことをしているようで、実はソドムの悪の影響を受け道徳的な感覚が麻痺してしまっていたのではないかと思います。ソドムに移住するという一つの妥協が正確な判断を鈍らせることとなりました。ロトは、どうすればよかったのでしょうか。それは、ソドムに近づかないことでした。御使いがロトを家の中に入れたのは危険だからという理由と、このような罪からは離れる以外に方法はないということを教えているのではないでしょうか。

 ロトの二つ目の失敗は、自分の考えを優先させることでした。御使いはすぐに町から逃げ出すようにロトを急がせます。しかしロトは、すぐには信じることが出来ませんでした。ロトの心の中には、「本当にソドムを滅ぼすなんてことはありえるのだろうか。」という考えもあったのではないでしょうか。御使いは、決断の出来ないロト家族を無理にでも引っ張り出します。御使いが言うには「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい、そうでないと滅ぼされてしまうから。(17)」と言うことです。

 ロトは即座に答えます。「それは無理です。山に逃げるなどできません。神様が言う通りにして山に逃げたら死んでしまうでしょう。近くにあるあの小さな町に逃げさせてください。逃げやすいし小さいのです。小さい町なのだから滅ぼさなくてもいいではないですか。」ロトは、神様の言われることは出来ないと反論するのです。それよりももっと自分にとって都合のいいことがあるではないか。神様の言葉よりも自分の思いを優先させるロトの姿です。
 御使いはロトの要求を受け入れました。それは、ロトの考えが正しいからではなく、ロトを説得する時間的な猶予がなかったからです。何といっても神様の憐れみによることでした。神様は、アブラハムの執り成しを覚えておられたので、ロトは、主の憐みの御手に守られることが出来たのです。

 神様は、今の世を忍耐しておられ、一人でも滅びることなく、悔い改めに進むことを願っておられます。私たちは、神様の憐れみの御手に守られていることを感謝し、罪を離れ、悔い改めて神様を見上げましょう。私たちは、自分の人生の進む道を考えた時、自分自身の思いや都合を優先させることなく、神様の導きに耳を傾け、憐れみの御手によって導かれることを信じて、信頼して進みましょう。そこに神様の救いがあります。

Ⅲ;主の憐れみに応答する

 私たちは、主の憐みの御手に信仰をもって応答しましょう。
 今日、私たちは召天者記念礼拝を行っています。私たちと信仰の歩みを共にし、主なる神様を共に礼拝した兄弟姉妹たちの事を思い巡らす時です。彼らは、主の憐れみの御手を信じて信仰の応答をした人たちでした。

 私は、2020年から小川教会に赴任していますので、それ以前に召された方々とはお交わりをする機会がありませんでした。昨年、天に召された木村陽さんとは数年の交わりが与えられました。陽さんの信仰の姿は、私たちに多くの事を教えてくれています。陽さんの信仰の「証し」からその信仰の姿を思い返しましょう。陽さんは、お父様が戦争に行かれ、亡くなったという知らせを受けました。その時陽さんは、「いのち」という事について考え始めました。そして高校生の時に教会に導かれ、人に命を与え、救いを与える主なる神様を信じる信仰に導かれました。こうして陽さんのクリスチャンとしての歩みが始まりました。結婚後、長女の方の病気がきっけかとなり小川町に引っ越して来られました。陽さんは、娘さんの闘病を支え、天に見送りました。大きな悲しみの中で、陽さんは「諸々の思い煩いの深い谷に落ち込み、神に助けを求めておりました。『教会へ行かなければ自分の信仰が駄目になる。』という危機感がありました。」と証ししておられます。これは主なる神様ご自身が、陽さんの心に働きかけてくださったことと信じます。こうして陽さんは、「みことばから力をいただきイエス様の平安のうちに歩ませていただいております。」と証しを締めくくっておられました。陽さんは、「主の憐みの御手」に守られ、導きを信じて歩んでいたのです。皆さん、私たちは、天に召された方々に思いを向け、その信仰の姿を模範として歩みましょう。

 また、私たちは、主の憐みの御手を信じ、祈ったアブラハムの信仰に倣い、信仰をもって歩みましょう。神様は、今日にいたるまで私たちに憐みの御手を指し伸ばしてくださいました。そして神様は、これからも私たちの人生に憐みの御手を指し伸ばしてくださいます。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日私たちは、神様が、アブラハムの執り成しの故にロトに憐れみの御手を差し伸べられたことを学びました。また私たちと信仰を共に分かち合い、共に礼拝して一人ひとりも神様の憐れみの御手を信じて歩んだ姿を思い起します。神様は、今も私たちに憐れみの御手を指し伸ばしてくださることを感謝いたします。私たちは、「主の憐れみの御手」を信じ、罪を離れ悔い改め、主なる神様を信頼して歩みます。どうぞ導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」