<子どもたちへ>
先週まで、旧約聖書の創世記からアブラハムの生涯を学んできました。今日からは、アブラハムから数千年後の時代になります。イエス様の歩みについて学びます。
さて、問題です。イエス様は、どこでお生まれになったでしょうか?イエス様が生まれたのは、ユダヤのベツレヘムです。では、イエス様が育った町はどこでしょうか?イエス様が育った町は、ナザレという町です。
イエス様が、神の子救い主として公の活動を始めてからしばらく経った時の事です。イエス様は、ご自分が育ったナザレの町に行かれました。そしてイエス様は、安息日にいつものように神様を礼拝するために会堂に行かれました。イエス様は、神様を礼拝する事を大切なこととして守っておられました。僕たちも今日こうして教会に集まり神様を礼拝していますね。神様を礼拝する事は、とても大切なことであり、神様が喜んでくださる事です。これからも、一緒に神様を礼拝していきましょう。
イエス様の時代の礼拝は、会堂を管理している責任者が、礼拝を導いていました。プログラムは、聖書朗読と祈祷、説教、祝祷が中心になっていました。会堂管理者がイエス様の所に来て「預言書の朗読をお願い出来ますか」と声をかけます。会堂管理者はそう言って、預言者イザヤの書を渡しました。イエス様は、イザヤ書を開き、61章1-2節を朗読して、座りました。
その場にいた誰もが「イエス様は、この箇所から何を話して下さるのだろうか。」、「きっと素晴らしいことを教えてくださるに違いない。」とか「もしかしたら、聖書のお話だけではなく、何か不思議な奇跡を行ってくださるかも知れない。色々な場所で素晴らしいことが行われたという噂があるからね。」などと心の中で考えながら、じーっとイエス様を見つめています。人々の注目を感じてイエス様は、話し始められました。それは、とても素晴らしい宣言でした。
「今読んだイザヤの預言が、皆さんが聞いた通り、今日、実現しました。」とイエス様は言われたのです。これは、イエス様が預言されていた救い主、メシアであるという宣言です。イエス様が読んだ、イザヤ書には「救い主に神様の霊が注がれている。救い主は、心貧しく罪の中で苦しんでいる人たちに罪からの救いと解放を与える。救い主は、神様の愛と恵みの福音を伝える。」と言うことが書いてあったのです。イエス様は、この素晴らしい預言が、今聞いた通り実現したと言われたのです。
ナザレの会堂で聞いていた人たちは、イエス様の言葉に驚きました。彼らは驚いただけで、イエス様を救い主として認めることが出来ませんでした。人々は、「イエスは、何を言っているのか。大工ヨセフの息子ではないか。」、「自分たちは、イエスを小さい時から知っているし、普通の人間ではないか。救い主、メシアであるはずがない。」と言い始めたのです。
イエス様は、これを聞くと「きっとあなたがたは、『他の所でも行っている不思議な奇跡をしてみろ、そうしたら信じられる』と言うでしょう。でも預言者が故郷で受入れられないのは確かなことですね。」と言い、旧約聖書でイスラエル人が、預言者を受入れず、イスラエル人以外の人たちが神様の恵みを受けた旧約の出来事を話されました。イエス様は、イスラエル人でも異邦人でも神様を信じる全ての人が神様からの恵みを受けることが出来るのだからナザレの人たちも心を開いて神様を信じるようにと勧めたのです。けれどもナザレの人たちは、「なんと言うことだ!けしからん」と言って怒りだし、イエス様を崖から突き落とそうとしました。イエス様は、人々の間を通り抜けて、ナザレを去って行かれました。そしてガリラヤのカペナウムを伝道の拠点とするのです。
今日、心に覚えたいことは、イエス様は僕たちを罪から救う救い主であり、僕たちの毎日の生活をたくさんの良いもの(祝福と恵み)で満たして下さると言うことです。僕たちのすることは、イエス様を信じて、イエス様の救いを受入れることです。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。僕たちは、イエス様が旧約聖書で預言されていた救い主であることを信じます。イエス様を心から歓迎致します。イエス様、僕たちを罪から救い、僕たちの心を励まし、力づけて導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」 ルカの福音書4章18節
<適用>
今年の夏は、記録的な暑さとなりました。残暑も予想を超えて厳しく、9月に入っても真夏日が続き、東京では90日連続という記録となったようです。さて、今年の冬は、どのような天気が予想されているのでしょうか。気象庁の長期予報では、例年より気温が高くなり「暖冬」となる見込だそうです。けれども急な寒気で大雪になる可能性もあるようです。まだ10月ですが、この長期予報がどうように実現するのかは数ヶ月後に分かります。
聖書が語る預言、特に救い主預言については、イエス様によって実現しました。今日は、イエス様ご自身による宣言を見ることにしましょう。
Ⅰ;ナザレでの宣言
「御言葉が実現した」これは、イエス様がナザレで明言された素晴らしい宣言です。
ナザレの町に帰られたイエス様は、いつものように安息日に会堂に入られました。ルカは、「いつもしているとおり」会堂に入られたと表現しています。これは、ルカ特有の表現となっています。イエス様にとって、会堂での礼拝は習慣であり当たり前で、神様を礼拝する事をとっても大切にしていたということです。ルカは、イエス様について他の場面でも「いつものように」という表現を使っています。それは、十字架につけられる直前のゲッセマネでの祈りです。ルカは、「いつものようにオリーブ山に行かれた。・・・いつもの場所に来ると・・・(ルカ22:39-40)」と書いています。イエス様は、エルサレムに来るといつもオリーブ山に行き、祈っていたのです。ルカのこの表現は、イエス様が父なる神様を礼拝すること、祈りによって神様と交わることをとっても大切な事として実践していたと言うことの証拠です。私たちもイエス様と同じように、礼拝と祈りを「いつものように」当然の事として大切にしていきましょう。
さて、イエス様はナザレでいつものように会堂に入られました。その時イエス様には、預言書の朗読が任されました。当時の会堂での礼拝は、シェマという戒めの言葉が読まれ、祈祷、律法の朗読、預言書の朗読、説教、祝祷が中心に行われていたようです。会堂管理者が、その場にいる祭司長やレビ人、ユダヤ教の教師を指名して朗読と説教をお願いしていたようなのです。
ルカ4章14節の「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判は周辺一帯に広まった。」から分かるように、当時イエス様は、人々の注目を集めていましたので指名され聖書朗読をしました。イエス様は、手渡されたイザヤ書から61章1ー2節の箇所を開き読まれました。朗読が終わった時に、イエス様は重大な宣言をされます。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。(21)」これは、実に大胆な宣言です。イエス様は、神様が預言者を通して語ったことは、自分のことであり、神様によって語られた救い主の預言は自分によって成就したと告げたのです。イザヤは、油注がれた救い主は、主の霊がその上にあり、良い知らせを告げ、人々を癒し、罪からの解放を実現し、神からの恵みを与えて下さると預言しました。
まさにイエス様は、神であられるのに人となってこの世に来てくださったお方です。ですからイエス様は神であり、主の霊がその上にあります。そしてイエス様は、心貧しい人々に福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行われました。それだけではなく、イエス様は、罪に捕らわれている人々を罪から解放し、救いと永遠のいのちという恵みを与えてくださるお方なのです。
この宣言は、私たちのための宣言でもありました。イエス様は、私たちの心を満たすことが出来ます。私たちの心の目を開かせてくださり、主の栄光を見させてくださいます。そしてイエス様は、私たちを悪の支配から自由にし、救いを与えてくださるのです。これがナザレでの宣言です。
Ⅱ;今も続いています
イエス様が宣言された、「御言葉が実現した」という恵みは、今も続いています。
ナザレの人々は最初、イエス様の言葉に驚きました。けれどもすぐにイエス様に疑問の目を向けるようになりました。マルコの福音書には次のように書いてあります。マルコ6章2-3節。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何だろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。・・・。」ナザレの人たちは、自分たちが知っているイエスは、単なる大工であり、ただの一人の人間ではないかと評価したのです。こうして、彼らは、イエス様を約束の救い主と受け止めることが出来ず、イエス様につまずいたのです。
イエス様は、町の人々がしるしを求めていることを知って悲しまれたことでしょう。預言者は自分の生まれ故郷では受け入れられないことを預言者の実例を用いて説明します。エリヤのことはⅠ列王記17章に書いてあります。飢饉の時、イスラエルの預言者エリヤは、イスラエル人ではなく、異邦人であるシドン人のやもめの所に遣わされました。それはイスラエルの王がエリヤの言葉に耳を傾けなかったからです。エリシャのことは、Ⅱ列王記5章に書かれてあります。エリシャは、アラムの将軍ナアマンの癒しのために主によって遣わされたのです。
ナザレの人々は、イエス様の言葉を真摯に受け止めて、神様に心を開くべきだったのです。ナザレの人々には、自分たちの先祖が、預言者を迫害し神様から離れたように、同じことを繰り返さないことが求められたのです。しかし彼らは、イエス様を救い主として受け入れないで、イエス様を会堂から追い出し、町の外に連れ出して、崖から落とそうとするのです。イエス様は、興奮している人々の真ん中を通りぬけて出て行きました。しかしこの後もイエス様は、会堂で教えられました。またユダヤ人だけではなく、誰もがイエス様の話しを聞くことが出来るようにと至る所で神の国のことを語り、多くのしるしや奇跡をおこなわれました。
このようにイエス様は、人々に神の国のことを語るだけではなく多くの証拠としての奇跡を行いました。それは、ご自分が救い主キリストであることを証しするためでした。その上で、イエス様は預言されていたように私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。イエス様は、私たちが罪に縛らされ、滅びに向かうことを望まず、私たちに罪の赦しと永遠のいのちの確かな希望を与えて下さったのです。まさにイエス様によって「御言葉が実現」したのです。
皆さん、神様は、アブラハムに何と約束をしておられたでしょうか。神様は、アブラハムの子孫が増え拡がり、アブラハムの子孫によって全ての国々が祝福を受けると約束しておられました(創世記12:1-3、15:5-6、22:16-18)。この約束が、イエス様によって実現したのです。神様の言葉は、必ず神様のみこころを実現します。イザヤ書55章11節には「わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望ことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」と約束されています。神様の言葉の中には、私たちを戒める厳しい言葉やさばきの言葉があります。それは、私たちが悔い改めて神様に立ち返るようになるためです。神様は、罪を悔い改める者の罪を赦しきよめてくださいます(1ヨハネ1:9)。そのような戒めの言葉だけではなく、神様は、聖書を通して私たちを祝福すると約束をしてくださっています。その通りに神様は、私たちを祝福してくださるのです。神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)。」と語りかけてくださいます。その通りに神様は、私たち一人ひとりを愛し、導いてくださるのです。今日も、神様の御言葉は私たちの歩みの中で実現しています。
Ⅲ;信仰の告白を
私たちもイエス様によって、「御言葉が実現した」と信仰の告白をすることが出来ます。
ナザレの人々は、イエス様に対して、純粋に信じる信仰を持つべきでした。けれども彼らは、素直にイエス様を救い主と認めることは出来ませんでした。私たちが求められていることも、純粋な信仰です。神様のみことばに対して、私たちは純粋に心を開くことが大切です。
イエス様が読んだイザヤ書の言葉の中に「主の恵みの年を告げる」とあります(ルカ4:19)。この「恵み」という言葉は、ギリシャ語の「デクスト」という言葉が使われています。これには「恵み」の他に「受入れる、歓迎する」という意味があります。と言うことは、神様は、イエス様を通して私たちに救いを与え、信じる全ての人を喜んで受入れ歓迎して下さると言う約束なのです。これほど素晴らしい約束が語られたのに、ナザレの人たちはイエス様を受入れませんでした。イエス様はその状況を、「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません(24)」とエレミヤの言葉を引用します。この「歓迎されません」の言葉は、先ほどと同じギリシャ語の「デクスト」が使われています。神様は、信じる一人ひとりを歓迎し、受入れると声をかけてくださっています。けれどもナザレの人たちは、神様の言葉を、イエス様を歓迎せず、受入れることがありませんでした。
では私たちはどうなのでしょうか。神様は、私たちを受入れ、歓迎し、祝福と恵みを与えようと声をかけ、御手を伸ばしておられます。私たちは、イエス様を心に受入れ、神様を心の王座に歓迎するという信仰の応答が出来ているでしょうか。パウロは、「神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています(Ⅰテサロニケ2:13)」と教えています。私たちは、日々、「今日も神様を心に歓迎します。今日も神様の御言葉が実現する事を信じます」と信仰の告白をして歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、旧約聖書で預言されていた救い主です。神様の救いのみわざは、イエス様によって実現しました。イエス様は、心の閉ざされた者の心を開き、罪からの救いを与え、癒しと慰めを与えて下さることを信じます。神様が私たちを受入れ、歓迎してくださる事を心から感謝致します。私たちも日々、神様を心に歓迎し歩みます。今日もそしてこれからも神様の言葉は実現し、神様の祝福があることを信じます。神様、私たち一人ひとりの歩みを導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」