2023年10月29日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書5章1-11節 「信仰の一歩を踏み出す」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師
 ここはエルサレム。神殿のすぐ近くの場所です。今日の主人公はこの男の人です。あれあれ?寝ていますね。奥にあるのは「ベテスダの池」です。池と言っても草が生えてカエルが泳いでいるようなものではありません。石で作られた人口のプールです。池の周りには屋根のついた廊下があって、大勢の病気の人が集まっています。苦しそうに横になっている人、池の中をじーっと見ている人、色々です。何をしているのでしょう?

 実は、ベテスダの池には不思議な言い伝えがありました。天使が池に降りて来て、池の水をかき回す。その時最初に池に入って行くと、どんな病気でもいやされる、というものです。それで病気で苦しんでいる人たちが集まっていたのです。さっきの男の人もその一人。なんと38年もの間、病気で苦しんでいました。
 そこへやってこられたのがイエス様です。イエス様はこの男の人の顔を見つめて言われました。「良くなりたいですか?」良くなりたいにきまってるでしょ?と思った人もいるでしょう。けれど、男の人は「はい、良くなりたいです」という代わりにこう言ったのです。「私は歩けず池の中に自分で入れません。それなのに誰も私を助けてくれなくて、他の人が入って行ってしまうのです。」いつまでも病気が治らないので、すっかりあきらめていたようです。そしていつも心の中にあったのは、誰も助けてくれないことへの悲しみと絶望だったのですね。

 イエス様は彼に言われました。「さあ、立ちなさい。布団をたたんで歩きなさい。」これは聞きようによってはびっくりなことばです。「無理です!」と反論してもおかしくありません。では男の人はどうしたでしょう?男の人は思い出しました。「治りたいんだ!歩きたいんだ!」そして、イエス様の言葉に従って立って見ました。立てます!布団をたたんでみました。出来ます!歩いてみました。歩けます!そうです、イエス様が癒して下さったのです。38年間の病気の苦しみがいま、終わったのです。男の人が歩いたのを見届けると、イエス様はすぐに行ってしまわれました。

 皆さん、イエス様はこの人のために、わざわざベテスダの池に来て下さいました。そして、助けてくれない他人や神さまを恨んでいたこの人を、イエス様は憐れんで下さったのです。このあと彼は、神殿に行きます。癒された感謝を祈ったのかもしれませんね。神殿の中でイエス様はこの人を見つけて、話しかけました。「あなたは良くなりましたね。もう罪を犯してはいけませんよ。」これは、神様よりも言い伝えの方を信じて、不信仰になっていた罪を繰り返さないように、ということでしょう。
 私たちの人生にも、「自分には無理だ」と諦めてしまう試練があるかもしれません。そんな時、目に見えない神様よりも手っ取り早く何かに頼りたい、という気持ちになるかもしれません。でもその時、今日のお話を思い出して下さい。私たちに心を寄せて本当の助けを与えて下さるのはイエス様です。今日のみことばを一緒に読みましょう。私たちを心にとめて、手を差し伸べて下さるイエス様を信じましょう。

<祈り>
 神様、イエス様は諦めの中にある人を見つけ出して、癒して下さいました。希望を持てない時にも神様に背を向けるのでなく、あなたを信じイエス様を信じさせて下さい。私たちに必要な助けを与えて下さい。御名によって祈ります。アーメン。

「神を信じ、またわたしを信じなさい。」 ヨハネの福音書14章1節
「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』・・・イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げて、歩きなさい。』」      ヨハネの福音書5章6、8節

<適用>赤松勇二師
 皆さんは、何か機械の調子が悪くなった時、どうするでしょうか? 例えば、パソコンやスマホが調子悪くなった場合、どうするでしょうか。多くの場合は、販売店に相談することでしょう。なぜなら、販売店のパソコンコーナーの人ならば、自分よりもパソコンのことを知っている可能性があるからです。または、パソコンのことを知っている知人に相談するという方法をあります。私たちが自分で修理しようとしたら、完全に壊してしまうことでしょう。
 私たちの人生は、色々なことが起ります。そのよう中で、私たちの心も様々な動きをするものです。私たちは、自分の心が、一体どこに向いているのか、何に心が支配されているのかを確認することが必要になります。そのためには、私たちの心を、人生を良く知っているお方に聞かなければなりません。 

Ⅰ;私たちの状態

 そのためにまず、私たちは、私たち自身の状態を良く知らなくてはいけないと思います。
 ある時イエス様は、ユダヤ人の祭りのためにエルサレムに上られました。この祭りが何かは明らかではありません。ユダヤ人たちがエルサレムに巡礼に行くのですから、ユダヤ人にとって重要な祭りであったことが分かります。
 エルサレムの城壁にはいくつかの門がありますが、その一つに「羊の門」があります。この門は、エルサレム神殿のすぐそば、北側に位置する門です。この門の近くに「ベテスダ」と言われる池があり、大勢の病人が、回廊に伏せっていました。ここには二つ池があり、周囲を囲む4つ(4辺)の回廊があり、池と池の間にもう一本合計5つの通路がありました。ベテスダという言葉は、「憐れみの家」と言う意味があります。その池は、時々水が動き、水が動いた時に一番最初に入った人が癒されるという伝説があったのです。だから多くの病人が集まることになったわけです。

 そこに集まっていた誰もが、神様の憐れみを必要としていました。けれどもベテスダの池にいた人たちは、なかなか思うように行かず、厳しい現実を抱えていたのです。その場にいる人は、誰もが人よりも早く池に入ろうとしていたのです。いわゆる、人と人とが競争する環境でした。ですから、周りの人を助けようという雰囲気にはなりません。そこに集まっていた人たちだけではなく、エルサレム神殿の近くですから、多くの巡礼者がいたと思われます。しかしその人たちは、ベテスダの池に横になっている人たちに手を差し出すことがなかったようなのです。

 イエス様は、そのように人々が抱えている問題の只中に来てくださいました。そしてその中で、長い間病気のために苦しんでいる人を見つけました。彼は、38年間も病気のために自由に体を動かすことが出来ず、床に伏せっていたのです。彼は、ベテスダの池に居て水が動いた時にいち早く入ろうと待機していました。でも現実は、甘くありませんでした。彼は、何回となくやって来るチャンスを逃していましたが、治りたいという思いを持ち続けていました。イエス様は、彼の病気が長いだけではなく、彼の心が飢え渇き、藁をもすがるように助けを必要としているのを知ってくださったのです。

 イエス様は、私たちの現実もご覧になり、私たちの心の状態を知ってくださるお方です。私たちは、やはり競争社会の中で生きています。私たちは、より多く働くことや人よりも良い成績をとること、成功する事、などなど他の人と比較される社会で生きています。その中で多くの人は、心休まらず、ストレスを抱えてしまうのです。私たちも例外ではないでしょう。多くの人は、助けを必要としています。けれども、誰もが皆、必死に生きているので、他の人を思いやる暇がないのです。イエス様は、そのような私たちの心、私たち自身の現実を見て知っていてくださいます。そしてイエス様は、私たちに近づいて来てくださるのです。

Ⅱ;イエス様が現状を変えてくださる

 イエス様は、私たちの現状を変えてくださるお方です。イエス様が、近づいて、声をかけてくださる時、現状が変わります。イエス様は、どのように近づいてくださるのでしょうか。イエス様は、彼を見て近づき「良くなりたいか」と声をかけてくださるのです。
 38年間病気で苦しんでいる人にとって、ベテスダの池は、憐れみの家ではありませんでした。神殿のすぐ側の池ですから、祭司やユダヤ教の指導者たちが通りかかったことでしょう。多くの巡礼者もその場所を通ります。中には手を差し伸べる人もいたでしょうが、ベテスダの池にいた病人は、ほとんど顧みられることはなかったように思います。そういう中でイエス様は、心に留めてくださり、「良くなりたいか」と親切に声をかけてくださったのです。彼は、どんなに嬉しかったことでしょうか。

 しかし、彼はあまり期待してはいないようです。彼は、「良くなりたいかって、そうに決まっているでしょう」と答えたいところですが、池を見ながら「良くなりたいけど、もういいのです。水が動いても自分では入れないし、誰も手伝ってくれないから。自分は、これからも負け組のままだと思います。」と答えるのみでした。何と悲しい言葉ではないでしょうか。けれどもその場にいた多くの病気の人たちが同じ思いでベテスダの池にいたのではないかと思います。ベテスダの池は、元々エルサレムへの巡礼者のための沐浴用として作られていました。しかしこの時ベテスダの池は、ギリシャ・ローマの偶像の神「癒しの神」をまつる神殿となっていたことが分かって来ています。池の水が動いた時に最初に水に入った者が癒されると言うのは、この異教の伝説だったのです。ユダヤ人たちがこの池に集まって来たという事は、天地創造の主なる神に祈り求めるのではなく、異教の神々に求めるという間違った方向に向かってしまったということではないでしょうか。

 私は、イエス様がこの異教の伝説となったベテスダの池に敢えて立ち寄られたように思うのです。そして38年間床に伏せっている男性に声をかけ、彼の心の訴えを引出しました。そして「起きて、床を取り上げ、歩きなさい。」と言われます。彼は、イエス様の言われた言葉を信じました。そしてイエス様の言われた言葉に従う決心をしたのです。するとどうでしょうか。彼はすぐに癒されたのです。彼は、イエス様によって現状が変わりました。もう水が動くのをひたすら待ち続ける必要はありません。人からの施しを受ける必要もありません。自分の足でどこにでも行けます。自分の生活のために働くことも出来ます。イエス様は、癒された人に後から「もう罪を犯してはなりません(14)」と言われました。ですから、彼の病は、罪が関係していたと思われます。しかしイエス様は、彼の心の闇、罪の問題も解決してくださったのです。

 イエス様は、私たちの思いを知り、必要を見抜き、私たちに「良くなりたいか」と語りかけてくださるのです。あなたは、今、どんなことで助けを必要としているでしょうか。健康のこと?家庭のこと?夫婦関係のこと?仕事?職場?学校?人間関係?就職?・・・。私たちは、問題や挫折など様々な出来事によって心が疲れることもあるでしょう。自分が直面する現状が、なかなか変わらず、変化の兆しさえ見えない、先の分からない不安と恐れと苛立ちや徒労感のようなものに心が支配されることもあるかもしれません。その様な中でイエス様は、「良くなりたいか」と言ってくださるのです。私たちは、このイエス様の語りかけに遠慮することなく、自分のありままの思いを打ち明け、祈ることが出来ます。イエス様は、私たちの声にしっかりと耳を傾けてくださるのです。イエス様は、私たちの罪という現実にも御手を指し伸ばしてくださいます。ですから私たちは、自分の罪を隠しておくことはやめましょう。イエス様は、私たちの罪も知っておられます。イエス様は、私たちの悔い改めの言葉も聞いてくださり、救いの御手を指し伸ばしてくださるのです。

 イエス様は、私たちの直面する現実を変える力があります。イエス様だからこそ、私たちを確かに導き、心を造り変えることが出来るのです。この恵みを受け取るためには、何が必要でしょうか。イエス様に「床を取り上げて、歩きなさい。」と言われた男性は、その言葉の通りにしました。と言うことは、彼はイエス様を信じたのです。私たちも、私たちの人生を導き、私たちの心を、現状を変える力があり、罪を赦す権威があるイエス様を信じることが大切です。そして信仰の一歩を踏み出す時、イエス様が与えてくださる祝福と恵みを受取ることが出来ます。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様、私たちは、38年間病気のために床に伏していた男性のように、時に力をなくし、不安と恐れを抱き、なかなか変わらない現実に心が奪われることがあります。イエス様は、そんな私たちに近づいて下さり、『よくなりたいか』と声をかけてくださることを感謝いたします。神様、私たちは良くなりたいです。私たちは、イエス様を心の中心に迎え、イエス様に人生を導いていただきたいです。私たちは、イエス様を信じる信仰の一歩を踏み出して歩み続けます。主よ、どうか私たちに救いと導きの御手を指し伸ばしてください。
 神様、イスラエルを取り巻く情勢やウクライナを取り巻く情勢を見てくださり、彼らの叫びを聞いてください。そして主の平和を与えてください。世界中のリーダーが神様に心を向け、神様の御心を求める者となることが出来るように導いてください。
 神様、一人一人の今週の歩みが神様によって豊かに祝福されますように。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」