2023年11月5日(日)礼拝説教 ルカの福音書6章1-11節 「喜びと感謝の礼拝」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 みんなは、いつも朝食に何を食べていますか?ごはん派ですか、それともパン派ですか?今、日曜日の夜のドラマで高校の野球部を扱ったものが放送されていますね。見ている人いるでしょうか。そのドラマの中では、いつも「グミ」だけを食べている男の子がいて、「しっかり食べなさい」と注意を受けている場面がありました。

 イエス様と弟子たちは、神様のお話をするためにいろいろな場所に行っていました。時には、食べ物を手に入れることが難しい時がありました。ある安息日のこと、「ぐ~~、ぐ~~」弟子たちのお腹が鳴りだしました。「あ~、お腹すいたね。」「ヨハネ、何か食べ物はないか。」ペテロが聞きます。「全員が食べるだけのものはないよ。」ヨハネが答えます。その時、誰かが「あっ、あそこに麦畑があるよ。ちょっと麦を摘んで食べさせてもうことにしよう。」と言いました。こうして、弟子たちは、歩きながら麦を摘んで、手でもみながら食べ始めました。旧約聖書の申命記23章25節では、「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」と教えられています。これは、まずしい人、生活に困っている人を助けるための教えです。ユダヤ人たちは、このようにして、お互いの生活を支え合うことを大切にしていたのです。

 だからパリサイ人たちは、弟子たちのしている行動を問題にはしていませんでした。彼らが問題にしたことは、安息日に麦の穂を摘むという行為、そしてもんで食べたという行為です。パリサイ人たちは、弟子たちのしていることを、「労働(お仕事)」だというのです。「安息日」は、仕事を休み、神様を礼拝する日として大切にする必要があります。けれどもパリサイ人たちは、安息日は仕事を休むのだから、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない。」などなど多くの決め事を作りました。そこでパリサイ人たちは、麦の穂を摘むことや手でもんで麦殻を取ることを労働であり仕事だから、それをしてはいけないと言ったのです。
 それに対してイエス様は、「旧約聖書にはダビデ王と部下たちが特別に許されて祭司が食べるもの受け取ったことがあったでしょう。」と言われました。そしてイエス様は、「人の子(イエス・キリスト)は、安息日の主です。」と言われたのです。イエス様こそ、安息日の中心であり、礼拝されるべきお方です。

 別の安息日の時、イエス様が会堂で教えておられた時、その会堂に手を動かすことが出来ない人が座っていました。パリサイ人たちもその場にいて、イエス様がこの人を癒すかどうか見張っていました。それは、安息日に癒すという治療行為をすれば、労働をしたことになり、ユダヤ人の律法に違反することとなるからです。パリサイ人たちは、いつもイエス様の欠点を見つけだそうと見張っていたのです。イエス様は、パリサイ人たちの考えに気づいて、手を動かせない人をみんなの真ん中に進ませました。そしてイエス様は、人々に尋ねました。「安息日にするべきことは、善ですか?悪ですか?いのちを救うことですか?滅ぼすことですか?」
 このイエス様の質問には誰も答えなかったようです。イエス様は、手を動かせない人に「手を伸ばしなさい」と言われました。するとその人はすぐに癒され、手を動かせるようになりました。イエス様は、手を動かせない人を癒したことによって、安息日にするべきことは、正しいことであり、神様の喜ばれることであるということを教えてくださったのです。

 今、僕たちは、日曜日に礼拝をしています。それは、イエス様の十字架と復活が関係しています。イエス様は、僕たちの罪が赦されるために、僕たちに代わって十字架にかかり、神様の裁きを受け死んでくださいました。それだけではなくイエス様は、僕たちの救いと永遠の命の約束が確かであることを示すために、死を打ち破り三日目(日曜日)によみがえられました。だから僕たちは、イエス様の十字架の救いを喜び、神様への感謝をもって礼拝する日曜日を大切な日として守りましょう。神様は、喜びと感謝をもって心から礼拝する一人一人を愛して守ってくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。僕たちは、日曜日に教会に集まり神様を礼拝することを大切にしていきます。神様、僕たちの礼拝の真ん中にいてくださり、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「そして彼らに言われた。『人の子は安息日の主です。』」
                                   ルカの福音書6章5節

<適用>

 先日、息子が通っている高校で授業公開が行われました。私は、せっかくの機会ですから、行ってきました。私の目的は、息子の授業を見ること、そして学食も利用できるということだったので、学食で食べてくることでした。もちろんそれほど難しいことではなかったので、目的を果たすことが出来ました。高校に入って驚いたことがありました。それは、すれ違う生徒たちの中に、「こんにちは」と元気よく挨拶をしてくれる学生がいたことです。しかも、立ち止まって頭をさげてくれるのです。次の授業の準備のための移動している中でも、一時停止して、頭を下げるのです。中には、すれ違ったあと小さな声で挨拶をしてくれる子もいました。私は、挨拶を交わしながらなんだかうれしくなり、「挨拶は大切だなぁ」と思いました。
 さて、礼拝は私たちが神様に向かって喜びと感謝を表す時です。私たちは、どのように礼拝しているでしょうか。今日は、私たち自身の礼拝の姿勢について思いを巡らせてみましょう。

Ⅰ;中心はイエス様

 私たちは、喜びと感謝の礼拝をささげましょう。私たちの礼拝の中心は、イエス様です。司会者でも奏楽者でもありません。また説教者でもありません。確かに礼拝では、説教者が立てられて御言葉が語られます。でも、説教者が礼拝の中心ではないのです。説教を聞けば礼拝ということでもありません。礼拝は、主の御名を賛美し、祈り、御言葉に耳を傾け、信仰の応答をすることです。私たちのささげる礼拝の中心、礼拝する一人一人の心の中心は、イエス様となる必要があります。

 イエス様は、ある安息日の出来事を通してこの真理を教えてくださいました。ではそもそも安息日の規定は、どのようなものなのでしょうか。それは、創世記2章までさかのぼることになります。創世記2章3節では、「神は第7日目を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」と書かれてあります。神様は、6日間で天地万物を創造し、7日目にはすべてのわざをやめられ、聖なる日と定められました。
 そしてこのことが、戒めとして人に与えられたのは、モーセの時代です。出エジプト記20章8節で「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」と定められました。続く9-10節には、6日間仕事をして、7日目は「主の安息」として休まなければいけないのです。また神様は、イスラエル人にマナを与える時、6日目には2倍のパンを集めるに言われました。7日目には、マナは降らなかったのです。それは、主の安息だからです(出エジプト記16章22-30節)。こうして神様は、安息日を定め神様を礼拝する日とし、人に休息と祝福をお与えになったのです。

 パリサイ人たちは、「安息日」について、あれやこれやと規定を厳しくしてしまい、安息日の大切な要素を見失っていました。イエス様は、「人の子は、安息日の主です。」という大切な一言によって安息日の大切な要素を示してくださったのです。パリサイ人たちは、安息日を守るための規則を細かく定め、人々を監視していました。その結果、パリサイ人たち、ユダヤ教の指導者たちは、礼拝すべきお方を見失い、自分たちを安息日の中心にしたのです。けれどもイエス様は、神の子イエス様こそ安息日の中心であり、礼拝されるべきであることを教えてくださったのです。

 今、私たちは、日曜日を安息日として、神様に礼拝をささげています。それは、イエス様の十字架と復活の結果です。先ほど話したように、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいました。そして罪らかの救いと永遠のいのちが確かに与えられることを明らかにするために、死を打ち破り三日目の日曜日によみがえられたのです。私たちは、この救いの恵みを喜び感謝して礼拝しています。その中心は、イエス様ご自身です。ですから、礼拝では、救いの恵みを喜び心から主の御名を賛美します。そして復活の希望を感謝して賛美し、祈り、御言葉の真理を心に留め、信仰の応答をします。私たちの礼拝のプログラムは、イエス様を喜び感謝するためにあります。そのことを覚えて、主を礼拝しましょう。

Ⅱ;主の御心を知る時となる

 私たちは、喜びと感謝の礼拝をささげましょう。私たちは、礼拝を通して主の御心を知り、信仰の一歩を踏み出していきます。
 弟子たちが麦の穂を摘んで食べていた安息日とは、別の安息日にイエス様が会堂で教えておられると、そこに手を動かすことが出来ない人が座っていました。パリサイ人たちは、イエス様がその人を癒すかどうか見張っていました。彼らは、安息日にするべき事よりも、「してはいけない事」に興味がありました。彼らは、安息日は全ての労働と思われることを禁止していたという事です。

 私が、イスラエル聖地旅行に行かせていただいた時のことです。宿泊したホテルには、ユダヤ人のためのエレベーターがありました。それは、「シャッバット・エレベーター(安息日用エレベーター)」と言うものです。ユダヤ教の人たちにとって、安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方までです。シャバットエレベーターは、安息日に稼働します。そのエレベーターは、全ての階で停止するように設定されています。ですから、ボタンを押すという労働をしなくても、自分の部屋にたどり着くわけです。これも「安息日にしないこと」という規定を守り続けるという事になるでしょうか。これは、現代のユダヤ教の人たちの安息日の守り方ということです。

 イエス様の時代、パリサイ人たちは、「安息日にしてはいけこと」を追い求めていました。けれどもイエス様は、安息日にするべき事に関心がありました。イエス様の「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。(ルカ6:9)」の言葉は、安息日に神様が求めておられることは、何かという事だったのです。パリサイ人を始め、会堂にいる誰も、答えることが出来ませんでした。答えられないというよりも、そのようなことを考えたこともなかったのかもしれません。その証拠に、パリサイ人たちは、手を動かすことが出来なかった人が癒されたことを喜ぶことをしませんでした。これは、ユダヤ人の指導者としてはあり得ないことです。パリサイ人たちは、ユダヤ教の教師です。会堂に集まる一人一人の祝福を求める立場にいる人たちのはずです。当然、病気の人が癒されたら喜ぶべきでしょう。先週は、38年もの間病気のために体を動かすことが出来なかった人が、イエス様によって癒された話をしました。やはりその時もパリサイ人は、癒されたことを喜ばず、「床を取り上げてはいけない」と律法を主張するのです。これは、安息日が神様を礼拝し、神様の愛を受け、神様の御心を知り、従うためにあることを知らない結果です。そして安息日は、神様の御前で心と魂に平安を受け、休息を得るための日であることに気づかない結果でした。

 イエス様は、安息日は、神様の御心が行われ、礼拝に集う一人一人が、神様からの祝福を受ける時であると示してくださいました。礼拝は、神様の御心が行われる時であり、私たちが神様の御心を知る時でもあります。そして礼拝は、私たちが神様の御前で心と魂に安らぎを得て、平安と喜びと感謝に満たされる時です。私たちは、日曜日の主日礼拝を守ります。それは単なる義務だからではありません。私は、子ども頃、日曜日になると「あ~今日も礼拝に出ないといけないのかぁ。」と思っていました。親が牧師ですから、「日曜日は教会」という選択肢しかありませんでした。こんな気持ちですから、礼拝が退屈でしかたありません。当然、賛美は表面的な形だけ、メッセージの言葉など心に入って来ることはありませんでした。今思うと、私は神様に大変失礼な態度を取ってしまっていました。イエス様を信じて、洗礼を受けてからは、礼拝の意味を考えるようになり、信仰をもって礼拝に向かうようになりました。

 皆さん、私たちが礼拝出来るのは、主なる神様が、一週間のうちの一日を聖なる日として聖別し大切にするようにと定められたからです。私たちは、主の日に主なる神様の御前に静まり、神様の安息に満たされ、神様からの祝福を受けることが出来ます。何よりも神様ご自身が、私たちを礼拝に招いておられるのです。私たちは、イエス様の十字架の救いを喜び、感謝をもって礼拝しましょう。そして私たちは、神様の御心を求め、礼拝を通して示される御心に従い歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の祝福を受け礼拝へと導かれたことを感謝いたします。神様、私たちは、イエス様を心に迎え、救いを喜び感謝をもって礼拝します。私たちを礼拝者として整えてくださり、さらに主に喜ばれる礼拝をささげることが出来るように導いてください。
 また礼拝を通して語られるみ言葉を心に留め、神様の御心を求め、御心に従って歩む一歩一歩を進めることが出来るように導いてください。
 私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」