2023年11月19日(日)礼拝説教 ルカの福音書7章1-10節 「御言葉による確信」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ> 
 今、インフルエンザが流行っていますね。保育園(幼稚園)や学校でも体調を崩しているお友だちがいるかもしれませんね。熱が出たら病院に行って検査を受けて陰性・陽性を確認しますね。病院の先生は、検査の結果に合わせて薬を出してくれます。そして、どのように休むべきかを教えてくれます。皆は、病院のお医者さんの言うことを信じるでしょう。「このお医者さんの言っていることはホントかな?」なんて考えないでしょう。誰もがお医者さんの言ったことを信じ、その通りにして、出された薬を飲みます。そうして回復していきますよね。
 今日は、イエス様の言葉を信じ切った百人隊長の信仰を見ていきましょう。百人隊長は、とても素晴らしい信仰を持っていました。

 イエス様は、弟子たちを連れていろいろな所で神様の言葉を教え、多くの人を癒やしておられました。そして時々「さあ、カペナウムに戻ろうか」と言ってカペナウムに帰って来ていたのです。イエス様がカペナウムに帰ってきた時、一人の百人隊長がイエス様の元にユダヤ人の長老たちを遣わしました。実は、百人隊長のしもべが病気のために苦しんでいました。
 ユダヤ人の長老たちは、イエス様のところに来て一生懸命お願いしました。「イエス様、実は、ローマ人の百人隊長のところのしもべが病気のために大変な状況なのです。どうか、百人隊長の家に来てそのしもべを治してもらいたいのです。百人隊長は、ローマ人なのにユダヤ人に親切にしてくれて、本当の神様を求めて礼拝する人で、会堂も建ててくれたのです。」

イエス様は、そのことを聞いて「では行きましょう。案内してください」と百人隊長の家に向かいました。ユダヤ人の長老たちは、イエス様が家に向かっていることを知らせたことでしょう。すると百人隊長は、慌てて友人たちをイエス様のもとに送り、メッセージを伝えます(6-7節)。「イエス様、お願いを聞いてくださり、ありがとうございます。しかし、イエス様を私の家にお入れすることはできません。私は、異邦人ですから、ユダヤ人であるイエス様を家に迎える資格はありません。ただ、イエス様の言葉をください。イエス様の言葉には力がありますから、必ずその通りになると信じています。」百人隊長は、このようにイエス様に伝えました。百人隊長は、イエス様を家に入れたくなかったのではありません。来てほしいと願っていました。しかし、百人隊長はローマ人です。ユダヤ人は異邦人とかかわりを持たなかったので、百人隊長は、ローマ人である自分の家にイエス様を迎えることはイエス様に迷惑になると考えたのです。ただ、百人隊長は、最も必要なイエス様の言葉を求めたのです。

 イエス様は、百人隊長の信仰を聞いてとっても驚き、「素晴らしい信仰を持っている」と喜ばれました。百人隊長は、隊長として部下に命令すれば、その言葉の通りに事が行われる経験をしています。それならば、全能の主なる神様の権威を持っているイエス様の言葉には大きな力があると、百人隊長は信じたのです。百人隊長は、イエス様の言葉は、必ず実現することを信じ切ったのです。イエス様は、その信仰を喜んでくださいました。そしてイエス様は、百人隊長が信じたとおり、しもべを治してくださいました。

今週の御言葉を読みましょう。
 イエス様は、今もイエス様を信じ、イエス様の言葉を聞き、従う人を喜んでくださいます。イエス様の言葉には力があります。イエス様を信じましょう。イエス様の言葉(聖書の言葉)をしっかりと読み、心に蓄え、信じて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ローマの百人隊長は、イエス様の言葉には力があると信じていました。僕たちもイエス様の言葉には力があることを信じます。僕たちの毎日の生活を導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」                   ヘブル人への手紙11章1節

<適応>
 私は、両親が牧師の家庭に生れ育ちました。小学4年生の時、授業の中で「将来の夢」について考える時間がありました。私は、「自分は何をしたいのだろうか。将来どんな仕事があるのだろうか。」考えて、親が牧師だから「将来は牧師になるのかなぁ」と答えました。私は、「何となく」という感じでいたのですが、その後しばらくたってから担任の先生が、「赤松君は、牧師になるんだから親の姿をしっかり見て勉強しておかないとね。」と言ってくれたのです。私は、その言葉を聞いて、何か勇気づけられたような気がしたのを覚えています。
 神様は、私たちに言葉をかけてくださっています。私たちは神様の御言葉によって心に確信が与えられ一歩、一歩を進んで行きます。

 

Ⅰ;御言葉をしっかり聞く

 「御言葉による確信」は、御言葉をしっかりと聞くことから始まります。カペナウムにいたローマの百人隊長は、イエス様のみわざや語る言葉について、聞いていました。そして彼は、イエス様の御言葉を思い巡らす日々を過ごしていたのではないでしょうか。
 イエス様の時代は、ローマ帝国が世界を支配していた時代です。イタリアのローマを中心とし、その周辺の国々や地域は、ローマの属州(支配地域)として支配されていました。ユダヤ人たちの地域は、ローマ属州としてローマ軍が駐留することとなりました。今日登場する百人隊長は、そのようなローマ駐留軍の隊長でした。この百人隊長は、占領地を治めると言う事で、とても思慮深く威厳をもって行動することが求められていたと言われています。ですから、ユダヤに派遣されていた百人隊長は、権力と権威を持ち、カペナウムで権力の限りを尽くして振舞うことが出来たはずですが、彼は違っていたようです。

 百人隊長は、しもべを丁寧に扱う人でした。しもべが病気で苦しんでいるのを見て何とかしたいと思い、ユダヤ人の指導者をイエス様のもとに遣わすのです。この百人隊長は、一人のしもべのために最善を尽くす人でした。それだけではなく、ユダヤ人の指導者がイエス様に懇願する言葉の中に、百人隊長の人柄が現れています。百人隊長は、異邦人であるのにユダヤ人を無理に押さえつけることをしないで、ユダヤ人を愛していました。そして会堂を建ててくれた、信仰深い人物であるということです。

 百人隊長は恐らくユダヤ教に心を開いていたのでしょう。そして天地創造の主なる神様の教えに従って生きていたのだと思います。また職務上、様々な情報が百人隊長に届けられていたと思います。その中には、イエス様の語り伝える言葉やイエス様の行うみわざもあったのではないでしょうか。それらのことを聞く中で、百人隊長は、イエス様の言葉が人間の言葉ではなく、神様の力に溢れていることを知ったのです。そして彼は、イエス様の言葉をしっかりと心に留めていたのではないでしょうか。それが、百人隊長の生き方に影響を与えているのです。

 私たちは、今聖書を通してイエス様の御声を聞くことが出来ます。イエス様は、聖書の御言葉を通して私たちの心に語りかけてくださいます。聖書の御言葉は、単に書かれた言葉、印刷された言葉ではなく、生きて働いておられる主なる神様の言葉です。神様は、御言葉を通して私たちの歩み、心のあり方、態度、言葉を導き教えてくださいます。私たちは、聖書の御言葉によって確かに導かれていくことを信じて、聖書の御言葉に心の耳を傾け、心の耳を開いて聞いて行きましょう。

Ⅱ;御言葉の力を信じる

 私たちは、御言葉の力を信じることによって「御言葉による確信」を持つことが出来ます。百人隊長は、イエス様の言葉を信じ、確信をもって100%の信頼を寄せています。
 ユダヤの指導者たちの求めを受けて、イエス様は百人隊長の家に向かいました。そのことを知った百人隊長は、慌てて使いを出します。百人隊長は、「異邦人の自分には、イエス様を家に入れる資格はない。自分から伺うことさえ失礼だと思っている。」と言います。そしてただ一つのことを願います。それは、イエス様の言葉を頂くことです。百人隊長は、イエス様の言葉の約束をいただけば、しもべは必ず癒されること、イエス様の言葉にはそれだけの権威があることを信じていたのです。

 その理由は、百人隊長ならではの理由です(8)。百人隊長は、権威の下にいます。百人隊長の上には、千人隊長がいて、その上に将軍、さらにはローマ皇帝がいるのです。百人隊長は、その権威の下にいて命令には絶対服従が求められます。それだけではありません。百人隊長の下には、百人の兵隊(部下)がいます。この百人は、隊長の言葉に従います。隊長の言葉にはそれだけの権威があり、逆らうことは赦されません。
 イエス様は、この信仰に驚き、賞賛します。どんな意味なのでしょうか。百人隊長は、人間の言葉に権威があるのならば、イエス様の言葉にはさらに偉大な権威があると認めたということです。百人隊長は、イエス様が神の国のことを語る言葉を知っていました。またイエス様が、言葉だけで病人を癒やし、悪霊を追い出すことを聞いていました。そして嵐も静めることを知っていたのです。百人隊長は、こんな素晴らしい人を見たことはなかったでしょう。そして彼は、イエス様が神様から遣わされたお方であり、イエス様の言葉に権威があり、力があることを信じ、完全に信頼していたのです。イエス様に信頼すれば間違いはないという信仰です。その結果、イエス様の賞賛を受け、しもべはイエス様による癒やしを受けることが出来ました。

 私たちの信仰は、いかがでしょうか。私たちは、聖書の御言葉に対して100%の信頼を持っているでしょうか。それはそのまま、神様への信頼度になっていきます。確かに私たちは、神様の御言葉によって支えられ歩むことが出来ます。
 私は、小学4年の時に「牧師」という職業に気持ちが向きました。でもそれは、「何となく、漠然と」でした。私は、中学、高校と年齢が進むにつれ、徐々に牧師と言う仕事は簡単なものではないこと、なりたいからなれる仕事ではないこと、神様からの導きが必要であることを知るようになりました。けれども私の頭からは、「牧師」ということが離れることはなく、神様が自分の人生を導いてくれるはずと信じて祈り続けていました。専門学校に通っている時、私は、なかなか神様が導いてくれる道が分からない数年間を過ごしていました。教団では、毎年「聖会」を行っています。私が20歳の時だったと記憶していますが、私は、「神様が自分を牧師に導いてくださるのなら、今回の聖会で答えを与えてください。そうでなければ、別な方向を捜します。」と祈って聖会に参加しました。神様は、その時の聖会の中で私に答えを与えてくださいました。メッセージの中で「立ちなさい。さあ、行くのです。(マルコ14:42)」といゲッセマネの園でのイエス様の言葉が語られました。私は、この御言葉を聞いた時に、神様が「立ちなさい」と言ってくださっていること、献身して牧師になる道を進めと言ってくださっていると受け取りました。私は、御言葉によって確信を与えられ、人生の道を進むことが出来ました。その他にも私は、ヨハネ15章16節の御言葉によって、イエス様を信じ洗礼を受ける決心へと導かれました。また私は、イエス様の十字架によって罪が赦され救われているという確信を御言葉から与えられました。そして私は、今、折に触れて御言葉を通して慰めを与えられています。今年度の御言葉は、へブル4章16節です。そこではどんな勧めが語られているでしょうか。へブル人への手紙の著者は、私たちが神様の憐れみを受け、恵みをいただいて、折にかなった助けを受けることが出来ると語っています。そのために、大胆に主の御座に「近づこうではありませんか」と勧めています。このように約束されているわけですから、私たちは御言葉の通りに確信をもって、遠慮することなく、神様に近づき、神様の憐れみ、恵み、助けを祈り求めることが出来るのです。

 皆さんは、聖書の御言葉からどのような導きを受けてきたでしょうか。神様は、確かにご自身の御言葉によって私たちを導いてくださいます。私たちは、「御言葉による確信」をしっかり握って人生を歩むことが出来るのです。この様な信仰をもって歩む時、まだ見ていない将来に神様の確かな導きがあり、神様の祝福があると信じて信頼して歩むことが出来るのです。もう一度、今週の聖句を読みましょう。
 イエス様の言葉、聖書の言葉は、信頼できる確かな神の言葉です。聖書の言葉は、私たちを励まし、私たちを強め、私たちを変えるほどの力を持っています。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、ご自身の御言葉を通して私たちの人生を導いてくださることを信じ、感謝致します。神様の御言葉を心に留め、御言葉による確信をもって歩ませてください。主の御手に委ねます。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」