2023年12月24日(日)クリスマス礼拝説教 ルカの福音書2章1-20節 「闇を照らす光」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>赤松由里子師
 クリスマスおめでとうございます。みなさんと一緒にイエス様のお誕生をお祝いし、礼拝出来ることを感謝します。今日は世界で最初のクリスマスのお話です。
 女の人はマリア。お腹が大きくなっています。男の人は大工のヨセフです。マリアが神様の御子を身ごもったまま、2人は結婚したのでしたね。2人はローマ皇帝が出した命令に従って、先祖の町ベツレヘムに向かって旅をしています。役所に自分たちの名前を登録するのです。「大丈夫かいマリア。苦しくないかい?」ヨセフがマリアを振り返って聞きました。もうすぐ赤ちゃんが生まれるのに遠い旅をしているのですから大変です。「何とか大丈夫よ、ヨセフ」。2人は何日もかかってようやくベツレヘムにつきました。

 「ごめんください。泊めて欲しいのですが。」ヨセフは何軒も訪ねて回りました。ところがどの家も宿屋も旅人でいっぱいです。「ごめんよ、うちは満員だ。他に行っておくれ。」また断られてしまいました。ヨセフは町の人に頼みました。「妻のお腹には赤ちゃんがいるのです。どこでもいいので泊めてください。」「家畜小屋で良かったら使っていいよ。」それで2人は家畜小屋に泊めてもらいました。
 その夜、マリアは赤ちゃんを産みました。「ほぎゃあ、ほぎゃあ!」み使いの教えてくれた通りの元気な男の子です。この赤ちゃんこそ、そう、イエス様です。ヨセフは赤ちゃんのイエス様を布でくるみ、「飼い葉おけ」という動物のエサ入れに寝かせました。動物たちの鳴き声とにおいの中で、イエス様は誕生されたのです。

 そのころ、ベツレヘムの野原で羊飼いたちが羊を見守っていました。星がキラキラ輝く夜でした。すると突然まぶしい光が輝いて、み使いが現れました。「何だ何だ?」羊飼いたちびっくりして震えあがりました。み使いが言いました。「怖がることはありません。あなたたちに良い知らせを届けに来ました。」こうしてみ使いが語ったのが今日のみことばです。一緒に読んでみましょう。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」み使いはまた、赤ちゃんが布にくるまれて飼い葉おけに寝ています、とも教えてくれました。するとたちまち空に大勢のみ使いが現れて、神様を賛美しました。「天では神様に栄光がありますように。地上で平和が、みこころにかなう人たちにありますように。」こうしてみ使いは天に帰って行きました。

 羊飼いたちは互いに言いました。「ベツレヘムに行って、み使いが知らせてくれたことを見てこよう!」
 羊飼いたちはベツレヘムにつくと、家畜小屋を一軒一軒見て回りました。そしてついに、飼い葉おけに寝ている赤ちゃんをみつけました。「み使いの話の通りだ!」「この赤ちゃんが救い主なんだね!」そういうと、心から神様を礼拝しました。これが世界で最初のクリスマスの出来事です。

 皆さん、神様は救い主イエス様のご誕生を、羊飼いたちに一番に知らせてくださいました。これは、神様が特別な人にではなく、普通の人に心をかけて下さっているということです。また、イエス様がお城ではなく粗末な家畜小屋で生まれてくださったのは、どんな人でも救い主に近づくことが出来るためです。イエス様が寝かされた飼い葉おけは、お世辞にも清潔ではありませんでした。それは罪に汚れた私たちの心のようです。私たちがイエス様をお迎えすることが出来るように、イエス様は低く生まれて下さいました。
みなさん、羊飼いたちは、救い主誕生を知って心からの喜びに包まれました。神様に愛されて罪から救ってもらえる、とわかると、私たちは本当の喜びを持つことができるのです。今年のクリスマス、どうぞこの本当の喜びに溢れたものになりますように。

<祈り>
「神様、救い主イエス様が生まれてこられたことを感謝します。また家畜小屋に生まれ、羊飼いたちに最初に知らせて下さったことも、感謝いたします。私たちもイエス様を心にお迎えして、羊飼いのように喜びながら歩んでいきたいです。いつも共にいて神様を愛しお仕えしていけるよう、助けてください。御名によってお祈りいたします。アーメン。」

<適用>赤松勇二師
 私が沼田教会で奉仕をしていた時のことです。尾瀬に通じる片品村で水曜日の夜に家庭集会を行っていました。そこに行くまでには、沼田から老神に通じる椎坂峠を通り、山間の道を40分くらい運転します。いつもはある程度街灯がついている国道を通るのですが、ある時期国道の工事でう回をする必要がありました。国道でも街灯は少ないのに、う回路として指定された道は街灯がありませんでした。家庭集会に向かうときは夕方ですから明るいのですが、集会が終わると夜の9時過ぎです。う回路は街灯がないので、真っ暗の中を進みます。何も光がない道ほど怖いものはありません。しかし一か所だけ明かりがついていました。う回路を照らし出すためのライトでした。真っ暗闇に突如姿を現すライト、私はビックリすると共にホットしたのを覚えています。そのライトは暗い道のほんの一部しか照らしていませんでしたが、この道で間違いないと安心しました。
 私たちのためにお生まれくださった救い主は、「闇を照らす光」です。ご一緒に御言葉を見ていきましょう。

Ⅰ;大きな喜びをもたらす

 闇を照らす光であるイエス様の誕生は、人々の心に大きな喜びをもたらします。御使いは、羊飼いたちに「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。(ルカ2:10)」と言いました。野宿で夜番をしていた羊飼いたちを包み込んだ光は、主の栄光、天の輝きです。それは、大きな喜びを知らせる光でした。

 イザヤは、救い主についての預言の中でこの喜びを語っていました。イザヤ書9章です。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向う、異邦人のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。(9:1-3)」
 預言者イザヤは、イエス様誕生の700年も前にこの預言を語りました。イザヤが見ていた現実は、北イスラエル王国がアッシリアに攻め込まれ占領され、国が滅ぼされるというものでした。イスラエルの全土を暗闇と絶望、苦悩が覆い尽くしていく時代でした。それはまた、人々の心の暗闇、主なる神様への罪が満ち溢れていたということでもあります。けれどもイザヤは、そのような闇を打ち破り喜びをもたらし、罪からの救いを与える救い主が来られるという神様のみわざを見ることが出来たのです。この預言の通りに救い主イエス様は、一人の赤ちゃんとしてこの地上にお生まれくださいました。

 救い主イエス様の誕生が大きな喜びをもたらすことは、御使いと天の軍勢の賛美の中にもあらわされています。御使いと天の軍勢は「いと高き所で栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)」と賛美しました。そして私たちもまた今日賛美をしました。新聖歌78番の「荒野の果てに」の折り返しの部分「グロリア・イン・エクシェルシス・デオ」というラテン語です。これは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」という意味です。さらに天の軍勢は、「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と歌いました。この「平和(ヘブル語ではシャローム)」は、神様から与えられる平和です。イザヤは、救い主に関する預言の中で「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(イザヤ9:6)」と預言しました。その通りにイエス様は、私たちに平和を与えてくださいます。

 この平和は、「みこころにかなう人々」に与えられます。これは、「神に喜ばれる人」という意味もある言葉です。ですから「みこころにかなう人」と言うのは、イエス様を信じ、神様を信じる人、神様の喜ばれることを行う人、真の平和を求める全ての人のことです。私たちは、誰もが平和を求めます。平和を求めているのだけれども、私たちの社会は、争いが絶えることがありません。それは何故なのでしょうか。様々な理由が考えられるでしょうが、それぞれが自分の好む平和、自分の方法での平和を求めているからではないでしょうか。そんな私たちに、御使いの賛美は、「平和」をどこに求めたら良いのかを教えくれます。私たちは、救い主イエス様による平和を求めることが大切なのです。あなたは、この「平和」、救い主が与えてくださる闇を照らす光、大きな喜びを持っているでしょうか。イエス様は、私たちの心に「シャローム(神の平和)」を与え、満たし、喜びを与えてくださいます。

Ⅱ;救い主キリスト

 闇を照らす光であるイエス様は、私たちの、あなたの救い主キリストです。この知らせを世界で最初に聞いたのは、野原で野宿をしていた羊飼いたちでした。

 羊飼いと言うのは、ユダヤ人たちが神様にささげるための羊を放牧する人たちです。その点では、羊飼いという職業がないとユダヤ人たちは困ってしまうわけです。けれども羊飼いたちは、律法通りに安息日を守ったり、細かい律法の規定を守れるわけではありませんでした。だから羊飼いたちは、ユダヤ人の社会の中で見捨てられた人たち、人権が認められていない人たちだったのです。神様は、ユダヤ人の社会では見捨てられていたような人々に目を留め、救いの知らせをしてくださったのです。御使いは言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」。この日、私の、あなたの救い主がお生まれになったのです。これは本当に素晴らしい事実です。イエス様は、成長過程で神様のお告げを聞いて、救い主としての自覚をもったのではないのです。神のひとり子イエス様は、最初から救い主としてマリアの胎にやどり、救い主としてお生まれになったのです。でもどうして、神であるお方が、人となってこの世にお生まれになったのでしょうか。

 こんな話を聞いたことがあります(2007年ころの「百万人の福音」)。ある人が「神であるイエスが、人となって来られた」ことを信じることが出来ないでいました。何度聞いても、イエス・キリストが神であるけれども人となってこの世に来られたことを信じることが出来なかったのです。彼の家族は教会に通い、クリスマスには教会で礼拝をします。あるクリスマスの夜、家族が教会に行っている間、彼はひとり家に残り暖かい暖炉の側で新聞を読んでいました。外は雪が深々と降っています。そのうちに、窓に「コツン、コツン」と何かが当たる音がします。雪の中、鳥たちが隠れ場所を探して、明かりのついている場所めがけて飛んできて窓に体当たりしている音でした。弱り果てた鳥を助けようと、彼は家の小屋を開け鳥を誘導しようとしました。しかし鳥は、彼が近づけば逃げるし、餌をまいて小屋に入れようとしても駄目でした。弱っていく鳥を見て、その人はどうしたら鳥を助けることが出来るだろうかと考えます。そして、「人間だから怖がっている、自分が鳥になって仲間になれば助けることが出来る」そう思いました。その時彼は、何故、神様は人間を罪から救うために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ったのかが分かったのです。

 キリストは、なぜ人となられたのでしょうか。それは、私たちが罪人だからです。私たちは、神様から離れ、神様を知らずに歩んでいます。そして誰一人、自分自身を罪から解放することも、誰かの代わりになることも出来ないのです。人間ではどうすることも出来ないのです。そんな私たちのために、神様から解決の方法を提供して下さったのです。それが、神であるひとり子が、人間としてこの世に、私たちの間に来てくださると言う事なのです。イエス様は、罪がなく、完全な人として神様の前に正しく歩み、私たちの罪を背負うために人となられました。また、イエス様は、人としての弱さ、痛み、悲しみなど私たちの現実を知り、御手を差し伸べるためにお生まれになりました。そしてイエス・キリストは、世界中の誰もがイエス様を知り、イエス様に出会い、イエス様を受け入れることが出来るようにと貧しくなられたのです。この方こそ、闇を照らす光、私たちの救い主です。

Ⅲ;心を照らします

 闇を照らす光である救い主イエス様は、今も私たちの心を照らします。羊飼いたちは、御使いの知らせを聞いて、すぐにベツレヘムに移動しました。救い主が生まれた場所の目印は、「飼い葉桶」でした。羊飼いたちは、それがある場所を良く知っています。それは、羊飼いたちが、そのままの姿で入れる場所にあります。その場所こそは、家畜小屋でした。だから羊飼いたちは、救い主を捜し出すことが出来たのです。そして羊飼いたちは、御使いの知らせを人々に伝えました。皆さん羊飼いは、ユダヤの社会の中でどのような立場だったでしょうか。彼らは、住民登録の対象にもされず、人権が認められていない状態でした。裁判の時の証人となることも許されることなく信頼されていない人たちだったのです。しかし神様は、羊飼いを救い主誕生の証として用いてくださったのです。そして羊飼いたちの知らせを聞いた人たちは驚いたのです。なんという大逆転が起こったことでしょうか。誇らしげな羊飼いたちの姿が思い浮かびます。羊飼いたちは、御使いの知らせの通りだったので、神を賛美しながら帰っていきました。彼らの心には救い主誕生の喜びと天からの光が満ち溢れていたのです。

 皆さん、イエス様が誕生した時「宿屋には彼らのいる場所がなかった(ルカ2:7)」と言われています。結局与えられた場所は、家畜小屋でした。この家畜小屋は、ユダヤ人の住宅に備え付けられていた家畜小屋で、洞穴のようなもので、部屋の一つとして使用されていたとも言われています。そうだとしても新生児と母親のいる場所としてはふさわしくありません。身重のマリアに対して誰も部屋を開けることをしませんでした。こうしてイエス様は、人知れず、ベツレヘムの片すみでお生まれになりました。しかも動物の匂いが立ち込める家畜小屋で。
 クリスマスのトラクトで「映えないクリスマス」というものがあります(発行/いのちのことば社EHC)。数年前から使われるようになった「映(ば)える」という言葉は、「見栄えが良い」とか「素晴らしい」という意味で使われています。そのトラクトの中では、世界で最初のクリスマスを「なんとも『映え』ないクリスマス」と表現しています。そして「考えてみると誰の心にも、人から注目されない飼葉桶のような部屋があるのではないでしょうか。…他人に見せることが出来ないような、全く「映え」ない心の奥があるのではないでしょうか。」と続けられています。

 御使いは言います。一緒に今週の御言葉を読みましょう。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」皆さんは、救い主イエス様を心の王座にお迎えすることが出来ているでしょうか。あなたの心に、闇を照らす光である救い主イエス様をお迎えする場所はあるでしょうか。あなたの心は、イエス様からの恵み、大きな喜びに満たされた心となっているでしょうか。イエス様は、誰もが近づける家畜小屋でお生まれになりました。それは、イエス様を求め信じる人が、誰でも分け隔てなく救いを受け、恵みを受け、喜びに満たされるという約束でもあります。
 私たちは、イエス様を心から締め出すのではなく、救い主イエス様を心にお迎えしましょう。その時私たちの心は、大きな喜びで満たされます。イエス様は私たちの救い主です。そして私たちの心を照らし導いてくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちのために神のひとり子イエス・キリストがお生まれくださったことを覚え心から感謝致します。私たちは、イエス様を心の王座にお迎えします。イエス様、私たちの心の真ん中に来てください。イエス様の光で私たちの心の隅々まで照らしてください。イエス様、私たちの罪を赦し、恵みを与えてください。イエス様からの喜びで私たちの心を満たしてください。
 今、私たちの家庭に、私たちの住んでいる地域に、私たちの国に、世界のすべての国々に、平和がもたらされますように。お願い致します。天では神の栄光が輝き、地の上には平和がありますにお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」