<子どもたちへ>
皆は、食べ物の中で何が好きですか?嫌いな(苦手な)食べ物はありますか。学校の勉強で得意な科目は何でしょうか?嫌いな科目はありますか。では、クラスメイトはどうでしょうか。皆には仲の良い友だちがいることでしょう。そして嫌いな人、仲良くできない人、意地悪をしてきて嫌な人などもいるかもしれません。仲の良い友だちにはいつでも親切にすることが出来ますね。仲良くできない人が困っていた場合、皆はどうするでしょうか?友達ではないし、嫌いだから無視しますか。イエス様は、山の上でのメッセージの中で教えてくださいました。
今週の聖句を一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイの福音書5章44節」
「えっ、どういうこと???」と思いますよね。聞いていた弟子たちも、群衆も驚きました。イエス様は、その直前でこう言われました。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ5:43)」これはわかりやすいですよね。隣人を「あなたの友だち、仲の良い人」と言い換えても良いかもしれません。その人たちを愛すること、親切にすることは当然でしょう。そして敵や迫害する者というのは、「あなたに対して意地悪をする人、仲良く出来ない人」と言い換えても良いかもしれません。そのような人を憎むことも当然と思いますよね。
しかしイエス様は、「敵を愛し、迫害する者ために祈りなさい」と言われました。これは、仲が良い友だちとか意地悪をする人とか関係なく、周りの人たちを愛して、その人のためにお祈りしなさいということなのです。でも意地悪をする人のために祈るなんて出来ないですよね。イエス様の弟子たちも、「そんなことは出来ないよ。どうしてそんなことをする必要があるのか」と思ったことでしょう。当時のユダヤ人たちは、隣人とは同じユダヤ人で律法を守る人のこと、そして敵とは、罪人と言われる人やユダヤ人以外の異邦人(外国の人)と考えていたのです。だからイエス様が言われたことは、無理なことと思ったことでしょう。
イエス様は、「自分の力では無理なことだよね。だから神様に目を向けてごらん、神様がどれほど自分たちを愛しておられるのかを考えごらん」と言われました。天のお父さんである神様は、善い人でも悪い人でも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。神様は、神様を信じる人だけに太陽を見せているのではありません。神様を信じていない人でも太陽は必要ですから、すべての人に太陽を与えてくださっています。そして神様は、神様を信じていない人の畑には雨を降らせないということはなさいません。人が生きていくためには、作物が必要です。だから神様はすべての人に雨を降らせてくださいます。神様は、善い人にも悪い人にも太陽や雨を与え、命を守っておられます。神様は、人を分け隔てせず、愛してくださっているのです。皆にも太陽が昇りますね。雨も降りますね。時に嵐になるようなこともありますが、神様は、皆のことを愛しておられます。同じように神様は、みんなが嫌だなと思う人、仲良く出来ない人のことも愛しておられるのです。それは、その人が神様のことを知り、信じて、罪からの救いを受けるためです。
イエス様は、この神様の愛に倣って、あなたがたも愛し合いなさいと教えておられます。そのために必要なことは、相手のために祈ることです。イエス様は、嫌だと思う人と仲良くするようにとは言いませんでした。それが出来たら一番良いのでしょう。仲良く出来なくてもその人のために祈ることは出来ます。どんなことを祈りましょうか。その相手が、神様を知ることが出来るように、神様の祝福を受けて幸いな日々を過ごすことが出来るようにと祈りましょう。すると神様は、相手の心を変えてくださいます。神様は、皆の周りに集まる人たちの心に愛を満たしてくださいます。そんな風には祈れないと思うでしょう。それもわかります。だからまずすることは、僕たちが相手のために祈れるよう神様の愛で心を一杯にしてくださいと祈ることです。神様は、みんなの心を愛する思い、祈る思いで満たしてくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、あなたの敵を愛しなさいと教えてくださいました。神様、僕のたちの心に愛する思いを与えてください。神様が、僕たちのことを愛しておられるように、周りのお友達を大切にし、お友達のために祈ることが出来るように力を与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 マタイの福音書5章44節
<適用>
マザーテレサは、「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と言いました。差別していなくても無関心であれば、それに加担している事につながるということを意味していました。
三浦綾子さんは、「愛するとは、単なる『好き』ということとは違います。相手を生かし、相手を育てる意思なのです(小さな郵便車)。」と言いました。「愛する」ことは、好き嫌いの問題ではないという事を意味しているのでしょうか。
イエス様は、「隣人を愛する」ことについて、新しい視点を私たちに示しています。ご一緒にイエス様の言葉に耳を傾けましょう。
Ⅰ;常識を打ち破る
私たちは、神様の愛に倣う者とさせていただきましょう。そのためにイエス様は、私たちの常識と思えることを打ち破ることから始められました。5章の後半部分で、イエス様は、「あなたがたは、・・・と言われていたのを聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と当時のユダヤ人たちのモーセの十戒に対する理解への挑戦をしています。
マタイ5章21節でイエス様は、「『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」と言われました。そして「しかし」と続け「兄弟に対して怒る者は、さばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。…。」と言われました。イエス様は、「殺してはならない」という十戒の教えを文字通り行う事だけではなく、心の中の問題として扱っておられます。
マタイ5章27節でイエス様は、「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。ユダヤ人たちは、律法に従って姦淫という行動を取らなければ良いと思っていたのだと思います。しかしイエス様は、心の在り方の問題として考えるべきだと言われました。
マタイ5章23節でイエス様は、レビ記19章12節を引用して誓う事について教えています。
このような教えの中でイエス様は、「『隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」と言われたのです。そして「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。
弟子たちをはじめイエス様の話を聞いていた群衆は、とっても驚いたと思います。人々は、モーセの律法を守ることを最優先し、それだけではなく、さらに細かく規定された律法をしっかりと守ることに細心の注意を払っていました。この律法主義の生き方では、人々の心の問題はあまり気にされなかったのではないでしょうか。当時のユダヤ人が求められたことは、律法を守っているかどうかで、その行動をする人の心の在り方ではありませんでした。
けれどもイエス様は、主なる神様が心の中をご覧になることを知っていたのです。そしてイエス様は、あなたがたの心の在り方、感情や思いの方向は正しいのだろうかと問われたのです。これは、私たちに対しても同じことです。私たちは、御言葉に従って歩むことを願います。しかしその私たちの生き方、心や思い、考え方の在り方は神様の御心に沿っているのでしょか。「隣人を愛する」という私たちの生き方は、イエス様が教えておられる「愛」となっているのでしょうか。
Ⅱ;神様の愛の素晴らしさ
私たちは、神様の愛に倣う者となりましょう。そのために必要な事は、神様の愛の素晴らしさを知ることです。
漢字の成り立ちを調べますと、色々な説明がされています。「倣う」という漢字の成り立ちを調べてみました。ある人は、「倣」という字は、人と農具、右手の象形文字から成り立っていると説明していました。恐らく、人(農夫)の農作業を見て、一緒に作業して覚えるという事から「まねる」「ならう」と言う意味になったのでしょう。私たちが何かを習得するためには、誰かに教わる必要があります。速く走る為には、早く走れる人にそのコツを教えてもらう事が必要です。私は、小学生の時にフォークギターを始めました。私は、少しでも上達するために自分よりも上手な人の演奏を見て、とにかく真似をしました。テレビで音楽番組を見ていても、歌っている人には注目せず、ギターを演奏している人の手元だけを注目していました。学校から帰ってくると、とにかくギターを弾きました。見た演奏や覚えた演奏方法を繰り返し、繰り返し練習しました。布団の上でも横になりながら、ギターを練習していました。
何度かWBCの話題を話していると思いますが、日本代表の選手たちは、大リーグで活躍している選手に注目していました。日本代表のピッチャーたちはダルビッシュ投手から多くのことを習得したようです。大谷翔平選手が合流した時には、日本代表選手たちが大谷選手のバッティング練習を食い入るように見ていたのが印象的でした。彼らは、大谷選手のバッティングを見て、まねて、少しでも吸収しようとしていたのです。
私たちが神様の愛に倣うと言う時もやはり、倣うべきものを見つめる必要があります。私たちが信じる神様は、どのような愛を示してくださっているのでしょうか。神様は、ご自身の素晴らしい愛を私たちに明かにしてくださっています。二つの御言葉を見ることにしましょう。
まず、ローマ5章8節の御言葉です。パウロは、「しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」と語っています。私たちは、神様に背を向け神様に敵対していた罪人です。けれども神様は、神様に背を向け神様から離れている私たちを愛してくださっているのです。だから神様は、罪人の私たちを裁くのではなく、イエス様を身代わりにして十字架につけたのです。今私たちは、神様の怒り、さばきではなく、イエス様の十字架によって神様との平和が与えられ、神様の愛に生きる者へと変えて頂くことが出来るのです。
次は、イザヤ書43章4節の御言葉です。神様は、私たち一人ひとりに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語りかけてくださいます。この語りかけは、神の民イスラエルに対するものですが、イスラエルの民が神様に従って歩んでいるから愛していると言っているのではありません。イザヤが神様の愛のメッセージを語った時のイスラエルは、神様に背を向け、御言葉に従わず、預言者を迫害していたのです。そでも神様は、「あなたを愛している」と言っておられるのです。それは、神様の愛を知ってもらいたい、神様の愛に満たされ、祝福の中を歩んでもらいたいという神様の切なる願いです。
そして今日の箇所にあるように、神様は全ての人に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。神様は、人を分け隔てせず、愛を注ぎ、人の一生を導いておられるのです。皆さんは、このような素晴らしい神様の愛、罪人をも愛してくださる愛、高価で尊いと言ってくださる愛、分け隔てなく「あなたを愛している」と言ってくださる神様の愛を受けているでしょうか。知っているでしょうか。
Ⅲ;愛されている者として
私たちは、神様に愛されている者として、神様の愛に倣う者となりましょう。イエス様は、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」と言われました。これは、隣人を愛する事について、神様の愛に倣って愛するようにという勧めです。
当時のユダヤ人たちは、隣人とは同じユダヤ人で、罪人や異邦人は、愛の対象とはしていませんでした。イエス様は、罪人や異邦人でさえ自分の同胞を愛するし、挨拶もするでしょう。自分の同胞であるユダヤ人同士で愛し合い挨拶を交わすことがどれほど優っているのか、それほどの違いはないと言われました。
イエス様が言われたことは、私たちの力では無理な事です。敵を愛する事も迫害する者のために祈ることもそう簡単な事ではありません。私たちは、時々「どうしてこの人は、このような言い方をするのだろうか。あの人の考え方は好きになれない。どうしてあんな嫌な態度をするのだろうか」などと感じることありませんか。そんな時は、その人のために祈る事とか愛を示すことなど考えることさえ出来ないでしょう。しかし神様は、そのような人たちのことも愛しておられるのです。神様は、私たち一人ひとりを愛しておられます。同じように私たちと意見の合わない人、敵対してしまうような人、嫌だと感じてしまう人のことも愛しておられるのです。神様は、その人たちが神様の愛を知るようになることを願っておられます。そのために私たちが出来ることは、相手を愛し、祈る事なのです。
神様は、私たちが周りの人たちの救いに関して無関心でいることを望みません。神様は、好きか嫌いか関係なく、私たちが周りの人たちの救いのために祈り求めることを願っておられます。
神様は、私たちが神様の完全な愛によって満たされ、変えられ、倣う者となることを願っておられます。皆さんの心は、神様に愛されている者として周りの人たちを愛する愛の心となっているでしょうか。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、『あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』と教えてくださいました。そして父なる神様が完全な愛を持っているように、私たちも完全でありなさいと勧めています。このことは、私たちの力ではどうすることもできず、無理なことのように思います。神様、私たちの心を神様の愛で満たしてください。私たちに愛の心を与え、周りの人たちのために祈り続けることのできるように力を与えてください。
神様、能登半島地震で大きな被害を受けた方々を今日も守り、慰め励ましてください。ボランティアの活動をしている方々、復旧作業をしておられる方々を守ってくださるようにとお願い致します。
紛争が続いている地域にあって、戦闘が速やかに終わり、平和が訪れるようにとお願いいたします。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」