2024年2月25日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書12章1-11節「イエスに喜ばれる人」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 中学生、高校生の皆さんは、学年末試験の最中だったり、終わったところだったりと、勉強の大変な2月だったかもしれません。中には大学受験を控えている人もいますから、まだまだ緊張が続くことでしょう。みんなの学びが祝福されて、学んだことが発揮できるようにお祈りしています。
 さて今年のイースターは3/31です。そこまでの日曜日は、イエス様の生涯最後の1週間のお話をしています。今日は、あと何日かで十字架につけられてしまうイエス様が、とても喜ばれたお話です。イエス様は何を喜ばれたのでしょうか?見ていきましょう。

「イエス様、ようこそいらっしゃいました」「どうぞこれを食べてください」イエス様を囲んでワイワイとお食事になっています。ここはエルサレム近くのベタニア村、シモンという人の家に集まっています。ベタニアにはイエス様を信じて親切にもてなしてくれる人がたくさんいたのです。
 そこにはマリアとマルタ、兄弟ラザロも来ていました。このラザロは病気で死んだのに、イエス様に生き返らせて頂いたのでしたね。マリアはそこに、ナルドの香油の壺(つぼ)を持ってきていました。パリーン、とつぼを割ると、イエス様の頭と足に油を塗りはじめたではありませんか。そして髪の毛でその足をふいてあげました。部屋中に良い香りがいっぱい広がりました。マリアは、イエス様のために、何か良いことをしたいと思ったのでしょう。値段の高い香油を惜しげもなくイエス様のために使い切ったのです。

 ところが大変です。そこにいた弟子たちが、イスカリオテのユダという人を中心に文句を言いだしたのです。「おいおい、こんな高い油を無駄にしてもったいないじゃないか!」そう、ナルドの香油の値段は300デナリもしました。300日分のお給料をそっくりためてやっと買えるほど、高価だったのです。ユダは言いました。「これを売れば、貧しい人たちにわけてやることが出来たのに!」ユダに責められて、マリアは困ってしまいました。「そうなのかしら?やるべきではなかったのかしら?」さて、皆さんならどちらの行動が正しいと思いますか?イエス様はどう思われたでしょうか?
 イエス様はこう言われました。「マリアをそのままにしておきなさい。埋葬の準備に油を取っておいてくれたのですから。私はいつまでもあなたがたと一緒にいられるわけではないのですよ。」そう言ってイエス様はマリアににっこりとなさいました。

 こんな素敵な場面なのに、そこには怖い顔をした人たちが来ていました。それは祭司長たちで、ユダヤ人のリーダーです。何を怒っているのでしょうか?「イエスのやつめ、こんなにたくさんの人を集めおって。」「生き返ったとかいうラザロを見て、みんながイエスを信じるようになっているぞ」「それは困る。イエスもラザロも殺してしまおう」。なんと恐ろしい相談でしょうか。同じことを見て経験しても、こんなにも心に思うことが違うものなのですね。
 今日のみことばを読みましょう。「吟味(ぎんみ)」というのは「よく調べて判断する」ということです。私たちに必要なのは、イエス様に喜んでいただける行動や思いなのかよく考え判断することです。イスカリオテのユダや祭司長たちは、自分の考えが一番になっていてそれが出来ませんでした。しかしマリアはイエス様を一番に考え、心をこめて実行しました。イエス様はその心と捧げものを喜んで下さったのです。
 私たちもマリアをお手本として、イエス様に喜ばれる人になれるよう、歩んでいきましょう。

<祈り>
 神様。私たちのために苦しみを引き受けてくださるイエス様に感謝いたします。マリアはよくみことばを聞き考えて、イエス様の喜ばれることを選んで実行出来ました。マリアのように、イエス様に喜ばれることを見分けて行う力を私たちにお与え下さい。御名によって祈ります。アーメン。

「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」 エペソ人への手紙5章10節

<適用>
 先週はお祈りして来たチャリティーチャペルコンサートが祝福のうちに実施されました。イベント委員会の皆様のご労と、皆様の祈りと協力に感謝します。今回はアコーディオン奏者の檜山学さんをお迎えして、素晴らしい音色と演奏を楽しむことが出来ました。その中で檜山さんが、何故教会に行くようになったのかを証して下さいました。檜山さんは中学、高校とかなりグレていて、家でも学校でも厄介者と見られていたそうです。でも幼いころ通っていた教会に再び足を運んだ時、教会だけは「そのままのあなたが素晴らしいんだ」と言ってくれたそうです。決して変わらないものの素晴らしさを証して下さって感謝でした。コンサートを通して種蒔きされたみことばとお証が、来場者の内で芽を出していくように、続いてお祈りをして参りましょう。
 さて今年は2/14の灰の水曜日から、既にレント(受難節)に入っています。そして3/29が受難日、3/31がイースターとなります。礼拝式ではイエス様の十字架への歩みを学んでいますが、今日からはご生涯最後の1週間に焦点をあてての学びとなります。
 緊張に満ちた話が続く中で、この香油注ぎの物語は読み手である私たちに心の安らぎを与えてくれます。イエス様はなおさらのこと、マリアの麗しい行為に慰めと喜びをお感じになったのではないでしょうか。私たちもまた、マリアに倣うならばイエス様に喜ばれる者になることが出来るでしょう。今日は2つの点から学ばせて頂きましょう。

1.最善をもって主に仕える人

 最初に覚えたいことは、マリアは自分に出来る最善をもって主イエス様にお仕えした、ということです。
 今日の箇所は、ヨハネ11章のラザロの復活とのつながりの中で記されています。マルタ、マリア、ラザロの3人がこの宴会でイエス様を迎える側にいたことがわかります。並行箇所であるマルコ14章では、会場になったのは「ツァラ―トに冒された人シモンの家」とあります。このシモンは、ツァラ―ト(すなわち重い皮膚病)にかかったがイエス様に癒された人なのではないか、と考えられています。また2節を見るとマルタが給仕をしラザロがくつろいでいることから、ここが彼らの家、すなわちシモンが3姉弟の父親か親戚だった可能性が高いとも言われています。

 その席上でのことです。3節「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」。ナルドの香油とは、ヒマラヤに生育する植物からとれる精油で、非常に高価なものでした。ここでは300デナリ(すなわち300日分の賃金)に相当したと言われます。またこの香油は彼女の嫁入り道具だったのかもしれません。いずれにしても貴重なものです。
 前にもお話しましたが、当時は客人に油を注いで歓迎の意を示すのが一般的でした。マリアはイエス様に注ぐには、最上のナルドの香油こそがふさわしいと思いました。そしてマルコの福音書によればそれは頭に注がれ、更にはイエス様の足に塗られました。香油の香りは部屋中に充ち溢れました。そして勝利の入城の時、最後の晩餐の時、ゲッセマネの祈りの時、その後の数々の苦難の間も、かぐわしい香りはイエス様のお体から放たれ続けたことでしょう。

 更にマリアは、自分の髪でその御足をぬぐいました。これはルカ7章の罪深い女の香油注ぎを思い出させます。私はマリアが、この罪深い女性の行動を耳にしていた可能性があると思っています。女性が髪を人前でおろすというのは、当時は非難された行動です。しかしそこに罪赦された者としてのへりくだりと献身、主への深い感謝が込められていたことに、マリアが共感していたのではないかと思うのです。
 マリアは何故このように行動できたのでしょうか。一番に思い浮かぶのはラザロの復活への感謝です。しかしそれだけなら楽しい祝宴で終わります。けれどもこの油注ぎは、イエス様によれば「わたしの葬りの日のため」、すなわち十字架の死への備えだと言うのです。マリアは、いつもみことばをしっかりと聞く人でした。受難の予告を弟子たちが聞き流してしまっているときも、すべて理解したわけではないでしょうが、マリアはイエス様の御心の痛みに気づいたのではないでしょうか。そこで香油をもってお慰めしようと考えたのかもしれません。心からの献身をお伝えして、御心をお強めしたいと考えたのかもしれません。繊細な気遣いであり、女性の賜物が豊かに用いられている場面であります。マルコ14章でイエス様は「彼女は、自分にできることをしたのです」とマリアを褒めて下さいました。

 自分に出来る最善で主にお仕えする、その人を主イエス様は喜んで下さいます。私たちもマリアのように、私たちのため苦難を引き受けて、罪の赦しを与えて下さった主に、愛と感謝を表す者となりましょう。みことばに耳を傾け、主の喜ばれるところを選び取らせて頂き、進んでお仕え致しましょう。

2.自分ではなくイエスを中心に考える人

 2つ目に覚えたいことは、マリアは自己中心でなくイエス様を中心に物事を判断する人だった、ということです。
 4節からはマリアにいいがかりをつけるイスカリオテのユダの様子が書かれてあります。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)。ユダだけでなく、ほかの弟子たちもこれに同調していたことがマルコの福音書には記されています。彼らは一見もっともで、広い視野に立っているかのような発言をします。それは立派な意見に聞こえます。しかし6節によると、ユダは一行の財布を預かりながらそこから盗む、盗人だったとあります。ということは、マリアが油を売って献金してくれた方が、ユダには都合がよかったのです。信仰の仮面の下には盗人が隠れていたのです。そこにあるのは私利私欲、自己中心でありました。

 残念なことに他の弟子も、ユダの肉的動機を見抜くことができませんでした。彼らはまた「貧しい人への奉仕」と「今この時にしか出来ない主への奉仕」の、優先順位を適切に判断することが出来ませんでした。今週のみことばを読みましょう。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(ピリピ5章10節)。この吟味には主の助けと知恵が必要です。自分の考えを絶対視するのでなく、へりくだって判断する必要があります。自己中心でなく、イエス様中心に物事を考えることが、私たちに求められていると教えられます。私たちを大きな愛で招き、十字架の死により贖って下さったイエス様です。このお方をいつも中心に考え、イエス様に喜んでいただくことを一番に願って、自分に出来る善きわざに励んで参りましょう。

<祈り>
 神様、あなたを礼拝が出来る恵みを感謝いたします。マリアの香油注ぎを通して、主に喜ばれることを見分けてお仕えし、喜ばれる人になりたいと教えられました。あなたは何を喜ばれるでしょうか。真摯に問い、自分に出来る最善をもってあなたにお仕えさせて下さい。この受難節、私があなたにお捧げすべきは何かを、どうぞ教えて下さい。マリアのように主に喜ばれる人になることが出来ますよう、お導き下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。