2024年5月19日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書16章7-16節 「助け主 聖霊の導き」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 誰にでも「誕生日」がありますよね。僕たちにとって誕生日って、みんなが「おめでとう!」と言ってくれる特別な一日になります。
 教会にも誕生日があります。それがペンテコステを迎えている今日です。ペンテコステというのは、「50番目」と言う意味があって、旧約聖書で定められた大切な日のことです。いつから50日目かというと、過ぎ越しの祭りの後の日曜日から50日となります。だからイエス様がよみがえってから50日目ということにもなります。この日、キリスト教会にとって大切な出来事が起こったのです。ペンテコステの日に何が起きたのでしょうか。

「みんなで心を合わせてお祈りしよう。」弟子のペテロが言いました。イエス様は、僕たちの罪の身代わりとなり十字架にかかって死なれました。そしてお墓に葬られたのです。けれどもイエス様は、死んで終わりではなく、なんと3日目に死を打ち破りよみがえってくださいました。今年も、イエス様の復活を感謝して、イースター礼拝をしましたね。イエス様は、復活のあと40日間、弟子たちにお姿を現されて、復活が確かであることを証明してくださいました。そしてイエス様は、弟子たちの目の前で天にお帰りになりました。イエス様は、天にお帰りになる前に、弟子たちに聖霊を受けるためにエルサレムを離れないでお祈りしていなさい、と言われたのです。こうしてペテロやヨハネ、ヤコブなどイエス様の弟子たち、イエス様に従っていた人たちは、エルサレムの町にいて一緒に集まって「天の神様、イエス様が聖霊を受けるまで祈っていなさいと言われました。イエス様が約束してくださったように助けてください。聖霊をお与えください。」とお祈りを始めました。

 お祈りを初めて10日目(イエス様の復活から50日目)、驚くようなことが起きました。「ヒュー、ゴー、ゴー、ガタガタ・・・」と突然激しい風が吹いてくるような音がして、弟子たちのいた家全体に響き渡ったのです。そして「ペテロ、頭の上に何かあるぞ!」「ヨセフこそ頭の上に火のようなものがあるぞ、頭が燃えてしまうぞ」とびっくりです。大きな音と一緒に炎のような舌が現れて、家にいた一人ひとりの頭の上にとどまったのです。すると祈っていた全員が聖霊に満たされました。イエス様が約束してくださった通り、弟子たちに助け主である聖霊が与えられたのです。そこに集まっていたみんなは、とっても感動して、じっとしていられないし黙っていられないで、御霊が話させてくださるとおりにイエス様の十字架と復活の素晴らしい救いのみわざについて語り始めたのです。

それだけではなく、弟子たちは、家の外に飛び出して「イエス様は、救い主なんだよ。イエス様は僕たちの罪のために十字架にかかってくださった。イエス様は死なれたけど、3日目によみがえって今も生きておられる。信じる人は罪が赦されて天の御国に行くことが出来るのです。」と大きな声で人々に話し始めたのです。しかもいろいろな国の言葉で話し始めたのです。その時エルサレムには多くの国や地域からたくさんの人が集まっていました。その人たちは自分たちの国の言葉でイエス様のことが話されているのでびっくりです。でも中には、「あいつらはお酒に酔っぱらっているだけだ」と馬鹿にする人もいました。
 そこでペテロが代表してイエス様の救いの恵みを話しました。それを聞いていた人たちの中で三千人もの人がイエス様を信じて悔い改めて洗礼を受けました。こうして教会が誕生して、イエス様の十字架の福音が世界中に伝えられることとなりました。
 イエス様は、今もイエス様を信じる全ての人に聖霊を与えてくださいます。そして聖霊なる神様は、今も僕たちを助けて導いてくださるのです。信仰をもって主イエス様を見上げ、聖霊の助けをいただいて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペンテコステの日、一緒に集まっていた弟子たちは、助け主である聖霊なる神様に心が満たされて、喜びが与えられ、イエス様のことを伝える者へと変えられました。今もイエス様は、信じる全ての人に聖霊を与えてくださることを信じます。助け主である聖霊様が、僕たちと一緒にいてください、助けてくださることを感謝します。
 聖霊なる神様、一人ひとりの心に住んでくださり、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主を与えてくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
                            ヨハネの福音書14章16節

<適用>
 「はじめの一歩!」という掛け声で始まる遊びがありました。私は、子どものころよく遊んだものです。何事にも最初の一歩と言うのがあります。私は、10歳の時にフォークギターを始めたいと思い、その第一歩を踏み出してから、かれこれ40数年になります。小学生の時に私は、ピアノも習っていたのですが、ピアノ教室に通わされていたという感じだったので、一歩を踏み出したものの途中で足踏みし、あまり上達はしませんでした。
 今日は、キリスト教会が、神様の導きの中でその、初めの一歩を踏み出したペンテコステを記念する日曜日です。そしてペンテコステは、弟子たちが宣教の一歩を踏み出した日でもあります。この貴重な第一歩を踏み出させたお方が、聖霊なる神様です。ペンテコステの出来事以降、弟子たちをはじめ初代教会の人たちは、助け主である聖霊の導きを受けて歩み続けることとなりました。初代教会の時代だけでなく、聖霊なる神様は、今に至るまで教会とクリスチャン一人ひとりと共にいてくださっています。そしてこれからも聖霊なる神様は、私たち一人ひとりを助け導いてくださるのです。私たちは、助け主である聖霊様の導きをどのような面で受けることが出来るのでしょうか。共に学びましょう。

Ⅰ;間違いに気づく

 助け主である聖霊は、私たちに間違いを教えてくださいます。聖霊様は、私たちの間違いを指摘して私たちの人生を方向付けて下さるのです(8)。イエス様は、最後の晩餐の席で何度か約束の聖霊について語っておられます。聖書では、「御霊」とか「聖霊」という表現がされていますが、違う事を言っているのではなく、同じお方のことを言っています。私たちは、聖霊なる神様が私たちの心におられることをしっかりと知らなくてはなりません。聖書は、父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神を教えています。だから私たちも「神様」とか「イエス様」そして「聖霊なる神様」と表現をします。しかしこの言い方は、神と言う存在が3人いるというものではありません。神様は天地を造り、人間を造られた唯一、ただ一人の神様です。でも唯一の神様は、「父なる神」「子なる神(イエス・キリスト)」「聖霊なる神」という三位一体の神様なのです。またイエス様は、聖霊について「もう一人の助け主」、「この方」という言い方をしています。と言うことは、聖霊は、単なる力とか守護霊のような存在ではなく、三位一体の神であるということです。

 イエス様は、天にお帰りになり、聖霊を遣わすと約束をしてくださいました。そしてこの聖霊なる神様が私たちに真理を教え、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」るのです(8)。
 罪についての間違いとはどういうことでしょうか。それは「彼らがわたしを信じないからです(9)」と言われています。「そうか分かった」とすぐには言えないかもしれません。皆さんは、「罪」とか「罪を犯す」ということをどのように理解しているでしょうか。イエス様が生きておられた時代、ユダヤ人たちは、聖書の律法を守っていれば正しいと考えていました。この律法主義が徐々にエスカレートして、ユダヤ人たちは、律法を守ることに意味があると考え、神様への信仰が軽視されてしまいました。その結果彼らは、自分たちには律法(聖書の教え)を持っている民族なのだから、自分たちは正しい民族だと考えました。その行き着くところは、「ユダヤ人は正しく義なる民族、ユダヤ人以外の人たちは罪人だ」という考えでした。これがユダヤ人たちの間違いでした。聖書が教える「罪」と言うのは、心の中の問題です。人が、主なる神様を信じるかどうかが問題なのです。そしてイエス様は、「神様を信じないこと」が最大の罪だと言われたのです。神様の愛を無視し、救いの恵みを軽視していることが罪なのです。
 多くの人は、別に人の道から外れているわけではないから罪がないと考えるかもしれません。また自分は、あの人と比べればそれほど悪くはないから、罪人ではないと思っているかもしれません。その判断基準は、自分です。イエス様は、あなたの心にある判断の基準は何かを問われるのです。私たちの心の判断基準は、神様ですか、それとも自分でしょうか。私たちが物事を判断する時のポイントは、神様の言葉である聖書でしょうか。それともこの世の価値観、自己中心でしょうか。聖霊なる神様は、その間違いを私たちに示し、罪を教え、信仰告白への導いて下さるのです。

 義についてとは、どういうことでしょうか。それは、イエス様が十字架で死なれ、よみがえり、天にお帰りになるからです。人は、何をしたら罪が赦され、義である(神様の御前に無罪である)と認められるのでしょうか。この世の教えは、正しく生きること、良いことをしていれば罪の赦しを得られると教えます。また今は、お金を払えば何でも手に入る時代です。私たちは多額のお金を用意すればどこかで罪の赦しと救いと平安を買い求めることが出来るのでしょうか。実は多くの人がそのように考えていますが、残念ながらそれは不可能です。そこで人々は難行苦行しますし、お金を払ってお守りなどを手に入れます。でもそれでもだめだと分かっているので、ほとんどの人は毎年、来る日も来る日も同じことの繰り返しをしているのではないでしょうか。中世の時代、ローマカトリック教会は、そのように教えていました。お金を出して「免罪符」を買えば罪が赦されるということです。これが罪を赦され義とされることに対する間違った考え方です。
 マルチン・ルターは、免罪符では罪の赦しを得ることが出来ないことをはっきりと主張しました。そしてルターは、聖書の御言葉から、人が罪を赦され救いを受けることが出来るのは、イエス様を信じる信仰によるのだと正しく教えるのです。こうしてルターによる宗教改革へと進んでいきました。神様は、聖書を通してご自身の与える救いについてちゃんと教えてくださっているのです。その救いとは、イエス様の十字架です。イエス様は、私たちのために十字架で罪の罰を受けて死なれました。そして罪の赦しと永遠の命があることを証明するために復活して今も生きておられるのです。このイエス様を信じることによってのみ私たちの罪は赦され、神様の御前に義と宣言されるのです(ローマ4:24-25、エペソ2:8)。聖霊様は、そのことをはっきりと示してくださるのです。

 裁きについてとは、イエス様の十字架の贖いが、この世を支配するサタンの裁きとなるからです。この世界は、サタンの支配下にあります。だからすべての人は、神様を認めないし、神様に対して背を向けるのです。そして人は、サタンの惑わしに対して無力です。けれどもイエス様は、十字架の死とよみがえりによって、サタンの支配を打ち破り勝利を取られました。私たちは、イエス様の大いなる力によって歩むことが出来ます。私たちは、サタンの支配から解放され、神様の恵みと祝福の中へと移されるのです。
 聖霊なる神様は、これら三つのことを私たちに知らせてくださるのです。私たちは、聖霊様の助けを受けて正しく理解できるように求めましょう。

Ⅱ;真理を明らかにする

 助け主である聖霊は、間違いを教えるように、私たちに御言葉の真理を明らかにしてくださるお方です。神様は、聖書の御言葉を通して多くのことを教えてくださっています。神様は、平安を与え、救いの喜びで満たし、神様ご自身の臨在で包み込んでくださると語っておられます。私は、ある時このことをはっきりと知り体験することが出来ました。

 もう30年以上も前のことです。私は、ある教団の青年キャンプに参加をしました。そのキャンプで賛美集会がもたれた時、私はギターで奏楽の奉仕をしていました。しかし賛美をしている中で、私は言いようもない平安に包まれました。奏楽をやめて、じっくりと神様を賛美してその時間を自由に過ごしたいと思うくらいでした。私は、ギターを弾きながら祈りつつ奏楽をしていました。そしてこの言いようもない平安が、賛美の中に住まわれる主の臨在なのだと気づいたのです。私は、聖霊なる神様の臨在の恵みに包まれていることを感じなら賛美をしました。集会が終わっても私は、一人神様の御前に静まっていました。先ほども言いましたが、言いようのない平安で、心がとても温かく穏やかになる経験でした。この経験を通して、私は神様に本当に愛されていること、聖霊様が私と共にいてくださるという真理を知った出来事でした。

 「助け主」と訳されているギリシャ語「パラクレートス」には、「ある人の友となり、必要であれば弁護するために傍らにいる相談相手」という意味があります。ですからイエス様は、「その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます(ヨハネ14:16)。」と約束されたのです。聖霊様は私たちの傍らにいて、いつでも私たちを助け導くお方なのです。
 パウロはこのように言っています。「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです(ローマ8:26)。」私たちが祈れない時、聖霊様は私たちの傍らにいて、執り成しの祈りをしてくださるのです。聖霊様は、私たちの傍らにいて、神様の御心を、進むべき道を示し、そして慰めを与えてくださるお方です。

 聖霊なる神様は、皆さんと共にいて下さる助け主です。私たちの必要に常に答え、主の御心を示して、確かな方向へと導いてくださるのです。そのために聖霊なる神様は、私たちに御言葉の真理を一つ一つ教えてくださり、明らかにしてくださるのです。私たちは、聖霊様の導きがなければ、聖書を理解することが出来ません。なぜなら聖書はすべて神の霊感によって書かれたもので、御霊に動かされた人が書いたからです。パウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)」と教えています。私たちは、自分の知恵や知識でイエス様の十字架と復活、罪の赦しを理解できたのではありません。聖霊様が、私たちの心に語り、御言葉の真理を教えてくださり、信仰に導いて下さったのです。こうして礼拝で説教を聞いている時でも、一人静まって聖書を読み黙想している時でも、聖霊なる神様が一人ひとりの心に光を与えてくださるのです。

 皆さんの心に、助け主である聖霊様の臨在があり、聖霊なる神様に導かれて歩むことが出来るようにと祈ります。
 ご一緒にヨハネ14章16節(今週の御言葉)とヨハネ16章13節の御言葉を読みましょう。
 ヨハネ16章13節「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」
 ヨハネ14章16節「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主を与えてくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、信じる全ての人に助け主である聖霊様を与えてくださることを感謝いたします。聖霊なる神様が、私たちの心におられいつも一緒にいてくださり、御言葉の真理を教え、助け導いてくださることを心から感謝いたします。私たち一人ひとりの心に聖霊様がご臨在くださり、常に満たしてください。私たちが、聖霊に満たされ導かれ続けて、御言葉の真理を理解できるように助けてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」