2024年5月26日(日)礼拝説教 創世記27章1-13節 「みこころを正しく求める」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 去年の夏まで礼拝で学んでいたアブラハムさんのお話、覚えていますか?アブラハムは神様に特別に選ばれた人でした。子供がいなかったのに、100歳の時にイサクが生まれたのでしたね。そしてそのイサクが大人になって結婚したところまで、去年はお話を聞きました。今日からはそのイサクの子どもたちのお話です。

 これはイサクの子どもたち、2人は双子です。やりを持っているのがお兄さんのエサウです。エサウは毛深くて、狩りが得意でした。左にいるのは弟のヤコブです。ヤコブはつるつるのお肌で、静かに家で過ごすのが好きな人でした。双子でもちっとも似ていませんね。
 実はこの2人、お母さんのお腹の中にいた時に、神様からこんなことを言われていました。「生まれてくるのは双子で、兄が弟に仕える。」弟の方がお父さんのあとを継ぐ、祝福を受ける、ということです。

 さて、2人が大人になった時のことです。エサウが狩りから帰ってきました。「ああ、疲れた。野原を駆け回って腹ペコだ。」見ると、弟のヤコブが美味しそうなスープを作っています。「おいヤコブ、その赤くておいしそうなスープをくれよ。何か食べないと死んでしまうよ」。ヤコブは言いました。「お兄さん、スープはあげましょう。でもそれと引き換えに、お兄さんの長男の権利を僕にくれませんか?」エサウは答えました。「長男の権利なんて、今の俺には何の役にも立たん。お前にやるから早くそれを食わせてくれ」。そう言ってエサウはヤコブの作った料理をがつがつと平らげて、行ってしまいました。
 長男の権利って何のことでしょう。それは、一番上の男の子は、他の兄弟の倍の財産をお父さんからもらうことが出来る、という権利のことです。弟のヤコブはいつもお兄さんがうらやましかったのです。でもお兄さんのエサウは、当たり前と思っていたのか、この権利を大切にしていなかったのですね。しばらくは特に問題もなく時が過ぎていきました。

さて、お父さんのイサクはますます年を取って、目が見えなくなってきました。イサクはエサウに言いました。「エサウよ、私が天国に行く日も近づいた。まずはお前の狩りの獲物を料理してきて、私に食べさせておくれ。その後お前を長男として祝福したい。」あれれ?神様は弟の方を祝福すると言われたのに、お父さんは反対のことをしようとしています。お父さんは兄エサウが好きなのです。
 それを陰で聞いていたのはお母さんのリベカです。ヤコブを呼んでいいました。「かわいいヤコブ。お父さんがエサウ兄さんを祝福しようとしています。兄さんより前にごちそうを持って行って、祝福してもらいなさい。」お母さんは弟ヤコブが好きなのです。
 ヤコブは言いました。「でも兄さんは毛深いのに私の肌はつるつるで、触ればすぐにばれるでしょう。」「大丈夫、兄さんの服を着て、腕と首には毛皮を巻いて行って来なさい!」こうしてヤコブは兄になりすまし、お父さんのところに料理を持って行きました。イサクはあれ?と思いましたが、だまされてヤコブの方を祝福してしまいました。

 ヤコブが出て行ったあと、エサウが料理を持ってやってきました。「お父さん、料理です。さあ私を祝福して下さい。」お父さんは言いました。「なんだと?お前がエサウだというのか!ではさっき祝福したのはヤコブだったのか!」これでヤコブの悪だくみが完全にばれてしまいました。エサウは泣いて怒りました。長男の権利をヤコブにあげてしまったことは棚に上げて、こう言いました。「ヤコブめ、こんなことをしやがって。父さんが亡くなったら、あいつを殺してやる!」
 それを聞いたヤコブは震えあがりました。「早く逃げなさい!」というお母さんのすすめもあって、遠く親戚に逃げることにしました。お嫁さん探しに行く、ということにして、身を隠すことにしたのです。結局ヤコブは20年も家に帰れなかったそうです。

 この家族は、アブラハムさんからの特別な祝福を受け継いでいるのにこんな悲しいことになってしまいました。どうしてこんなことになったのでしょうか?今日のみことばを読みましょう。「愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」(エペソ5章17節)。イサクの家族はみんな少しずつ、愚かな判断をしてしまったようです。私たちも自分勝手にことを進めたりせずに、神様のお考え(=みこころ)はなんだろう、とまず考えるようにしましょう。そういう考え方をする人を、神様は喜んで下さいます。お祈りして神様のお考えを第一にし、祝福を受け取らせて頂きましょう。

<祈り>
 「神様神様のお考えを一番にする大切さを教えて下さりありがとうございます。愚かで自分勝手なやり方ではなく、神様に喜ばれる行動が取れるように助けて下さい。そして祝福を受け取ることが出来ますように、導いて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」
                             エペソ人への手紙5章17節

<適用>
 聖書の中で神様を指す表現の中で、重要な表現の一つに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方があります。ある研究によれば、アブラハム(アブラムも含む)の名は旧約聖書に236回、イサクは112回出、そしてヤコブの名は実に349回出てくるそうです。彼の別名である「イスラエル」は、現代においても彼の子孫の呼び名であります。双子の弟として生まれたのに、神様の選びは確実にヤコブにあったことがわかります。
 私たちは神様の選びとご計画が確かに存在する、ということを聖書の内に見出だします。しかしそれが自分の思いと異なる時、人はふさわしくないふるまいをしてしまうことがあります。祝福をもぎ取ったようでいて、結局は互いに傷つき痛みを刈りとらなければならない。それは残念なことです。イサクの家族の問題を、私たちへの教訓として学んで参りましょう。

 1.神の主権に従う姿勢

 今日覚えたい第一のことは、私たちは神様の主権に従う姿勢を持つ必要がある、ということです。
 イサクが結婚したのは40歳の時でしたが(創25:20)、子供を得たのは60歳の時でした(同26)。長年の祈りの子としてリベカは神様から子供を授かったのでした。けれど胎内の子どもが激しくぶつかり合うことで、双子だと分かったようです。子を宿していると色々不安になりがちです。また、激しい動きは妊婦にはなかなか大変なものです。私も妊娠中に長男が激しく動く子どもで、臨月までつわりのような状況だったのを思い出します。リベカは子どもたちに対する神のみこころを求めて祈りました。すると神様のみことばが望みました。

「すると主は彼女に言われた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民よりも強く、兄が弟に仕える』」(創25:23)。これが、イサク夫妻に示された神のご計画でした。
 胎内から争いを繰り広げる兄弟、エサウとヤコブ。ヤコブはエサウのかかと(アーカブ)をつかんで産まれたことが、名の由来となりました。エサウを先に行かせまい、とするヤコブの人生を表しているようです。エサウは赤くて毛深かったとあります。名の由来ははっきりしませんが、「毛深い」「毛皮」という語と関係があるとも言われます。彼の別名エドムは「赤い」という意味で、肌の赤さと、赤いスープに執着したことが由来です。
 それぞれの個性をもった兄弟が誕生しましたが、次第に家庭内のゆがみが表れてきます。父イサクはエサウを偏愛していました。猟の獲物を好んだのがその理由だと、聖書ははっきり言っています(25:28)。イサクにはだいぶ人間的な部分があったようです。母リベカはというと、ヤコブを偏愛していました。新改訳は「天幕に住んでいた」と訳しますが、新共同訳では「天幕の周りで働くのを常としていた」と訳しています。母リベカの良き助けとなる存在だったのも、愛された理由かもしれません。

しかし、長じてからの親好みとは関係なく、行いによらない神の選びがありました。使徒パウロはこう言っています。「その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、『兄が弟に仕える』と彼女に告げられました。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書かれている通りです」(ローマ9:11~13)。
 アブラハムから続く祝福をエサウに授けようとしたイサクは、この神の主権に服従することを軽んじてしまったようです。彼のしたことは「アブラハム、イサク、エサウの神」に変更しようとする試みでした。しかしそれはみこころではなく、神の絶対的主権によりヤコブが選ばれていたのです。
 イサクの行動は、妻リベカの策略を呼び起こし、ヤコブによる欺き、家庭内の決定的な不和を引き起こしてしまいました。私たちが神様の主権を軽んじるなら、決してうまくいくことはありません。祝福を頂き、しかもそれを受け取らせて頂くには私たちの側の姿勢が大切です。私たちの肉の弱さのゆえに判断が適切にできないことがあるかもしれません。求めているのが神の「みこころ」ではなく、実は自分の「おこころ」の実現になっている場合があるかもしれません。今日のみことばを読みましょう。神様からの知恵を頂きつつ、また己ではなく神様を中心にして、ものごとを判断させていただきましょう。

2.実現を委ねる信仰

 2つ目に覚えたいことは、神のご計画の実現は、神ご自身に委ねる信仰が必要である、ということです。
 イサクがエサウを祝福しようとしたのを知ったリベカの行動には、首をかしげたくなります。彼女は偏愛するヤコブに神の祝福を継がせるために、策略をめぐらしヤコブになりすましをさせたのです。これは立派なオレオレ詐欺の走りでしょう。
 年を経て、向き合うことが出来ない夫婦関係になっていたのでしょうか。信仰面での語らいも途切れていたのでしょうか。母を顧みず野に出かけてばかりのエサウよりも、穏やかに自分を支えてくれるヤコブに家督を継がせ、ヤコブと共に晩年を過ごしたい、と思ったのでしょうか。

 いずれにしてもリベカは、あまりにもふさわしくない方法で、ヤコブへの祝福を求めました。ヤコブもまた、エサウの弱みにつけこんで長男の権利を狡猾に買い取るなど、祝福に執着していました。母はヤコブを巻き込み、ヤコブもためらいながらも結局は大胆に父をだまし切るのです。
 その結果はリベカとヤコブに何をもたらしたでしょうか。リベカには、激怒する長男と、困惑し妻への信頼を失った夫が残されました。ずっとそばにいてほしかったヤコブは、遠へ落ち延びていき、結局このあと再会は叶わなかったようです。ヤコブは兄に命を狙われ、祝福どころかさすらいの生活を余儀なくされました。人は種をまけばその刈り取りもする、と聖書にあるように、悪事は彼らに苦しみをもたらしました。

 彼らの失敗から何を学べるでしょうか。神に喜ばれない手段で願いをかなえたくなる弱さを、私たちも持っているように思います。だからこそ心に刻む必要があるのは、正しい方法で神のみこころの実現を求めることです。
 神の時を待つのは、もどかしく思われる時もあります。でもヤコブの場合も、約束の地に戻れるのは20年以上たってからでした。時も神に委ねる必要があります。
 無理を通さず神様に委ねていたら、また別の道が備えられるということもあるでしょう。リベカの場合なら、ヤコブと共に約束の実現を待ちながら、共に過ごす晩年があったかもしれません。人のはかりごとで神のみ旨に挑むのは、やはり「愚か」と呼ばざるを得ないのではないでしょうか。私たちは愚かにならずに、神が必ず愛と最善をもってみこころを実現なさる、ということを心に刻みましょう。委ねる信仰を新たにして参りましょう。

<祈り>
 天の父なる神様、エサウとヤコブへのご計画を通して学ばせて頂きありがとうございます。私たちにも自分の願いをごり押しするような、愚かで弱い部分が存在いたします。しかし、あなた様の主権に服従し、みこころの実現をお委ねする道があることを示して頂きました。どうぞ愚かにならず、正しくみこころを求める歩みが出来ますよう、お導き下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。