2024年8月4日(日)礼拝説教 マタイの福音書15章21-28節 「信じ続けるとは」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 夏休みも2週間が過ぎようとしています。皆は、どんな夏休みを過ごしていますか?皆は、きっと夏休み前に宿題をする計画を立てたことでしょう。その宿題を進める計画は、予定通り進んでいるでしょうか?遊ぶ計画は予定通りに進むけど、勉強となるとなかなか思い通りに行かないものですよね。僕は、小学生のころ夏休みの宿題を後回しにしてしまい、夏休みの後半が宿題で埋め尽くされることがありました。そのような時、僕は、親に助けてもらいました。または、夏休みが終わって先生にもう少し待ってくださいと必死にお願いしたこともあります。ともあれ、暑い毎日ですけれど、神様の守りの中で楽しい夏休みとなるように祈っています。

 ある時イエス様は、ご自分の町を離れてツロとシドンという外国の地域に行きました。イエス様は、少しお休みを取ろうとしたおられたのでしょうか。イエス様が休んでおられるとそこに、一人のお母さんがやってきました。このお母さんは、必死にイエス様に何かをお願いしています。
「イエス様、私を憐れんでください。娘が悪霊につかれてしまって、ひどく苦しんでいるのです。誰も娘を助けることが出来ません。どうかイエス様、お願いします。」とお母さんは、叫び続けました。

 イエス様は、どうしたでしょうか。イエス様は、「すぐに娘を連れてきなさい」とか「ではあなたの家に行きましょう」と言ったでしょうか。弟子たちは、そうするだろうと思ったかもしれません。しかしイエス様は、何もお答えにはなりません。イエス様は、お母さんを無視するかのように何も言わないのです。でもお母さんは、あきらめないで、「イエス様、ダビデの子よ、救い主よ。私を憐れんで娘を治してください。イエス様しかいないのです。」と叫び続けました。これでは静かに過ごすことなど出来ませんよね。とうとう弟子たちが、「イエス様、何とかしてくれませんか。彼女は、しつこく、うるさくついてくるので、困ってしまいます。」とイエス様にお願いするのです。それに答えてイエス様は、「わたしは、イスラエルの失われた羊以外のところには遣わされていない」と言うのです。

 お母さんは、それでも叫び続けます。それだけ、お母さんの思いが強かったのです。するとイエス様は、「子どもたちのパンを小犬にあげるのは良くない」と言われました。これまた予想外のイエス様の答えです。イエス様が言われた「子どもたち」は、イエス様や弟子たちと同じユダヤ人のことです。「パン」は、神様の御言葉のことで、「小犬」は異邦人(外国人)のことです。イエス様は、意地悪をしているのでしょうか。けっしてそんなことはありません。イエス様は、まずユダヤ人に神の国のことを伝えるべきだと言われたのです。
 そこでお母さんは、「確かにその通りです、イエス様。子どもたちが食べるべきパンを取り上げて、小犬にあげることはしないでしょう。でも小犬は、テーブルからこぼれるパンくず(パンのかけら)は食べることは出来るのではないでしょうか。」とイエス様に答えました。これは、神様の憐れみを、ほんの少しでも受けることが出来れば、それで十分ですという信仰の告白でした。

 イエス様は、お母さんの信仰を喜ばれました。お母さんの言葉の意味は、「ユダヤ人であるイエス様がユダヤ人を優先するのは分かります。それは当然のことでしょう。でも外国人は、そのおこぼれを受けることは出来るのでないでしょうか。ほんの少しの憐れみで十分です。」と言うことです。お母さんは、心から本気でイエス様を信じて、信頼して求め続けました。イエス様は、その信仰を喜んでくださり、娘をなおしてくださいました。
 僕たちは、何でもイエス様に祈り求めることが出来ます。僕たちは、どんなことでもイエス様にお願いすることができます。その時に大切なことは、イエス様に喜んでもらえるような信じる心を持つことです。イエス様を信じてお祈りしましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、心から信じる人の願いを聞かれました。僕たちは、心から本気でイエス様を信じます。どうか僕たちの祈りを聞き、導き、助けてください。暑い日が続きます、皆が体調を崩さず夏休みを過ごすことが出来るように支えてください。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』」       マタイの福音書15章28節

<適用>
 先週の答え合わせをしなくてはいけませんね。先週のメッセージの中で、私の車の運転の癖の話が出たと思います。私が運転中に助手席に座っている人を見て話をするということでした。確かに私は、横を見てしまうことがあるかもしれません。私は、人と話をする時、相手の顔を見て話をするようにと教わりました。車を運転している時は、しっかり前を見て運転することは基本中の基本です。それは分かっています。でも隣で話してくれている人を見ないというのは、なんか相手を無視しているような気がして、ふと見てしまうのです。ほんの1,2秒だと思いますが、車は2秒で相当進みますから危険です。今では、横を見てしまう回数は減っていると思っています。引き続き安全運転を心がけます。
 さて、今日はマタイの福音書から「信じ続けるとは」と言うことで御言葉から学びましょう。話題が急展開しますが、御言葉に耳を傾けていきましょう。

Ⅰ;信頼し続けること

 信じ続けるとは、信頼し続けることです。
 イエス様がガリラヤを離れて北に位置している、地中海沿岸のツロとシドンの地方に退かれた理由は、明らかではありません。おそらくイエス様は、群衆から離れて休暇を取りたい、弟子たちと本当に静かに過ごしたいと考えておられたのではないでしょうか。ユダヤ人たちは、異邦人とかかわりを持ちませんでした。異邦人もユダヤ人たちとは距離を取っていたのです。だからイエス様がツロとシドンにいる間は、静かにゆっくりと過ごせるはずでした。弟子たちもそれを期待していたことでしょう。しかし事態は、弟子たちの思うようには進みませんでした。 

 その地方のカナン人の女性がイエス様に懇願にやって来たのです。しかも彼女は、叫び続けて止める気配はありません。最初イエス様は、何もお答えにはなりませんでした。イエス様は、静けさを邪魔されて怒り心頭だったのでしょうか。決してそうではありません。イエス様には、黙っている理由がありました。その理由は、24節の「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていない」という言葉に現れています。これは、イエス様の地上での宣教活動の範囲を考えれば当然のことと言えるでしょう。イエス様は、休み時間を邪魔されてイライラしたのでも意地悪をしているのでもありません。イエス様の約3年間の公生涯は、ユダヤ人の地域を移動するだけで費やされました。イエス様は、神の国のことを語り、御言葉を通して、まずユダヤ人たちが旧約聖書を正しく理解し、救い主に心を開くようになることを願っていたのです。イエス様の地上での宣教は、この一点に集中していたと言っても良いでしょう。その思いが、「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていない」と言う表現となりました。

 嘆願に来た女性は、イエス様の言葉を想定内の反応として受け止めているように思います。彼女は、「イスラエルの失われた羊たち以外には遣わされていない」とか「子どもたちへのパンを小犬に投げるのは良くない」と言われても諦めることはありませんでした。彼女は、イエス様の言葉をそのまま受け止めました。そして、「小犬でも食卓からのパンくずは頂きます(27)」と訴えるのです。この言葉は、「自分が異邦人であり、ユダヤ人であるイエス様から恵みを受ける資格がない」という認識から来る表現です。彼女は、イエス様の前での自分の立場を素直に認め、それでも自分はイエス様を信じ、信頼し続けて憐れみを求めるという信仰の表明をしたのです。

 私たちが祈る時、この母親のように謙遜に求める事が大切となります。人は、ことあるごとに祈ります。クリスチャンではなくても、何かに祈ります。自分は何も信じないと言う人も、お寺や神社に行ったりしますし、何かに祈る祈り心を持っています。それは、何かに祈り願うことによって心に安心を得たいという人の本質からではないでしょうか。でもその祈るという時には、祈り願う人の動機が大切です。多くの場合人は、神は自分の祈りや願いを聞いて当たり前と考えるかもしれません。ある人は、「神様は自分の祈りをそのまま答えるべきだ」と考えるかもしれません。別の人は、「困ったときに神に祈ろう。神は何でも願いを叶えてくれるから」と考えるかもしれません。多くの人が、「困ったときの神頼み」的な祈りをしているのではないでしょうか。それは、神という存在を自分の都合の良いように動かす自己中心の願いとなります。

 では、私たち自身の祈りはどうでしょうか。祈りは、神様を自動販売機のように使うためのものではありません。私たちは、神様を都合のいいように動かすために祈るのではありません。祈りは、父なる神様との人格的な交わりとなるべきです。私たちは祈りを通して自分自身を知り、神様の思いを知るようになります。その時私たちは、自分が罪人であり、神様の御前に出る資格はないと知るのです。そこで私たちは、さらに一歩神様を信頼し続けるかどうかが試されることになるのではないでしょうか。
 母親は、「自分はイエス様の御前に進み出る資格はないかもしれない、けれども、ほんの少しの憐れみを与えていただきたい。それで十分です。」とイエス様を信じ、信頼し続ける祈りをしました。私たちもイエス様を信じ、信頼し続けて祈り求めましょう。

Ⅱ;希望を持ち続けること

 信じ続けるとは、希望を持ち続けることです。その時イエス様は、私たちに恵みを与えてくださいます。
 「娘を癒してください」と求めた母親は、イエス様への希望を捨てることはしませんでした。最初イエス様は、女性の求めに何も答えませんでした。弟子たちが、女性の求めに応じて早く帰らせてくださいと要請して初めてイエス様は口を開きました。彼女は、イエス様が反応を示さない間もずっと叫び続けました。しかもその言葉は、単にイエス様助けてくださいというのではなく、「主よ、ダビデの子よ。」との言葉で始まります。彼女は、カナン人です。神様は、アブラハムにカナンの地域を約束の地として与えると約束をされました。旧約聖書でカナン人は、イスラエルの民に敵対する民族として登場しています。マタイが「カナン人の女」という表現を用いたのは、この女性が神様の祝福からは離れているだろうということを強調したかったのだと思われます。しかし神様の祝福や憐れみからは遠いと思われていた女性が、イエス様に必死に求めているのです。

 彼女は、異邦の地にいながら、ユダヤ人の間で力あるみわざを行っているイエス様の噂を聞いたのではないでしょうか。そしてこのお方こそ、旧約のイスラエルの民が待ち望んでいた救い主であると理解したのです。だから彼女は、イエス様に対して「主よ(先生)」だけではなく、「ダビデの子よ(約束の救い主よ)」と呼びかけたのです。そして彼女は、イエス様以外に娘を助けることは出来ない、イエス様は自分の求めに答えて助けてくださるという信仰を持ち続け、イエス様への希望を持ち続けたのです。27節の彼女の言葉「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」という言葉は、彼女の確かな信仰の現われでした。イエス様は、彼女の確かな信仰に答えて娘を癒してくださいました。

 皆さん今、私たちはイエス様の御前に出て祈り求める事が出来ます。ツロとシドンの時にイエス様は、「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」と言われました。けれども異邦人が完全に除外されていたわけではありません。イエス様は、カペナウムでローマの百人隊長のしもべを癒されました。サマリヤでは、ひとりの女性がイエス様によって変えられました。そしてツロとシドンでは、ひとりの母親がその信仰によって娘を癒していただきました。それだけではありません。イエス様は、地上の全ての人が救いと神様の恵みを受けられるように、十字架にかかって下さったのです。この福音が全世界に宣べ伝えられるのは、イエス様が天にお帰りになり、聖霊に満たされた弟子たちによってなされることでした。イエス様は、すでにその可能性を示しておられたのです。

 私たちは、自分の罪のために神様から離れ、神様の愛と恵みを受ける資格のないものでした。神様が、私たちから遠く離れているのではありません。神様に背を向け、神様から離れているのは、私たち自身なのです。イエス様は、そんな私たちの罪を背負い、身代わりとなって神様の罰を受けて下さいました。私たちは、イエス様は信じる信仰によって、救いの恵みを与えられ、神の子どもとしての特権を与えられています。
 娘を癒された母親は、とことんまでイエス様を信じ、神様は決して自分を見捨てることはない、と希望を持ち続けました。私たちもイエス様を信じ続け、希望を持ち続けて祈りましょう。神様は、私たちが信じて疑わず、求め続けることを願っておられます。そしてイエス様は、そのような信仰を喜んで下さり、恵みと憐れみ、祝福を与えてくださいます。

Ⅲ;告白し続けること

 信じ続けるとは、告白し続けることです。私たちは、イエス様への信仰を告白し続け、主なる神様を見上げて歩むことが大切です。
 イエス様は、「ほんの少しでも良いのです」という彼女の信仰を認めてくださいました。28節の「あなたの信仰は立派です」と言うのは、「あなたの信仰は偉大です」という意味があります。イエス様は、確かにユダヤ人を最優先に考えておられましたが、決して彼女に恥をかかせようとしたのではありません。イエス様は、人格的な交わりを通して、彼女の信仰の確かさを知ろうとされていたし、その信仰を人々の前での告白へと導こうとされたのです。これが、イエス様が黙っていた理由の二つ目です。彼女の信仰は、立派なものでした。イエス様は、彼女がイエス様を信じ続け、神様への希望を持ち続ける確かな信仰を持っていることを認め、娘を癒してくださいました。

 弟子たちは、ガリラヤ湖の嵐の中で恐れました。ペテロは、水の上を歩くというイエス様の御力を経験しながらも疑って沈みかけてしまいました。その時イエス様は、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか(マタイ14:31)」と言われました。この時の「信仰の薄い者よ」というのは、「信仰の小さい者」と言う意味があります。カナンの女性の信仰は、弟子たちの信仰との比較を表しているようです。

 カナンの女性は、自分の娘が悪霊に苦しめられている様子を見るにつけ、イエス様ならと考えていたのではないでしょうか。彼女は、全能の神の力を持っているイエス様なら、自分を助ける力があると本気で信じ続けていたのです。その信仰は揺らぐことがありませんでした。でも弟子たちは、揺れ動くのです。私たちはどうでしょうか。
 イエス様を信じ続けるとは、イエス様を信頼し続けることです。信じ続けるとは、イエス様への希望を持ち続けることです。信じ続けるとは、「イエス様こそ救い主です。イエス様だけが私を導き助けることが出来るお方です」という信仰を告白し続けることです。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様、今私たちに福音が語られ、神様の赦しを受けることが出来、永遠のいのちの約束を与えていただける恵みを心から感謝致します。イエス様は、そのために十字架にかかり、よみがえり、今も生きておられます。今もイエス様は、私たちの祈りに耳を傾け、みざわを行い続けてくださいますから感謝致します。
 私たちは、イエス様を信じ続けます。私たちは、イエス様を信頼し続け、希望を持ち続け、告白し続けて歩みます。私たちを救い、祝福を与え、愛を注ぎ導いてくださるのは、イエス様だけです。主なる神様だけです。私たちは、確かな信仰をもって歩みます。どうか私たちの心の思いを知ってくださり、私たちを確かな道に導いてください。
 神様、御前に集う一人ひとりの健康を守り、日々の歩みに大いなる祝福をお与えください。世界中の一人ひとりに、主の平和をお与えください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」