<子どもたちへ>
先週は、祭司ザカリヤにみ使いが現れて、男の子が生まれると約束されたお話でした。今日は、その奥さんのエリサベツがみごもってから6か月目の時のお話です。
ガリラヤの町に一人の女の子がいました。名前はマリア。まだ中高生くらいの年でしたが、大工のヨセフと結婚することが決まっていました。ヨセフは昔の偉い王様、ダビデの子孫です。みんなに祝福されて、「ああ、新しい生活が楽しみだわ。神様ありがとうございます。」そういつもそうお祈りしていました。
そんなある日のこと。まぶしい光が突然マリアを照らしました。み使いが現れたのです。ザカリヤに現れたのと同じ、天使ガブリエルです。「おめでとう、マリア。あなたは恵みを受けたのです。」マリアはびっくりするやら恐ろしいやら、返事も出来ないまま考え込んでしまいました。
するとみ使いは言いました。「恐れることはありません。あなたはみごもって、男の子を産みます。名前をイエスと付けなさい。この方は救い主です。」マリアはますますびっくりです。
「どうしてそんなことが起こるのですか?私はまだ結婚していませんのに。」み使いは答えました。「聖霊の力によるのです。その赤ちゃんは聖なる方、神の子です。エリサベツも年を取っているのに赤ちゃんが出来たでしょう?今はもう6か月です。」そしてみ使いは言いました。一緒に読みましょう。「神にとって不可能なことは何もありません。」(ルカ1:37)
マリアは思いました。(赤ちゃんが出来たりしたら結婚出来ないかもしれない。でも神様にお任せしよう。きっと守って下さるにちがいないわ!)。そこでこう言いました。「わたしは神様に従います。お言葉どおり、この身になりますように。」それを聞くとみ使いは満足そうに去って行きました。
マリアは大急ぎで、親戚のザカリヤの家に向かいました。するとエリサベツが喜んで迎えてくれました。「まあ、マリア!よく来たわね。救い主のお母さんが来たなんて、お腹の子どもも喜んで動いているわ」。そして言いました。「神様の言われたことは必ずそのとおりになる、と信じたあなたは幸せな人ですよ」。
するとマリアの心は喜びでいっぱいになり、神様を賛美しました。今日のみことばを読みましょう。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」そして3か月の間、エリサベツたちと暮らしてから家に帰って行きました。
最初にも話しましたが、マリアはまだ中学生か高校生くらいの年齢でした。大人になり切る前なのに、こんなに素晴らしい信仰を持っていたのですね。皆さんも子どもだったり、中高生だったりします。若い素直な心は宝物です。マリアのように神様のみことばを素直に信じてお頼りしましょう。そういう人を神様は喜んで、守って下さいます。
また皆さんの将来にも、神様は恵みのご計画を立てておられます。色々な心配が湧いてくるときがあるかもしれません。そんな時は神様にお祈りしてお任せしましょう。「神様の良いご計画が私に実現しますように」とお祈りしていきましょう。
<祈り>
「神様、アドベントの礼拝をありがとうございます。マリアは自分が救い主の母となることを受け入れました。心配するのでなく、神様を喜んで褒めたたえました。私たちも神様を喜びながら歩んでいきたいです。マリアのような素直で深い信仰をお与え下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」
ルカの福音書1章46-47節
<適用>
今年もアドベントになりました。この時期、私はお店に出かけたくなります。最近はネットショッピングを多用しており、あまり実店舗で買い物をしていません。しかしこの時期になると、店内でクリスマスソングをかけているのを聞きたくなるのです。自分の選曲と違う様々なジャンルの曲が流れます。しかし一番嬉しいのは讃美歌、クリスマスキャロルです。しかも、教会で歌う機会の少ない曲がかかったりすると、もう嬉しくなります。クリスマスには賛美と音楽が本当に合う、と改めて思います。
さてこのルカの福音書には、救い主誕生を待つ2人の人の賛歌が記されております。その2人は先週学んだ祭司ザカリヤとイエス様の母となるマリアです。ザカリヤの賛歌は「ほむべきかな」を意味するラテン語から「ベネディクトゥス」と呼ばれました。今日学びますマリアの賛歌は「あがめます」を意味するラテン語から「マグニフィカト」と呼ばれています。いずれも音楽にのせての歌、というよりは、賛美の詩歌です。けれど、どのクリスマスキャロルよりも美しく、ある種荘厳な賛歌です。今朝はマリアの賛歌に思いを馳せ、私たちの賛美がよりクリスマスの恵みにふさわしいものとなりますよう、ご一緒に学びたいと思います。
1.聖霊による喜びの歌
まず覚えたいのは、マリアの賛歌は聖霊による喜びの歌だったということです。
受胎告知の際み使いはこう言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)。救い主は人の交わりによらず、聖霊の力によってマリアの胎に宿ったのです。
そして聖なる母子は、聖霊に満たされた人たちに囲まれる必要がありました。マリアは「山地にあるユダの町、ザカリヤの家」(39、40節)に急ぎます。彼女を迎えるエリサベツはこれ以上ない適任者でした。この滞在は本当に贅沢な場面だなあ、と思わされます。2人の女性の胎内にはイエス様と後のバプテスマのヨハネがいるのです。ザカリヤも当然そこにいたことでしょう。アドベント・オールスターズ、という感じでしょうか。
聖霊に満たされたエリサベツによると、マリアは「女の中で最も祝福された方」(42)であり、「私の主の母」(43)「幸いな人」(45)でした。それに応えるようにしてマリアが主を賛美しました。
「私の魂は主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」(46,47)。あがめる、と訳されている言葉はギリシャ語のメガルノーという言葉です。崇める、大きくするという意味です。メガということばが付いていることからもわかるように、主を最大限褒めたたえる、という意味になります。
また「讃える」と訳される言葉は、他の箇所では「喜ぶ」と訳されることが多いようです。マタイ5:12の山上の説教の中で「大いに喜びなさい」と言われた時にも同じ言葉が使われています。マリアの賛歌は喜びの歌なのです。彼女は神様を「私の救い主である神」と呼んで溢れる喜びを表現しました。
マリア自身の言葉に耳を傾けましょう。
マリアは「この卑しいはしために目を留めてくださった」ことが嬉しく、幸いだと言います(48)。神の前に立つ資格などない者が、神の目に留まった驚きと感謝がそこにあります。そして「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(48)と、自分が最高に幸せであることを宣言するのです。私たちも彼女と共に、見出して下さった神を喜びたいと教えられます。そしてその幸いを心に、感謝の賛美をお捧げしたいものです。
マリアは「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」(49)と語ります。「大きなこと」には、あがめると訳されたメガルノーの派生語が使われています。「大きなことをして下さった主のゆえに、わたしも主を偉大な方と崇めます」という歌になります。そして「そのあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます」(50)と、預言的なことばとなります。マリアに留まらず、時代を超え国を超え、主を畏れ敬う者全体への「大きな恵み」なのです。
しかしこの「大きなこと」、すなわち救い主の受胎は、人間的には彼女に困難をもたらすものでした。のちには我が子イエスの十字架を目の当たりにして、心が刺し貫かれる日も訪れます。しかし聖霊に満たされたマリアは、困難があっても神様の奇跡のみわざに目を留めます。根底には「主のはしため」として神が備えられた恵みだけでなく困難をも引き受けて行く、という信仰があります。マリアのように、困難以上に恵みに目を留めて賛美できるよう、聖霊の助けを頂きたいと願います。
2.逆転のみわざを讃える歌
さて、今日見たい2つ目のことは、神の逆転のみわざへの賛美です。51節からは「心の思いの高ぶる者、権力のある者、富む者」が低くされ、「低い者、飢えた者」を引き上げ満たされるとマリアは歌います。
なぜ彼女はこう歌ったのでしょうか。それは彼女自身が自らを「卑しいはしため」と表現していることも関係があるでしょう。これは身分のことではありません。神は高ぶる者をお嫌いになり、へりくだる者を求めてみわざをなさしめたもう。これがマリアの確信でした。
しかしそれ以上に、マリアにこう歌わしめた理由があるように思います。それは神ご自身の驚くべき謙遜です。マリアは自分のような取るに足りない者を母に、神の子がお生まれになることに驚いたことでしょう。その驚きのゆえに主をほめたたえたのではないでしょうか。いと高き神が低くなる、このことを私たちはしっかりと心に刻む必要があります。
平成の天皇皇后両陛下は、1991年に雲仙普賢岳噴火の際、島原を訪問されました。その際、避難所の床にひざをついて被災者に語り掛けたそうです。噴火の続く最中でしたが、身を低くして声をかける天皇の姿に島原市長も被災者たちも大いに励まされて、以後避難所の空気ががらりと変わったと言います。「がんばろう」という思いが湧いたそうです。しかし、そのようなあり方は批判も招きました。1993年の北海道南西沖地震で奥尻島を訪問した際、ある評論家はこんな投稿をしたそうです。「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であっても車上であっても良いのです。」今から30年前のことです。天皇は「現人神」である、という考えの方もいたわけで、それを代表したのでしょう。しかしその後も天皇の被災地訪問では、ひざをつくスタイルは続けられました。それは被災者に寄り添う姿勢であり、謙遜なふるまいであることは間違いありません。寄り添うために身をかがめるへりくだりが、多くの被災者を励ましたのです。
新約聖書にこう記されています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:6-8)。
創造主であるいと高き神は、ご自身の側から低くなり人となって下さいました。神様は人間の世界にも逆転の御業をなさいます。使徒ペテロや主の兄弟ヤコブも「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」と繰り返し説いています。それなのに私たちは愚かにも、上へ上へと自分を高く見せようとしてしまう面があるのではないでしょうか。しかし聖書は逆転の生き方を説いています。下へ下へ、自分を低くする謙遜な生き方です。低くなって下さった救い主をお迎えするのに、高慢はふさわしくありません。高ぶりを捨て、主の前にへりくだりましょう。
3.約束の成就を讃える歌
最後に見たいのは、確かに約束を成就なさる神への賛美です。マリアは救い主の到来は神がイスラエルを憐れんでのことだ、と語ります。「父祖たちに語られた通り」というのは、アブラハムに星のように子孫が増え広がり、約束の地を確かに与えると誓われた契約のことです。また、旧約聖書にあるもろもろの預言のことです。マリアは神様のあわれみにより、その恵みがイスラエルに実現された、とたたえています。実際、この時から次々と預言が成就していきました。ユダヤ人読者に向けて書かれたと思われるマタイの福音書には、「これは○○の預言の成就であった」と、一つ一つ記されています。
思えばイスラエルは決して「聖なる国民」であり続けられませんでした。偶像礼拝と不従順の結果、2つの王国に分裂し、他国の支配を受ける道をたどりました。しかし、主の約束は、民の正しさや行いによるのでなく、ただあわれみによって実現されることが分かります。望まない失敗を繰り返すのが私たち人間であり、イスラエルでした。しかし「主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けて下さいました」(54)という恵みを、見つめ続けようではありませんか。
また、既に実現した約束、まだ実現していない約束、両方があるでしょう。しかし、主は憐れみ深く真実なお方です。エリサベツが言ったように「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです」(45)。実現する前から信じる先取りの信仰が、マリアの信仰でした。救い主を送って頂いた私たちにふさわしいのも、必ず約束を実現なさるお方への信頼です。マリアにならう信頼の心で、主をあがめ、ほめたたえさせて頂きましょう。
<祈り>
「神様、アドベント第2週の礼拝をありがとうございます。マリアの賛歌から学ばせて頂きました。恵みと同時に困難も賜ることを覚えます。しかし聖霊によって恵みに目を留め、喜びの歌、讃えの歌をあなたにお捧げしていきたいと願います。どうぞお導きください。また、愚かにも頭をもたげる高ぶりを捨てて、御前にしもべとしての謙遜な歩みをしたいと願わされました。主よ、へりくだって神と人とに仕える霊を私どもにお満たし下さい。そしてお語りになった恵みの約束は必ず実現することを、私も信仰をもって宣言し告白いたします。あなたへの信頼において成長させてくださり、先取りする信仰に励ましめて下さい。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。」