2025年2月16日(日)礼拝説教 サムエル記第一3章1-14節 「御言葉に耳を傾ける」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 イエス様よりずっとずっと昔の時代のお話です。サムエルという男の子がいました。12歳くらいでしょうか小学校が終わったくらいの年齢だったかもしれません。サムエルは、小さい頃からお父さんとお母さんから離れて、祭司のエリ先生のお手伝いをしながら神殿で暮らしていました。小さい時からサムエルは、一生懸命に神様に仕えていました。

 さて、そんなある日のことです。グー、グーとサムエルが眠っていると、声がしました。「サムエル、サムエル」。「あっ、エリ先生が呼んでいる」。サムエルは眠い目をこすりながら起き上がり、エリ先生の部屋に行きました。「はい、ここにおります!」としっかり返事をしました。するとエリは不思議そうに言いました。「いや、呼んでいないよ。帰って寝なさい」。サムエルもエリも「おかしいなあ、なんだろう?」と不思議に思いましたが、戻って寝ました。
 でもまた声がします。「サムエル、サムエル」。「はい、ここにおります!」とエリ先生の所に行くと、また言われます。「呼んでいないぞ。さあ寝なさい」。うーん、誰が呼んでいたのでしょう?皆さんはどう思いますか?

 実はこの後も同じことがありました。そう、全部で3回こんなやりとりがあったのです。これにはエリ先生が気づきました。「これは神様がサムエルを呼んでおられるのだ。サムエルよ、次に呼ばれたらこう言うのだよ。『主よ、お話し下さい。しもべは聞いております』」。それでサムエルはまた戻って眠りました。
 すると今度はどうでしょう、神様がサムエルのところに来て言いました。「サムエル、サムエル。」サムエルは答えます。それが先ほど教えられたことば、今日のみことばです。声に出して読みましょう。「主よ、お話ください。しもべは聞いております。」(Ⅰサムエル3:9)。

 すると神様は、「エリの息子たちは悪いことをしているから、罰を与えなければならない」と言われました。サムエルはドキっとしましたが、神様のことばが終わると戻って朝まで眠りました。でも、朝になってもドキドキはとまりません。「エリ先生に聞かれたらどうしよう。こんなこと、言えないよ…」。でもエリ先生はサムエルを呼んで聞きました。「神様はお前に何と言われたのかい?隠さずにみんな話しておくれ」。そこでサムエルが包み隠さず話すと、エリは悲しそうに言いました。「その方は神様だ。神様の良いと思われるようになるように」。
 サムエルは言いにくいことでも神様のおことばを伝えました。そしてこれは、サムエルが「預言者」の仕事をするための、最初の一歩でした。神様が一緒にいてくれたので、サムエルが伝えることばはみんなその通りになったそうです。

 私たちは直接この耳で神様の声を聞くことはできませんが、聖書のことばを通して語りかけてくださいます。神様を信じてそのおことばを良く聞く人になりたいですね。サムエルは、神様から勇気をもらってそのおことばを知らせました。私たちも神様から勇気を頂いて、お友達に伝えられるよう、お祈りしていきましょう。

<祈り>
 「神様。サムエルが神様のおことばを良く聞いて、勇気をもって伝えていったお話を聞きました。私たちも、神様のおことばを静かな良く聞く心でお聞きできるよう、整えて下さい。また、サムエルが勇気を頂いてみことばを話したように、私たちにも必要な力と勇気をください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」  サムエル記第一3章9節

<適用>
 先週、中学2年の次男の数学の宿題を手伝いました。と言っても私自身は、数学が得意なわけではなく、自分が中学生の時には理解不能な科目でした。でも何とかなるのではないかと思い一緒に考えてみることにしました。今回は、図形の問題で何問か解くことが出来ましたが、自分が中学で学んだことをすっかり忘れていることに気づきました。私は、次男と問題に取り組む前に、彼が学んでいる事柄を理解することから始めました。なぜならば、図形の問題を解くためには図形について知らなくてはいけなし、計算式を解くためには計算方法を知らなくては無理だからです。それは、数学だけではなく全ての科目で内容を振り返らないと手伝えないということになります。その時に必要なことは、今の学生が使っている教科書を調べることです。私が中学生の時にそのことを少しでも実感していたら、当時の成績は違っていたのだろうなぁと思います。
 さて今日私たちは、御言葉に耳を傾けることについて考えてみましょう。私たちが御言葉に耳を傾けるのには意味があります。

Ⅰ;神様ご自身を知るため

 私たちは、神様の御言葉に耳を傾けましょう。それは、神様ご自身を知るためです。
 サムエルが誕生し、祭司エリに仕えていた時代は、「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった(3:1)」時代です。そして当然イスラエルでは、王様ではなく士師(さばきつかさ)がイスラエルの民を導いていた時代です。この時代は、シロに天幕が置かれ神殿が建てられ礼拝が行われていました。シロは、ヨシュアの時代からサムエルの時代まで会見の天幕が建てられ、イスラエルの中心地となっていました。

 サムエルは、乳離れするまで(2から3歳まで)両親のもとで育ち、その後祭司エリのもとで主に仕える訓練を受けることとなりました。でも「主のことばはまれにしかなく」ということですから、サムエルはまだ、主からのことばや幻を受けることがなかったということになります。サムエルは、年齢が若く祭司見習いとしてエリに仕え、霊的な訓練を受けている途中でした。
 サムエルがエリに仕え訓練を受けていた時、祭司として働きをしていたエリの息子ホフニとピネハスは、どうだったのでしょうか。この二人については、とてもひどい霊的状態だったことが分かります。Ⅰサムエル2章12節には、「さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった」とあります。ホフニとピネハスは、神様に捧げるべきいけにえを横取りし、神殿で性的にみだらな行いをしていました。ホフニとピネハスは、主を知らないだけではなく、祭司の定めについても知らなかったのです。主を知らないのですから、神様が何を求め、何を喜ばれるのか知らないのは当然のことと言えるのかもしれません。しかし、祭司が知らないというのは、ありえないことです。父親のエリはどうしていたかと言うと、二人の息子を呼び出して注意をしますが、祭司職を取り上げることをしませんでした。エリは、必要なことを教えていたのかもしれませんが、二人の息子たちは何も学び取っていないということかもしれません。ホフニとピネハスは、主なる神様の御言葉に耳を傾けることも、御言葉を心に留めることもなかったのです。

 そのようなエリ家族に対して神様からのメッセージを携えて来た人がいました(Ⅰサムエル2:27~)。この神の人を通してエリも、そして二人の息子ホフニとピネハスは、神様が求めておられることを知る機会が与えられていました。神様が求めておられることは、「主なる神様を第一にする」と言うことでした。エリは、「わたし(神様)が命じたわたしのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子を重んじ」ているのかと指摘を受けました(Ⅰサムエル2:29)。これは、神様への礼拝をないがしろにすることなく、神様を礼拝し、主の御名をほめたたえ、主の栄光を現すことが神様の御心であるということなのです。また神様は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる(Ⅰサムエル2:30)」とも語られました。神様は、神様を畏れ敬い、心から主に仕えることを喜ばれるということです。このように伝えられたエリでしたが、彼は息子たちを取り扱うことが出来ませんでした。

 まず私たちは、神の人がエリに語った言葉を心に留めましょう。なぜならば、その言葉によって私たちは、神様ご自身を知ることが出来るからです。主なる神様は、天地を創造された神様であり、私たちを愛し恵みを注いでくださる神様です。神様は、賛美されるべきお方であり、私たちが心から礼拝すべきお方です。そして神様は、神様ご自身を畏れ敬い、心から礼拝し、従う一人ひとりを祝福してくださるのです。逆に神様を軽んじ、神様をないがしろにする者は、神様からも軽んじられ、祝福を受けることが出来ないのです。
 神様は、さらにご自身について多くのことを御言葉から教えてくださっています。あなたは、聖書の御言葉から神様について何を知ることが出来ているでしょうか。私たちは、御言葉に心の耳を傾けることによって神様の素晴らしさを知ることが出来ます。「主よ、お話しください。しもべは聞いています」との祈り心をもって主を知る者とさせていただきましょう。

Ⅱ;主は語りかけておられる

 私たちは、御言葉に耳を傾けましょう。主は、私たち一人ひとりに語りかけておられます。エリの二人の息子たちの霊的腐敗が書かれている中でも、サムエルの従順さが際立ちます。Ⅰサムエル2章13節から、神殿でエリの息子たちがいけにえを横取りする様子が書かれているのですが、「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとって幼いしもべとして、主の前に仕えていた(18)」と言われています。またホフニとピネハスがエリの言葉に耳を傾けることなく悔い改めることもない状態の時に、「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した(26)」と言われています。サムエルは、神様への礼拝がないがしろにされている中で、唯一の希望の光を放っている人物でした。神様の憐れみによって守られていたと言っても良いでしょう。
 そんなサムエルは、神のともし火を絶やすことがないようにと、番をするために神殿で寝ていました。これは、「会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える(出エジ27:21)」によって定められている事に従ってのことでした。サムエルは、そのともしびが消される前なので、ちょうど日が昇る前の朝け方に主の声を聞いたことになります。サムエルは眠気に負けることなく、主の御前に進み出ます。
 私は、このサムエルの姿を読むたびに、サムエルは本当にすごいなと思います。私は、学生時代に新聞配達をしていたことを何度か話しをしていますが、実は、私は朝が弱く、起きられませんでした。どうして新聞配達を選んだのか、不思議なくらい起きられなかったのです。ですから毎朝「赤松君、そろそろ起きてね。配達の時間だよ」と所長からの電話で起こされていました。それで起きる事もあれば、2回目の電話をもらう事もありました。当時の新聞配達所の所長が優しくて良かったです。ですから少年サムエルの姿を読むと、自分自身の懐かしい思い出というか、恥ずかしい思い出がよみがえってきます。

 ともあれサムエルは、この明け方の経験を通して主が語りかけてくださるということを知りしました。しかしサムエルが聞いた主の言葉は、少年サムエルにとっては、とてもショッキングな内容でとなりました。その内容とは、エリとその家族への主の裁きだったからです。サムエルは、自分の育ての親であり、師匠でもあるエリに神様の厳しい裁きを伝えなければならないのです。翌朝サムエルは、どうしたらよいのか訳が分からず、昨夜のことをなかったことに出来ないだろうかと思ったのではないでしょうか。しかしエリは、主なる神様がサムエルを選ばれ御声をかけたことを知っています。そしてサムエルが、言い出しにくそうにしていることも気づきました。そこで、エリから声をかけ神様から聞いた言葉はすべてそのまま語らなければならないと教えるのです。こうしてサムエルから主の言葉を聞いたエリは、「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように(Ⅰサムエル3:18)」と応答しました。こうしてエリは、サムエルが主の預言者として選ばれたことを認めるのです。そして神様ご自身もサムエルに語ったことを成就されました。「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった(Ⅰサムエル3:19)。」とあるとおりです。

 主なる神様は、今も私たち一人ひとりに語りかけてくださいます。その方法は、聖書の御言葉を通してです。ある人は、「私たちは『主よ、お話しください』ではなく、『主よ、私が話します。お願いしたことがあります。聞いてください』と言っていないだろうか」と言っています。私は、ハッとさせられました。皆さんはいかがでしょうか。私たちは、「主よ、お話しください。しもべは聞いています」と言うよりも「主よ。聞いてください。お願いがあります。」と祈っていることが多いのかもしれません。
 イエス様は、弟子たちや群衆たちに教えておられる時、「聞く耳のある者は聞きなさい(ルカ14:35等)」と言われました。黙示録では「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい(2:29等)」と勧められています。私たちは、聖書の御言葉を通して語りかけてくださる神様の御声を聞く心を持ちましょう。

 私たちが心を開き主の御声に耳を傾ける時、私たちは確かに神様の導きを受けることが出来るのです。イザヤは、次のように語りました。「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。・・・。あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く(イザヤ書30:18、21)。」私たちが、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」と祈り求める時、神様は喜んで私たちに御言葉を示し、語りかけ、教え導いてくださるのです。私たちは、神様に自分の祈りと願いを聞いてほしいと願いますし、神様に私たちの求めをかなえてほしいと願います。それと同じように、神様は、私たちが御言葉に耳を傾け、心を開いて聞き、心に留めることを願っておられるのです。
 私たちは、「主よ、お話しください。」と祈りつつ、御言葉に耳を傾けて歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、あなたは御言葉を通してご自身のことを教えてくださいます。そして神様は、今も私たちに語りかけてくださることを感謝いたします。私たちは、御言葉を通して神様の事を知りたいです。どうか教えてください。私たちは、『主よ、お話しください。しもべは聞きます』とのいう祈り心をもって神様の語る言葉を聞きます。神様、私たちが御言葉を聞き、しっかりと心に留めることが出来るように導いてください。
 今週も神様が一人ひとりに必要な御言葉を語りかけ、導いてくださることを信じます。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」