2025年3月9日(日)礼拝説教 サムエル記第一16章1-13節 「大切なのは心の思い」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 先週は、とっても寒い日があり雪が降りましたね。夜のうちに雨になり、雪遊びが出来なかったかもしれませんね。皆は、雪が降って「やった、雪だ!」と喜んだでしょうか。家の人は、「雪が降って困ったなぁ」と言う感じだったでしょうか。僕たちは、嬉しい気持ち、楽しい気持ちそして悲しい気持ちなどいろいろな気持ちになったりしますね。

 「さあ、皆さん、この人がイスラエルを治める王となったサウル王様です。」サムエルがみんなの前でサウルを紹介しました。「サウル王様、バンザイ!」イスラエルの国でみんな大喜びでした。でもサウル王様は、どんな王様だったでしょうか?「あなたは、なんてことをしたのです。神様のお言葉を守らず、神様の前に罪を犯してしまうとは。」サウル王様は、預言者サムエルによって語られた神様のお言葉を守ることが出来ずに、神様にごめんなさいも言うことが出来ませんでした。そこで神様は、サウルを王様から退かせて新しい王様を選ぶと言われたのです。これが先週までのお話でした。

 預言者サムエルは、サウル王様が神様のお言葉を守らず、従うことが出来なかったのでとても悲しい気持ちになりました。サムエルは、悲しくて、辛くて、泣きたい気持ちのまま何日も何日も過ごしていました。すると神様はそんなサムエルに声をかけました。「サムエル、あなたはどうして何日も悲しんでいるのか。もう悲しむのを終わりにする時がやってきました。わたしは、サウルに代わってイスラエルの国を治める新しい王様を選ぶことにしました。あなたはベツレヘムに行きなさい。そこに新しい王となる人がいます。」
 サムエルが答えます。「えっ神様、そんなことできません。サウルは、まだ王様としてこの国を治めています。そのサウル王が知ったら、私は捕まって殺されてしまいます。」神様は「大丈夫、ベツレヘムでいけにえを献げに来た」と言いなさい。サムエルの心は、ドキドキしていましたが、神様に言われた通りにベツレヘムに行きました。

 すると突然、預言者が来たものだからベツレヘムの人たちはびっくりです。「サムエル先生、突然来られてどうかしたのですか?」
 サムエルは「主にいけにえを献げるために来ました。」と言って、エッサイとエッサイの家族を招待しました。さてエッサイと子どもたちが集まった時、サムエルは長男のエリアブを見て「おーー!彼は、体格が良く王様に向いているようだなぁ。主に油注がれる人かもしれない」と思いました。けれども神様は、「サムエルよ、彼の外見を見て判断してはいけないよ。人は外見を見て判断するかもしれないけれど、主なる神であるわたしは、心を見るのだから」と教えてくださいました。こうして集められたエッサイの子どもたちが次々にサムエルに紹介されました。でも誰も王様としては選ばれていませんでした。

 「あの、エッサイさん、あなたの息子はこれで全員ですか?」とサムエルが聞きました。「いいえ、あと一人一番下の男の子がいますが、彼はまだ小さくて、羊を飼っています。」とエッサイが答えました。「それでは、一番下の息子を連れてきてください。」サムエルは、もう一人の息子を待つことにしました。
 「サムエル先生、一番下の息子ダビデです。」父エッサイがサムエルに紹介しました。その瞬間「さあ、彼に油を注ぎなさい。彼こそわたしが選んだ新しい王だ」神様がサムエルに教えてくれました。ダビデは、「血色がよく、目が美しく、姿も立派」であると言われています。これは、ダビデの外見を言っているのではなく、ダビデの立ち振る舞いに心の美しさが現れているということです。こうしてダビデは、預言者サムエルから油を注がれました。その時から、ダビデは主の霊に満たされ、徐々に王になる準備が始まっていきます。
 その一つのことが、サウル王様の前で竪琴を弾くということでした。サウル王様は、まだイスラエルの国を治めているのですが、神様から離れてしまった結果、心が不安定になりました。心が落ち着かないサウル王様の気持ちが安定するように竪琴の上手なダビデが呼ばれてサウル王様に仕えることとなったのです。

 サウル王様は、神様の言葉に従うことが出来ず、神様から離れてしまいました。ダビデは、神様の言葉を大切にし、心から神様を信じて歩んでいました。神様は、心から神様を信じ、心から神様を礼拝するダビデを喜んでくださいました。大切なことは、僕たちも神様を心から信じることです。今週の聖句を読みましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」サムエル記第一16章7節

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。サウル王様は神様のことばに従うことが出来ませんでした。しかしダビデは、神様を信じて従う人でした。神様は、ダビデの心をご覧になり、ダビデの信仰を喜ばれました。僕たちも神様を心から信じて、神様の言葉に聞き従うことが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」      サムエル記第一16章7節

<適用>
 私が通っていた中学校では、授業の一つとしてクラブ活動がありました。私は、中学3年生の時友だちと相談して新しいクラブ活動を作ってもらいました。私たちのクラスの担任がギターを弾くことが出来たのです。そこで、私たちはギタークラブを作ってくれるようにと担任に直談判しました。担任はあまり乗り気ではなかったのですが、私たちがしつこくお願いしたので、ギタークラブを作って担当者となってくれました。こうして私は、クラブのある日にはギターを学校に持っていき、クラブ以外でも昼休みなどに教室で友だちとギターを弾いていました。ある時、私がギターを弾いていると女子が後ろからやって来て、「なんだ、赤松君か」と残念そうに言うのです。そして「ギターを弾いている後ろ姿はいいね。」ですって。「人はうわべを見る」ということが本当だと知った出来事でした。これは、人が持っている判断基準の一つです。
 神様は、心を見ると言われました。神様の御前にあって、大切なのは心の思いです。

Ⅰ;信仰による前進

 「大切なのは心の思い」です。私たちは、信仰をもって主を見上げ従う心を持ちましょう。
 サムエルは、サウルのことで傷つき悲しみ、とても次のことを考える余裕はありません。「どんな道を主は備えてくださるのか」と、思い巡らす力もありませんでした。そんなサムエルを神様は力づけ、励まして、新しい王を見出したからベツレヘムのエッサイのところに行きなさいと言います(1)。この時のサムエルは、どのような反応をしているでしょうか。

 サムエルは「どうして私が行けるでしょうか。」と言い返しているのです。サムエルは、サウル王が聞いたら、きっと怒りだして自分は殺されてしまうだろうと考えました。私は、サムエルがすぐに行動に移せなかった理由が他にもあったのだと思うのです。神様は、初代イスラエルの王としてサウルに油を注ぐようにサムエルにお命じになりました。サムエルは、神様が選んだサウルに期待していたのです。そのサウルが、王としては失格となってしまったのです。サムエルは、この一連の出来事の中でとても傷つき悲しみました。サムエルにとっては、次の王と言っても、また同じことの繰り返しになるのではないかと思えてしかたありません。だからサムエルは、次の行動に出られないのです。
 イスラエルは、王が治める国となったのですから、サウルに代わる王が必要となることはサムエルだって十分承知しています。けれどもサウルは、まだイスラエルの王として治めているわけです。とても次の王なんて考えることは出来ないのです。サムエルは、ああでもない、こうでもない、考えつく言い訳は、後ろ向きなことばかりです。サムエルは、神様によって開かれた新しい道に目を向けることなど出来ませんでした。

 後ろ向きと言えば、私が牧師として具体的に献身を一歩踏みだすときのことを思い出します。私は、小学生の時から将来は牧師になることを考え、バイブルキャンプや教団の聖会の時の「献身を志す人は手をあげてください」という招きに答えて手をあげていました。そのように考えていた私でしたが、高校を卒業し、専門学校に進む中で気持ちが薄らいできた時期がありました。専門学校には新聞配達をしながら通いましたが、私は、専門学校を卒業した後もアルバイトとして新聞配達を続けました。私にとって新聞配達は、面白い楽しい仕事でした。またその生活は、配達以外の時間が自分の自由になるものですからとっても快適な状態でした。私の心の中には時々、「献身」、「牧師」という言葉が浮かんでくるのです。私はその度に「自分はまだ若いし、まだまだ自由に生活をしたいし、この気楽な生活を手放したくない」と神様に対して言い訳をしていました。神様は、折に触れて私の心に献身の思いを具体的に進めるように語りかけるのです。けれども私は、あと一年くらいはこのままでいいのではないかと神様の導きに否定的でした。そんな私に対して神様は、御言葉によって語りかけ、献身へと一歩を踏み出すようにと励まし、導いてくださいました。私たちは、物事が順調に進んでいるような時、その状況を手放したくないと考え、新しい道に対して否定的になることがあります。また、私たちは、逆境と思える辛い中にあっても、どうせ物事は何も変わらず、状況が良くなるはずないと否定的になるものです。

 サムエルは、とても悲しくつらい状況で否定的になりました。神様は、躊躇するサムエルに対して、より具体的な方法を告げました。サムエルにとっては、動かざるを得ない状況となっていきます。サムエルが優れた預言者であるのは、いつまでも悩んでいるのではなく、神様の確かな道が示されたならば、御言葉にすぐに従うところです。サムエルは、辛い中にあっても神様の導きに開かれた心を持ち続けていたのです。
 これはとても重要なことです。私たちも生きている中で様々な状況を通ります。それは当然、嬉しく楽しく心地よいことだけではなく、悲しく、辛く、不安になることもあるのです。そのような中で私たちは、自分の心の思いに目を向けることが必要となります。私たちは、信仰の目をもって主なる神様を見上げる心をもって歩むことが出来るでしょうか。私たちは、神様の導きに信頼して信仰を持って進んでいきましょう。大切なのは、神様の御言葉に対する私たちの心の思いの在り方です。主の御声に心の耳を開き、信仰をもって応答し前進していきましょう。

Ⅱ;心を豊に

「大切なのは心の思い」です。私たちは、神様によって心を豊かにさせていただき、感謝と情熱と期待をもって従いましょう。
 サムエルは、神様の言葉に従ってベツレヘムに行きました。町の長老たちは預言者サムエルが来たことに驚きます。長老たちは、町の中で何か問題が発生したのか、誰かが罪を犯してしまったのだろうかと考えたのです。サムエルは平和なことで来たことを告げ、長老たちとエッサイの家族をいけにえをささげるために招きました。

 サムエルは、エリアブを見た時、この人だと思います。けれども違いました。サムエルの基準が神様のお考えとちょっとずれていたのです。神様が選ぶ基準は、心です。「人はうわべを見るが、主は心を見る」のです。集められたエッサイの子どもたちは7人とも神様に選ばれていませんでした。サムエルがエッサイに確認すると、もうひとり末の子どもダビデがいると分かりました。ダビデはサムエルのもとに集まる人数に入っていませんでした。誰もダビデのことは気にかけなかったことでしょう。けれども家族が考えていなかったダビデが、神様に選ばれていたのです。12節ではダビデの容姿ついて「彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。」と書かれているので、やっぱり見た目かと思うかもしれません。けれどもダビデという人物がどのような信仰者であるのかは、ダビデの生き方を通して知ることが出来ます。ダビデは神様に対して忠実でした。ダビデはいつも神様に心を向けて歩んでいた人でした。彼は、大きな罪を犯しましたが、すぐに悔い改めるという開かれた素直な信仰を持っていたのです。だから心を見られる神様に選ばれたのです。
  「心を見られる」神様の基準は今も変わっていません。神様は私たちの心をご覧になっています。人はうわべを見ます。だから私たちは周りからどのように見られているのかを気にします。そして少しでも良く見られようとして自分を偽ることもあるかもしれません。神様は、私たちの心の状態を見られます。神様は、私たちの心が神様に向いているのか、開かれた心を持ち、素直な心であるのか、私たちの心の内側を問題とされるのです。

 私は、昨年ある男性アーティストのライブに行く機会が与えられました。私は、中学・高校と彼の曲でギターを練習しました。高校時代に音楽部に所属していた私は、文化祭の発表の時に彼の曲を弾き語りで歌っていました。彼の曲を弾き始めて実に40年にして初めてのライブでしたので、私はワクワクしながら始まるのを待ちました。ライブは午後7時に始まる予定なのですが、6時45分くらいから会場の雰囲気が変わりました。会場の至る所で、男性アーティストの名前を叫ぶ人が現れました。その人数は徐々に増えて行き、7時を超えると会場全体が拳を振り上げ、手を叩きながら名前を叫び続けます。ライブが始まったのは7時15分頃なので約30分間ひたすら名前を呼び続ける会場でした。
 私は、その会場の雰囲気を見つめながら、どうして皆、こんなに興奮し、熱くなっているのだろうかと考えました。会場の人たちが名前を叫び続けるのは、早く姿を現して歌ってほしい、その歌声を聞きたい、一緒に歌い叫びたいという思いからでした。そして彼らは、男性アーティストの歌に感動し、勇気をもらい、力をもらうから、力の限り叫ぶのだと気づいたのです。そういう風に冷静に見ている人はあまりいないと思いますが、私は、会場の光景を見ながら次に、クリスチャンである私は、神様に対してこれほどの熱い思い、期待、情熱を持っているのだろうかと考えさせられました。その会場の人たちは、アーティストの歌を通して力を、勇気を、感動をもらっているので彼の名前を叫び、一緒に歌うのです。

 神様は、それ以上のお方です。神様は、私たちを愛しておられ、私たちのために御子イエス様を与えてくださったお方です。イエス様は、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えるために、私たちの罪を背負い十字架にかかり死んでくださり、よみがえってくださったお方です。そして神様は、私たちの人生を共に歩み、導き、祝福し、平安を与えてくださるのです。これほど素晴らしい神様の御前に私たちは、どのような心で進み出ることが出来るのでしょうか。私たちは、教会に集まり、礼拝前に「神様!イエス様!」と叫ぶことはしません。しなくても良いと思いますが、私たちの心の内側の思いはどうなのでしょうか。私たちの心は、「神様を礼拝できる」という喜びがあるのでしょうか。私たちの心の内には、神様を賛美し、御言葉を聞き主の前に出られるという神様への感謝と喜びと情熱がどれほどあるでしょうか。

 それは日曜の礼拝だけにとどまりません。神様は、日曜日だけ私たちの神様なのではありません。神様は、日曜日から土曜日までの一週間、私たちと共にいてくださいます。神様は、一年365日私たちの神様であり、私たちの一生をご自身の愛で満たし、祝福と恵みと憐れみで溢れさせてくださるのです。ですから私たちは、心の底から「神様!イエス様!」と感謝と喜びの賛美をささげ、神様がしてくださる一つひとつのことに期待と情熱をもって信頼していきましょう。そのためにも私たちは、神様によって私たち自身の心を豊かにしていただきましょう。心を見られる神様は、私たちの心の内側の思いを見ておられます。大切なのは心の思いです。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様によって生かされ、恵みのうちに歩ませていただきありがとうございます。私たちを神様への礼拝へと招いてくださってありがとうございます。
 神様は、心の内なる思いをご覧になります。神様、私たちは心からあなたを信じ、従います。そして私たちは、心から喜びと感謝と期待と情熱をもって主なる神様を見上げ、礼拝します。神様、私たちの心を祝福で満たし、さらに豊かにしてくださいますようにとお願いします。
 神様、今週の11日で東日本大震災から14年が経ちます。被害を受けた方々お一人お一人を続いて導いてください。大船渡では、山林火災があり、大きな被害が出ています。神様の憐れみを注いでください。能登半島地震、豪雨で被災された方々の上に神様の恵みを注いでください。日本では年々、自然災害が多くなっているように感じます。神様、私たちを憐れみ、守りの御手を差し伸べてください。世界の国々のリーダーたちが、神様に心を向け政治を行うことが出来るように御手を差し伸べてください。世界中が神様の平和で満たされますようにとお願いします。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」