2025年4月20日(日)イースター礼拝説教 ヨハネの福音書20章1-18節 「復活の主との出会い」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 「イースターおめでとうございます。」今日は、イエス様の復活を喜び感謝するイースターです。どうしてイースターはおめでたいことなのでしょうか。ゆで卵が配られるからでしょうか。何かをもらえることは嬉しいことだけれども、ゆで卵がもらえるからイースターが喜びの日なのではありません。この日、イエス様がよみがえってくださったから、喜びの日なのです。

 イエス様は、ゴルゴタと呼ばれる場所で十字架に釘付けにされました。イエス様は、両手と両足を釘づけにされ苦しみの中でも「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです(ルカ23:34)」と祈ってくださいました。こうしてイエス様は、僕たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったのですね。イエス様が息を引き取られた後、イエス様の体は布にくるまれてお墓に埋葬され、お墓の入り口には大きな石でふたがされました。マグダラのマリアたち数人の女性たちがその様子をじっと見ていました。そして「今日は、急いで埋葬しなければならなかったけれど、安息日が終わったらしっかりと香油を塗ってさしあげましょう。」と話し合っていました。

 安息日が終わって週の初めの日(日曜日)の朝早く「さあ、イエス様に香油を塗るためにお墓に行きましょう。」マグダラのマリアが言いました。数人の女性たちがまだ暗いうちに家を出発しました。でもイエス様のお墓はどうなっていましたっけ?そう、大きな石が転がされふたがされたのです。歩きながら一人が言いました。「イエス様のお墓には大きな石が転がされて、ふたがされましたよね。あの石を私たちだけで動かせるかしら」。「力を合わせればなんとかなるかもしれないわ。きっと大丈夫よ。」そんなことを話しがらお墓にいそぎます。すると「ガラガラ、ゴーゴー」大きな地震が起こりました(マタイ28:2)。「大変、お墓が心配だわ、急ぎましょう。」彼女たちは走っていきました。「あっ!!」びっくりです。「お墓の石がどかしてある。なんてことでしょう。イエス様のお体が見当たらない。なくなってしまった。」女性たちは驚き慌てて、弟子たちの所に向かいました。
 「ペテロさん、ヨハネさん、大変です。今イエス様のお墓に行ってきたのだけれど、お墓の石がどかされていて、イエス様のお体が見当たらないのです。誰かがイエス様のお体を盗んでしまったのでしょうか。」
 「えっ、なんだって!」ペテロとヨハネがお墓に走り出しました。ヨハネが先にお墓につきましたが、入り口で立ち止まってしまいました。その後からペテロが到着して「イエス様」と、そのままの勢いでお墓の中に入っていきました。確かにイエス様のお体はありません。そこには、イエス様のお体を巻いていた布がそのままの状態で置かれていただけです。「イエス様は、本当によみがえられたのだろうか」ペテロもヨハネも不思議に思いながら家に帰りました。

 マグダラのマリアたちは、お墓の入り口に座り込んで泣き続けています。するとお墓の中に御使いが現れて「どうして泣いているのですか」と聞きました。マリアは「イエス様の体がないのです。誰かが盗んでしまったのでしょうか。」泣きながら答えます。今度はマリアの後ろに誰かが立って「なぜ泣いているのですか」と質問します。マリアは、「あなたがイエス様の体をもっていったのならどこにあるのですか。私が引き取りますから教えてください」と頼みました。
 するとその人は「マリア」と名前を呼びました。そう、彼女の後ろに立っていたのはよみがえったイエス様だったのです。マリアは、自分の名前を呼ぶ声がイエス様の声だと分かった瞬間嬉しくなって「あー、イエス様。生きておられるのですね。」とイエス様の足にしがみつきました。イエス様は、マリアに弟子たちの所に行って、イエス様がよみがえったことを伝えるように命じました。
 皆さん、イエス様は確かに十字架で死なれました。けれどもイエス様は、確かによみがえったのです。イエス様は、今も生きていて僕たちの名前を呼んでおられます。そして僕たちを力づけてくださいます。それだけではなく、イエス様を信じる全ての人の罪を赦し、永遠のいのちを約束してくださるのです。イエス様を信じましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、僕たちのために十字架にかかってくださり死なれ葬られました。けれどもイエス様は、僕たちの罪が赦され、永遠のいのちを約束するためによみがえられました。そして今もイエス様は、僕たちの名前を呼んで力づけてくださることを心から感謝します。僕たちは復活されたイエス様を信じます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」         ルカの福音書24章5-6節

<適用>
 「不老不死」は、人類にとって永遠のテーマかもしれません。私たちは、「長寿」とか「永遠」という言葉に心が惹かれることがあるものです。昨年4月に天に召された星野富弘さんは、草花の絵を描きそれに合わせて詩を書いていました。富弘さんの絵と詩は、「生きること」や「いのち」がテーマになっているものがたくさんあります。その言葉に私たちは、共感し、慰められ、生きていこうと勇気が与えられたりします。
 「イチヤクソウ」の絵に描かれている詩は「痛みを感じるのは生きているから 悩みがあるのは生きているから 傷つくのは生きているから 私は今かなり生きているぞ」というものです。富弘さんは、喜びや楽しみだけではなく、痛みも悩みなど全ての感覚が生きている証しだと言っているようです。
 私たちは、生きています。イエス様も生きておられます。今日は、ヨハネの福音書20章を開きました。イエス様の十字架と復活は、私たちの信じる福音の中心テーマです。イエス様は生きていますから、私たちは、復活の主イエス様との出会いを経験することが出来ます。この事実に心を向け、信仰をもって受け止めていきましょう。

Ⅰ;死を打ち破ってよみがえられた主との出会い

 イエス様は、死を打ち破ってよみがえられ生きておられます。私たちは、死を打ち破ったイエス様との出会いを経験することが出来ます。しかしそれは、実際に目に見える形での出会いではありません。今、私たちは、信仰によってイエス様の復活の事実を信じ受け入れることによって復活のイエス様と出会うのです。
 イエス様の十字架は、私たちの罪のためでした。イエス様は、私たちのために鞭打たれ、ゴルゴタの丘で十字架に釘付けにされ、息を引き取りました。「罪からくる報酬は死です(ローマ3:23)」とあるように、イエス様は罪人として神様に裁かれ、死なれたのです。イエス様は、十字架の上で完全に息を引き取られました。その事実は、ローマ兵が確認しています。ヨハネ19章33~34節「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。」このような現象は、極度の緊張の中で死を迎えた時の医学的な状況だと言われています。イエス様は、私たちの罪を背負い、神様の裁きを受けて死なれたのです。

 イエス様が息を引き取った後、イエス様を埋葬したのは、イエス様に好意を持っていたけれどもそれを公表していなかった議員のアリマタヤのヨセフとニコデモでした。アリマタヤのヨセフは、ピラトに直談判をして許可を得て、取り急ぎイエス様を葬ります。
 ゴルゴタの丘の近くに「園(お墓)」があったので誰も葬られたことのないお墓に埋葬したのです(19:41)。当時のお墓は、岩を掘って作るものです。ヨセフとニコデモは、誰も葬られていないお墓にイエス様を埋葬しました。何人かの女性たちは、イエス様の葬られる様子を最後まで見届けていました。それは、彼女たちの手でイエス様の埋葬を完全な形にするためです。お墓の入り口には、大きな石を転がしてふたをしました。この時、墓の石には封印がされ、ローマの番兵がつくという厳重警戒がなされました(マタイ27:56-66)。

 その晩、弟子たちや十字架を間近に見ていた女性たちは、言いようもない悲しみに打ちのめされていたのです。彼らにとっては、救い主として従ってきたイエス様が十字架にかけられ、死んでしまったのですから、当然絶望したでしょう。けれどもこのイエス様の十字架、死と言う流れの中にあってこそ神様の救いのご計画は進んでいたのです。イエス様が葬られたあと何が起こったでしょうか。
 週の初めの日の朝、誰もが驚くようなことが起きました。先ほど見た通りです。み使いは言いました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです(ルカ24:5-6)。」イエス様は、聖書が示すとおりによみがえられたのです。もし誰かがイエス様の体を盗むとしたら、布に包んだまま持っていくはずです。またイエス様の体だけを持っていくとなれば、布がほどかれ散らかっているはずなのです。けれどもイエス様の体にまかれていた布は置いてあり、頭に巻かれた布はそのまま頭の位置にあったのです。これは、イエス様が、布だけを残してよみがえった証拠です。

 ここが大切です。もしイエス様が死んで終わりならどうなるでしょうか。「罪から来る報酬は死です。」とあるように、人は罪の裁きである死を迎えるだけで、人にとって死が最後だということになります。そこには、私たちの救いも希望もないのです。しかしイエス様は、死を打ち破り復活したのです。しかもイエス様は永遠に続く命をもって復活し、今も生きておられます。ということは、私たちは、死が終わりではなく、イエス様によって復活の希望、永遠の命の希望、約束が与えられているということなのです。ここに私たちの希望と救いがあります。
 今、信仰をもってこの事実を受け止め、復活の主イエス様と出会わせていただきましょう。

Ⅱ;暗やみを打ち破ってよみがえられた主との出会い

 イエス様は、暗やみを打ち破ってよみがえり生きておられます。私たちは、力強いイエス様との出会いによって導かれて歩むことが出来ます。
 確かにイエス様は、苦しみを受け、死なれました。そして葬られました。岩で掘られた墓には、大きな石を転がして完全にふさがれていました。そこは、とても寂しく、真っ暗で、冷たく、誰も入れない場所です。まさにこの世から隔離された場所です。
 イエス様は、人々が暗く、寂しく、絶望しかないと思う墓に葬られました。「お墓」と言うと日本人は、何か暗いイメージを持ちます。今でこそ、「墓地」だけではなく「霊園」と言う名前を付けますが、それほど頻繁には行かないものです。なぜなら、「お墓」「墓地」と言うことばは、人の「死」、「暗やみ」を連想させるからではないでしょうか。誰も、「死」とか「お墓」という言葉に何か希望を見出すことはありません。

 けれどもイエス様は、その暗やみ、絶望に縛られることはありませんでした。三日目の朝、イエス様は、女性たちが墓に付く前にすでに復活しておられたのです。弟子たちは、イエス様の復活の現場の目撃者ではなく、空の墓の目撃者となったのです。弟子たちは、「イエス様がよみがえられた」と言う事実に喜びを爆発させても良い所です。しかし彼らは、困惑しこの事態をどのように受け止めたら良いのか分からなかったのです。ヨハネ20章8節には「そして、見て、信じた。」とありますが、9節では「まだ理解していなかった」と言われています。それは、当然です。人がよみがえるなどどうしてすぐに信じることが出来るでしょうか。弟子たちがハッキリとイエス様の十字架と死、復活を理解し、信じたのは聖霊が与えられるペンテコステの時です。やはり弟子たちの心は、暗く、打ち沈んだままだったのです。
 しかしイエス様の復活はその暗やみを打ち破る力です。イエス様は、暗やみに支配されるお方ではありません。イエス様は、人を絶望に突き落とす悪魔の力に打ち負かされることはないのです。復活のイエス様に最初に出会ったのはマグダラのマリアでした。彼女は、空の墓の前で悲しみのあまり泣き崩れていました。マリアは、イエス様は死んでしまった。そしてお墓にあるはずのイエス様の体がないという絶望的な状況に打ちのめされていたのです。そこにイエス様が現れたのです。目の前の人がイエス様だと分かった瞬間のマリアの気持ちを想像することが出来るでしょうか。彼女の心は、悲しみが喜びに、絶望が希望に、暗闇が永遠のいのちに輝くのです。

 私たちもマリアと同じように闇を打ち破られたイエス様との出会いを与えられています。なぜならイエス様は、今も生きていて私たちの人生を導いておられるからです。私たちは、人生と言う旅路を進みます。この人生と言うのは、いつも明るく、のびのびと進む道だけではありません。時には、暗く、先の見えないトンネルの中を通るような時があります。一人、孤独に、押しつぶされそうになる時があります。希望のない、暗やみの人生と感じる時があります。イエス様は、そのような中にあって、その暗やみを打ち破り、希望を与え、新しい命に輝かせてくださるのです。私たちの救い主イエス様は、私たちの心にも、暗やみの代わりに光輝く栄光を与え、希望を与えてくださるのです。その瞬間私たちは、復活の主イエス様との出会いを経験するのです。皆さんの日々の歩みが、救い主イエス様との出会いの連続でありますようにと祈ります。
 そして私たちは、イエス様の復活の証人として救いの恵みを証ししていきましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、死を打ち破り、暗やみを打ち破りよみがえられました。それは、私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えるためです。私たちは、よみがえり今も生きておられるイエス様と出会い、イエス様と共に歩めることを信じます。私たちはイエス様から、喜び、希望、光輝く日々が与えられることを信じます。
 一人でも多くの人がイエス様の救いを受け取ることが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」