<子どもたちへ>
今日は、少し早いのですが、両親への感謝をあらわす礼拝としています。神様が両親を与えてくださったことを感謝し、そして親に「ありがとう」と伝えましょう。
さて、皆は、「あ~ぁ、今日は何もすることはないなぁ。暇だな~」と思ってしまう時ってありませんか。そんな時は、どうしていますか?
イエス様の弟子たちは、何をしたらよいのか分からなくなってしまった時期がありました。それは、イエス様が復活されてからのことでした。イエス様は、復活してから毎日のようにお姿を現すわけではなかったのです。弟子たちは、イエス様から言われた通りガリラヤに戻っていましたが、何をしていいのか分からなかったのです。
「私は、漁に行こうと思う。」とペテロが言いました。ペテロは、もともと魚を獲る漁師ですから、何もしないよりは、舟に乗って漁にいくほうが気がまぎれると考えたのでしょう。すると一緒にいたほかの6人の弟子たちも「じゃあ、一緒に行こう!」と船に乗り込みました。
「ペテロ、お前は漁師だよね。魚がどこにいるのか、大体分かるだろう。漁師のペテロの言う通りにしているけれど、全く魚が獲れないじゃないか。」トマスが言います。「もう朝になっちゃうね。一晩中、何も獲れなかったね。あ~疲れた」ナタナエルも言いました。その晩は、何も獲れなかったのです。
夜が明けかけた時、陸地の方から「おーい、何も獲れなかったのですか。」誰かが声をかけました。イエス様だったのだけれど、弟子たちはイエス様の声に気づきません。「そうなのです。何も獲れませんでした。」弟子たちが答えました。すると岸に立っている人が「じゃあ、舟の右側に網を打ってみたらどうでしょうか。そうすれば獲れますよ。」と言ってくれました。それを聞いた弟子たちは、「舟の右側でも左側でも俺たちは一晩中網を打っていたけれど何も獲れなかったんだ。」そんな思いもあったでしょう。けれども彼らは、言われた通り、舟の右側に網を打ってみました。するとどうでしょうか。今まで何も獲れなかったはずなのに、たくさんの魚が網に入っているのです。
弟子のヨハネが「主イエス様だ」と叫びました。弟子たちは同じような出来事を以前にも経験しています。ペテロやヨハネがイエス様の弟子となる時のことでした。あの時も彼らは、イエス様の言われた通り網を打ったら魚がたくさん獲れたのです。ペテロも思い出しました。そこでペテロは「イエス様だ」と言う声を聞いて、服を着て湖に飛び込んでイエス様のもとに泳いでいきました。他の弟子たちは、舟を操作して陸地に戻って来ました。
イエス様は、朝食を用意して待っていてくださいました。イエス様と弟子たちは、一緒の食事をとりました。その後イエス様は、ペテロに「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」と質問しました。これまでのペテロなら、「もちろんですよ。誰よりもイエス様を愛しています」と答えたことでしょう。けれどもこの時のペテロは、自信をもってイエス様を愛しているとは言えませんでした。だって、イエス様が捕まった時に「イエスなんか知らない」と3回もイエス様を裏切ってしまったからです。だからペテロは、「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」と答える事しか出来ませんでした。イエス様は、3回同じ質問をしました。ペテロは3度目の質問の時にドッキとしました。ペテロは3回とも同じ答えをします。イエス様はペテロを注意して叱るために3回質問したのではありません。イエス様は、「あんなやつ知らない」と3回言ってしまったペテロがイエス様の愛を受け取って立ち直れるようにしてくださったのです。
イエス様は、ペテロに新しい使命を与えました。それは、イエス様を信じる人たちを導くことでした。そしてイエス様に従う事でした。ペテロは、イエス様の愛を受けてイエス様に従う者へと変えられていきます。
イエス様は、僕たちにも声をかけて導いてくださいます。そしてイエス様は、僕たちがイエス様の声に聞き従うことを願っておらます。イエス様は、僕たちがイエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様に従うことを喜んでくださいます。イエス様の言葉を心に留めて従いましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペテロは、イエス様の愛を受けて立ち直り、イエス様に従う者へと変えられました。イエス様は、僕たちも愛してくださることをありがとうございます。僕たちは、イエス様を愛し、信じ、従います。どうか導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「あなたは、わたしに従いなさい。」 ヨハネの福音書21章22節
<適用>
今日の礼拝は、5月の「母の日」と6月の「父の日」を覚えて、神様が私たちに両親を与えてくださったことを心に留め感謝をする日としています。私たちは、両親への感謝を表しましょう。親である皆さん、いつもお疲れ様です。皆さんの家庭が神様の祝福に溢れるものとなりますようにと祈ります。
私たちは、親の愛情を受けて育てられました。子どもは、親の言葉や態度によって愛情を受け取り、その姿を模範として成長するものです。だから子どもの成長を見守っていると、そこは真似をしなくても良いのにと思うこともあります。親も子もお互いの姿を通していろいろなことを学びながら家族として成長していきます。
私たちは、神様の愛を受けて、神様の御言葉に教えられながら歩みます。その歩みは、私たちの人生を豊かにしていくものとなります。私たちは、引き続き信仰をもって、主の愛と使命に生きる者として歩みましょう。
Ⅰ;側に立つイエス様
ペテロは、常に側に立っていてくださるイエス様の愛を受けて、イエス様の愛に答えて生きる者へと変えられました。
イエス様の復活の後、弟子たちはエルサレムでイエス様にお会いしました。その再会は、素晴らしい時となったことでしょう。しかしイエス様は、十字架の直前に、「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます(マタイ26:32)」と言われました。弟子たちは、この時のイエス様の言葉に従って、ガリラヤに戻っていました。ヨハネ21章1節の「テベリヤ湖畔」とは、ガリラヤ湖のことです。
ガリラヤ湖に戻って来た弟子たちですが、当面何もすることがありません。ペテロたちの出来ることと言えば湖に出て漁をする事です。こうしてペテロは、仲間の弟子たちと一緒に漁に出かけました。 漁に出た弟子たちは、一晩中考えられるポイントで網を投げ続けましたが、何も捕れませんでした。弟子たちの疲れは、明け方頃にピークに達していました。その時岸から「舟の右に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」というアドバイスがありました。その声の主が誰であるかは分かりません。恐らく朝靄の中ではっきりとは見えなかったのでしょう。彼らは、疲れた体にもう一度力を振り絞って、言われるままに網を打ちました。すると、想像を超える大漁となりました。ヨハネは、目を凝らして岸辺を見つめながら、同時に自分の記憶をたどり、これと同じような奇跡を経験したことがあると思い至ります(ルカ5:3-)。漁師であったペテロやヨハネたちがイエス様の弟子として従うようになった時にも、ガリラヤ湖で大漁の奇跡が行われました。そこでヨハネは、岸辺に立っているのがイエス様だと認め「主だ。」と叫んだのです。
ペテロは、「主です」と聞いて、漁のことはほかの仲間に任せ、上着を着て湖に飛び込みました。少しでも早くイエス様のもとに行くためです。ペテロは、イエス様の復活を誰よりも喜び、イエス様の近くにいたいと願っていたと思います。ペテロが、イエス様を知らないと3回も否定したのは、つい最近のことです。ペテロは、誰よりもイエス様の赦しを必要としていたのです。ペテロは、その罪の思い、イエス様に対して申し訳ないという悔いた心をずっと持っていたのです。だからペテロは、イエス様の側に急ぎ、イエス様に受け入れられていることを実感したかったのだと思います。この時イエス様は、朝食を用意して待っておられました。それは、弟子たちと食事の交わりという特別な時間を持つためです。この時間は、この時の弟子たちにとって最も必要な時間でした。
イエス様は、岸辺に立たれました。その時の弟子たちは、イエス様がいないという喪失感に支配されていました。そして漁をしても何も獲れないという疲労感、何をしてもうまくいかないという無気力感があったのではないでしょうか。それに加えてペテロには、イエス様を裏切ってしまったという自責の念がありました。イエス様は、そのような彼らの傍ら(岸辺)に立って声をかけてくださったのです。彼らは、特にペテロは側に立ってくださるイエス様の愛を受けて立ち上がることが出来るようになります。
イエス様は、今も私たちの側に立っていてくださいます。私たちが弱く、力なく、うなだれる時、私たちが罪によって心が責められる時、そして私たちの人生で助けを必要とする時、イエス様は私たちの側に立ち声をかけ愛の眼差しを向けてくださいます。その時、私たちはイエス様の愛を受けて一歩を踏み出すことが出来ます。
Ⅱ;使命を与えるイエス様
ペテロは、イエス様からの愛を受け、同時に使命が与えられイエス様に従う者へと変えられました。
イエス様は、ペテロがどれほど傷つき、落胆しているのかを知っておられました。ペテロにとって(他の弟子たちも)イエス様の復活は、喜びの出来事でありつつも、何か実感の沸かない雲をつかむような出来事だったのではないでしょうか。それに加えてペテロには、イエス様を裏切ってしまったという後ろめたさ、罪を犯したという思いがあるのです。この時イエス様は、ペテロのために現れてくださったと言ってもよいでしょう。復活の一週間後エルサレムでイエス様は、トマスのためにお姿を現されました(ヨハネ20:26~)。今回イエス様は、ペテロのために来てくださいました。なぜなら、朝食の後イエス様は、ペテロに個人的に声をかけているからです。イエス様は、ペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と質問されました。ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えます。これがペテロの精一杯の答えでした。ペテロの心は、とても複雑でした。彼は、「もちろん、あなたを愛しています。」と言いたいのです。けれども彼は、イエス様を裏切った事実があるので、「ほかの誰よりも」と堂々と答えることが出来ませんでした。イエス様は、ペテロに対して3度同じ質問をされました。ペテロにとっては嫌な回数です。嫌でも自分の失敗を思い出すからです。
この時イエス様は、2度目までは「アガパオー」と言う言葉を使っています。これは、神様の持っておられる真実の愛と言う意味があります。それに対してペテロは、「フィレオー」と言う言葉を使います。これには、「友愛」とか「兄弟愛」と言う意味があります。イエス様は、真実の愛、神の愛をもって愛しているかと質問したのです。しかしペテロは、アガペーの愛で答えることは出来ませんでした。3度目にイエス様は、「フィレオー」を使って質問しました。これは、イエス様がペテロの心に寄り添って、ペテロの今持っている愛の心を受け止めて下さったと言う事でしょうか。ここで使われている言葉が「アガペー」なのか「フィレオー」なのかこだわる必要はないのかもしれませんが、イエス様は、ペテロの心に寄り添って下さったのです。
ペテロは3回とも「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と同じ答えをしました。この言葉は、今のペテロが出来る最大限の応答です。イエス様は、3度イエス様を知らないと言ったペテロに、3度イエス様を愛していると告白させることで、ペテロの心を癒し、その信仰を回復させておられるのです。イエス様は、ペテロの答えを受け止めてくださいました。だから「わたしの小羊を飼いなさい」とか「わたしの羊を牧しなさい」と言われたのです。そして「わたしに従いなさい」とお命じになりました。これは、ペテロがイエス様を信じて、イエス様からの新しい使命に生きるようになるという事です。イエス様は、ペテロの生涯に触れながら「あなたはわたしに従いなさい」と求めたのです。
この時ペテロの性格が顔を出しました。ペテロは、「あなたは従いなさい」と言われ、「主よ。この人はどうですか」と言ってしまいました。ついさっき「この人たち以上に」と言われた時、自分は他人と比較など出来ないと思ったペテロです。しかしペテロは、「イエス様、この人には何と言われるのですか」急に後ろにいる他の弟子が気になりました。そんなペテロに対してイエス様は、「ペテロ、あなたは他の人と比較することをやめて、あなたはあなたとしてわたしに従いなさい」とお命じになるのです。ペテロにはペテロに対する神様の計画があり、他の人にはその人に対する神様の計画があるのです。大切なことは、一人ひとりが、自分とイエス様という関係の中でイエス様に従う事なのです。こうしてペテロは、イエス様による罪の赦しを受け、悔い改めて信仰をもってイエス様の愛と使命に生きる新しい人生をスタートすることが出来るようになりました。
イエス様は、私たち一人ひとりにもペテロと同じように「あなたはわたしに従いなさい」と求めておられます。私たちもペテロと同じような弱さを持っています。私たちは、信仰をもって歩んでいてもそれほど強くないし、心がくじけやすい者です。主を見上げて歩んでいきたいと願っていても、躓いたり、よろめいたりする者です。また私たちは、イエス様中心で物事を見るよりも、自分中心、自分の欲や願いを中心に考えやすい者です。そして私たちは、他の人と比較して、自分にはあの人のようには出来ないと思うことがあるでしょうか。また時には、自分はあの人よりも出来ることがあると優越感を持つこともないわけではありません。私たちは、イエス様を信じる信仰を告白することについても、周囲の人たちの目を気にしてしまうという事があるでしょう。そんな私たちにイエス様は、「あなたは、あなたとしてどのように答えますか?」と問いかけているのではないでしょうか。
イエス様は、私たちを愛してくださり、私たちの罪が赦され救いを受け、私たちが永遠の命を得られるようにと命を捨てるほどに私たちを愛してくださっています。私たちは、イエス様が命を捨てるほどに愛されています。私たちは、イエス様の愛にどのように答えるでしょうか。
イエス様は「あなたは」と言っておられます。イエス様は、ペテロの言葉、ペテロの心の思いを聞いてくださいました。イエス様は、他の誰でもない、あなたの言葉、あなたの信仰の告白を聞きたいのです。「あたなは、わたしに従いなさい」と言うイエス様の言葉への答えは、「はい、従います」であり、「はい、イエス様を信じます」であり、「はい、イエス様の愛を感謝してイエス様を愛します」というものではないでしょうか。あなたは、あなたとしてイエス様の愛と使命に生きる信仰の応答をしましょう。そうして私たちは、日々、イエス様に応答する者として歩ませていただきましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、弟子たちが助けを必要としていた時に、弟子たちの側に立ってくださいました。イエス様は、今も私たちの傍らに立ってくださり、声をかけてくださることを感謝いたします。私たちは、イエス様に愛されている事、イエス様の御手に支えられていることを信じます。
イエス様は、「あなたは、わたしに従いなさい」と声をかけてくださっています。私たちは、イエス様の御声に信仰をもって応答し従って歩みます。イエス様、どうか私たちの信仰を引き上げ、導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」