2025年7月20日(日)礼拝説教 使徒の働き10章1-23節 「異邦人への宣教」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 僕は小学生の時、とても不思議な夢を見ました。それは、目の前にとても美味しそうなご飯が広がっている夢でした。僕は、「わー美味しそう。いただきま~す。」と言って食べようとするのだけれど、「起きなさい」という声で目が覚めるのです。目が覚めた僕は、「あ~夢か。食べたかなったなぁ。よーしもう一度見よう」と決心をします。僕は、その日夜寝る前に、同じ夢を見ようと思いながら寝ました。すると同じ夢を見る事が出来たのです。いざ食べようとすると「起きなさい」の一言で目が覚めちゃって食べられなかったのです。この夢には、特に意味はなかったと思います。でもペテロは、動物が出て来る夢を見ました。ペテロが見た夢には、大切な神様からのメッセージが込められていました。

 ペテロの夢を見る前に、神様がローマ軍の百人隊長コルネリウスに声をかけたことをみましょう。コルネリウスは、ローマ人でしたけれど、まことの神様を信じる信仰をもってお祈りし御言葉の教えに従って生きていました。ある時御使いが、幻の中(夢の中)でコルネリウスに話しかけます。「コルネリウス、あなたの信仰は神様に覚えられています。あなたは、神様にお祈りしていて、神様の言葉に従って善い行いをしています。今、ペテロと呼ばれているシモンを家に招待しなさい。彼は今ヤッファの皮なめし職人シモンの家にいます。」コルネリウスは、「不思議な幻だった。けれども神様が言われた通りペテロと言う人を招待しよう。」と考えて、信頼しているしもべたちを派遣しました。

 一方ペテロは、どうしているのでしょうか。ペテロは、御使いが言ったように皮なめし職人シモンの家に泊まっていました。ペテロは、12時のお祈りの時間に、屋上に上がってお祈りをしていました。家では、お昼の準備が進んでいます。ペテロがお祈りしていた屋上では、お料理の匂いがしていたでしょうね。「あ~お腹すいたなぁ。もう少しでお昼だな、それまでお祈りしていよう。」ペテロは空腹を我慢してお祈りを続けます。そのうちにペテロは、うとうとし始め夢をみます。天から大きな布がつるされてきました。その布の中にはたくさんの動物が載せられていました。神様が「ペテロ、さあ、料理をしてたべなさい。」と言います。これに対してペテロは、「いいえ、神様それは出来ません。この中には、ユダヤ人である私が食べてはいけない汚れた動物が混じっています。」と答えました。ユダヤ人たちは、旧約聖書にあるように、食べてはいけないと言われている動物を決して食べません。ペテロも当然ユダヤ人としてそれを守っているのです。神様が言いました。「わたし(神様)が食べよいときよめたものを、きよくないと言ってはいけない」神様とペテロは、このようなやり取りを3回繰り返しました。そして布は天に引き上げられていきました。
 ここでペテロは目が覚め、「不思議な夢だったなぁ。今の夢にはどのような意味があるのだろうか?神様教えてください」と祈り求めます。その時です。ペテロのいた家に「すみません。こちらにペテロと呼ばれているシモンと言う方はいらっしゃいませんか?」と尋ねて来た人たちがいます。聖霊様がペテロに「今、3人のお客さんが来ています。この3人を遣わしたのはわたし(神様)です。彼らが異邦人だとか言って警戒することなく、一緒に出掛けて行きなさい。」と言いました。ペテロは、言われた通り下に降りて行って、3人を迎え入れました。3人は、「自分たちは、ローマの百人隊長コルネリウスにお仕えしている者です。コルネリウスがあなた様を招くようにと御使いの言葉を受けたのです。」と説明しました。

 ペテロは、次の日にこの3人と一緒にコルネリウスの家に向けて出発しました。ペテロは、自分が見た夢が「きよいとかきよくないとか区別をすることを止めなさい。という神様からのメッセージであると分かったのです。そして神様が全ての人に福音を伝えようとしていることも理解しました。そこでペテロは、コルネリウスの家に着くと「神様は、神様を信じる者はだれでも受け入れてくださる。イエス様は、ユダヤ人だけの救い主ではなく、世界中みんなの救い主です。」と話しました。コルネリウスたちは、喜びながらメッセージを聞き、心からイエス様を信じました。彼らは、聖霊を受けて神様を賛美するのです。こうしてその家にいた人たちは、洗礼を受けました。
 僕たちも今日一つの事を覚えましょう。それは、「イエス・キリストはすべての人の主」という事です。イエス様は、僕たちの救い主です。そしてまだイエス様を信じていない周りのお友だちの救い主です。僕たちは、自分がイエス様を信じて救われるだけではなく、お友だちがイエス様を信じて救いを受けられるように、イエス様の事を伝えていきましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ペテロは、神様の導きの中でイエス様が世界中の全ての人の救い主であることを知りました。僕たちもイエス様が全ての人の救い主であることを信じます。イエス様の事をお友だちに伝えていきます。イエス様、僕たちのお友だちがイエス様を信じることが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」
                                使徒の働き10章36節

<適用>
 新しい事柄が展開されるとき、多くの場合、そこにはいくつかの要因が重なっていることあります。教会では、今月から「聖歌隊」を始めることとなりました。どなたでも歓迎しますので、ぜひご参加ください。このことに関してもいくつかの要因があります。教会では以前、聖歌隊の働きをしていたという過去があります。そしてもう一度やろうと声をあげた人がいて、それに賛同する人たちがいました。これらのことがらの全ての中に神様の導きがあったことを覚えます。
 福音の宣教の扉が異邦人に開かれる時にもいくつかの要因がありました。

Ⅰ;コルネリウスの祈りと信仰

 異邦人への宣教の要因の一つは、コルネリウスの祈りと信仰がありました。
 コルネリウスは、カイサリアに駐留していたローマ部隊(イタリア隊)の百人を統率する部隊隊長でした。彼は、ローマの教育を受け、軍人として厳しい訓練を受けた純粋なローマ人です。このコルネリウスが御使いによって語られた神様からのメッセージを聞くことから事態が動き出していきます。ルカは、コルネリウスがどのように神様の導きを受けキリストを信じる信仰に導かれたのかを詳細に記します(使徒10:1-11:18)。聖書の中でも一人の人の回心についてこれ程長い文章を裂いている箇所はありません。使徒の働きを書いたルカは、コルネリウスとペテロの出会いが福音宣教のためにどれほど重要な出来事であったのかを私たちに示しているのではないでしょうか。

 コルネリウスは、ローマの百人隊長というだけではなく、「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた(10:2)」人でした。 「敬虔な人で、神を恐れ」るというのは、ユダヤ人としての割礼は受けていないけれど、ユダヤ教の信仰を持っている異邦人のことです。さらにペテロのところに遣わされたしもべの言葉を見ると、コルネリウスは、「正しい人で、神を恐れ、ユダヤの民全体に評判の良い」人と言われています。コルネリウスは、ユダヤ教に改宗はしていないけれど、旧約の神様の教えを守り、忠実に主なる神様に従って生きていた人だというのです。彼は、ユダヤを権力で押さえつけるのではなく、多くの施しをして人々に仕えながら自分の担当する地域を治めていたということでしょうか。
 それだけではなく、彼は家族全員と共に神を恐れ敬い、祈りをしていたというのです。コルネリウスは、天地を造られた創造主なる神様を信じ、旧約聖書の御言葉に耳を傾け、主の御前に祈りつつ毎日を過ごしていました。コルネリウスは、使徒8章で登場するエチオピアの宦官のように、御言葉の真理を知りたい、旧約の預言の意味を知りたいと熱心に神様の御心を求めていたのではないでしょうか。神様は、このように信仰をもって主を見上げ熱心に神様を求める人を見過ごすことはなさいません。歴代誌第二16章9節には「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」と言われています。

 まさにコルネリウスは、熱心に神様を求め、神様に心を向け祈り導きを求めました。神様は、コルネリウスの祈りを聞き、彼の信仰を見てくださり、ご自身を現してくださったのです。御使いは、「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています」とコルネリウスに言いました(使徒10:4)。異邦人への宣教は、コルネリウスの祈りと信仰に神様が答えて御手を差し伸べてくださったことによって扉が開かれていきました。
 イエス様は、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます(ヨハネ14:14)」と約束してくださっています。私たちが、信仰をもって神様の御心を求め、イエス様の御名によって祈る時、主なる神様はご自身のみわざを行ってくださるのです。私たちは、信仰をもっていつも主に祈りましょう。

Ⅱ;ペテロの従順

 異邦人への宣教が進むための要因の二つ目は、ペテロの従順がありました。
 神様は、コルネリウスに声をかけただけではなく、ペテロにも御声をかけて準備をされました。コルネリスが生粋のローマ人であるならば、ペテロは生粋のユダヤ人です。彼らの生まれと育ちを考えると、決して知り合うはずのない二人です。特にユダヤ人であるペテロは、ユダヤ人としての教育を受けていました。それは当然、異邦人とはかかわらないという生き方になるのです。ペテロは、初代教会の使徒として至る所で福音を伝えましたが、それは基本的にはユダヤ人への伝道にとどまっていました。使徒8章では、サマリヤ人への伝道が行われますが、もともと同じ民族であることを考えると、受け入れやすかったのではないかと思います。けれども全くの異邦人となると話は別です。この扉は、固く閉ざされたままでありました。

 そのため神様は、ペテロに一つの夢を通して語りかけます。ペテロは、宿泊していた家の屋上で昼の祈りをしながら、うっとり夢心地になっていました。ペテロの空腹とお昼の用意がされている匂いが彼の夢に働きたのでしょうか。「夢心地」と訳されているギリシャ語は、「恍惚状態」と言う意味もありますので、ペテロはぐっすり眠りこんでしまった訳ではないようです。はっきりしていることは、この時ペテロは祈りの中で神様の導きを受けていたということです。天から吊るされた大きな敷布の中には、「あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥」が入っていました。神様は、「ペテロ、ほふって食べなさい。」と言いました。ペテロは、戸惑いながらも「それは出来ない・・・。 」と答えました。モーセの律法には、食べて良いきよい動物と、食べてはならない汚れた動物とが定められていたのです(レビ11章)。ペテロは、ユダヤ人として律法の教えを忠実に守り、きよいもの、汚れたものとを明確に区別していたのです。ですから天から目の前に吊り下ろされたものを食べることが出来ないと言ったのです。主は、言われました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と。これは、「きよくない、と考え続けることをやめよ」と言うことです。このような押し問答が3回あってその布は、引き上げられて行きました。

 ペテロが、今見た幻について思い巡らしていると、御霊はペテロに対して「彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」と語ります。ペテロは、「ユダヤ人は神の民であり、ユダヤ人は異邦人とかかわりを持たない」というユダヤ人としてのある種の偏見と差別を持っていました。神様は、それを動物によってペテロに指摘したのです。このことによってきよい食べ物とか汚れた食べ物と言う区別が取り除かれたと受け止めることが出来ます。しかしそれ以上に、神様は人を「きよいとか汚れている」という見方をやめるようにと教えてくださったのです。神様は、ユダヤ人だけの神ではありません。神様は、全ての人の神であり、神様はユダヤ人だけを愛するのではなく、全ての人を愛しておられます。おそらくペテロは、カイサリアに向かう道中もずっと思い巡らして神様の導きを確認していたことでしょう。その結果ペテロは、この神様の思いと愛をはっきりと知り受け止めることが出来ました(28)。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。」

 もしかしたら私たちは、人を偏見や色眼鏡で見てしまうことがあるかもしれません。あの人は、自分と気が合うから良い人、謙遜でないからだめだ、等々、私たちは偏見を持ってしまいます。そんな弱さを持っているのが私たち人間です。けれども私たちを愛している神様は、偏見を持たず、「えこひいき(かたよったこと)をする方ではない」のです。「どの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられ」るのです(使徒10:34-35)。私たちもペテロと同じように、神様の視点をもって人々とかかわりましょう。その時、宣教の扉が開いていきます。イエス・キリストはすべての人の救い主です。

Ⅲ;開かれた心

 異邦人への宣教が前進するための要因は、そこに開かれた心を持っていた人がいたということです。
 それはコルネリウスの準備に見られます。彼は、ペテロが来るまでの4日間親族や友人を呼んで準備をしていました。ユダヤ人であるペテロが、外国人(ローマ人)である自分の家に確実に来るという保証はありません。けれどもコルネリウスは、御使いの言葉を信じ、親族、友人にもペテロの話しを聞いて欲しいと考えて集めていたのです。コルネリウスは、ペテロを呼んだ理由を説明しながら、「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。(33)」と言っています。
 ペテロもまた開かれた心を持っていました。ペテロは、神様によって示された夢の意味を正確に知り、コルネリウスに対して「ためらうことなく来た」と伝えています。ペテロは、ユダヤ人でありながら外国人を訪ねて交わりを持つという全く新しい価値観へと導く神様の御心にすぐに従うのです。

 このような開かれた心を持って主の前に出る時、そこに主のわざが行われます。コルネリウスをはじめ、ペテロが語るイエス様の十字架の救いのメッセージを聞いていたすべての人は聖霊を受け、イエス様の救いを受け、洗礼を受けることが出来ました。私たちもコルネリウスのように主の前に「主のみことばを聞くために、神の御前に出ています」という開かれた心を持つなら、神様は、御言葉によって私たちの心を満たし平安を与えてくださいます。
 また私たちは、ペテロと同じように、神様からのお取り扱いを必要としている者であることを覚えましょう。私たちの見方、考え方、生き方、価値観は、神様に取り扱っていただく必要のある部分はないでしょうか。片寄ったことをなさらない神様は、私たちのような者をも受け入れ愛してくださっています。同じように神様は、私たちの周りの一人一人を愛し、受け入れてくださっておられるのです。もし私たちが、偏見や間違ったものの見方をしていることばあるならば、それを神様に取り扱っていただき、取り除いていただきましょう。そのうえで私たちは、神様には、えこひいきがなく、片寄った見方、偏見などないこと、イエス様がすべての人の救い主であることを告白して歩みましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。コルネリウスとペテロは、聖なる神様の働きによって導かれ、変えられました。そのようにして異邦人への宣教の扉が開かれていきました。私たちは、コルネリウスのように主の御前に祈ります。聖霊様ご自身が私たちを教えて導いてください。私たちはペテロのように神様によって変えられる必要があるものです。聖霊なる神様ご自身が私たちの心を探ってくださり、私たちをさらに造り変えてください。私たち一人ひとりを通して、イエス様の救いの恵みが宣べ伝えられていきますように力を与えてください。
 この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」