列王記第二19章8-19節 「神により頼む人生」 説教者:赤松勇二師
<子どもたちへ>
皆は、幼稚園や学校で困ったことがあったらどうしていますか?たぶん、すぐに先生に助けを求めるでしょう。例えば、勉強で分からないことがあったら、先生に教えてもらうでしょう。遊んでいて転んでしまって擦り傷が出来たら、保健室に行って診てもらうでしょう。そのようにして僕たちの周りには、頼れる人たちがいます。
僕たちは、生きていくうえで最も頼れる神様がいることを覚えておきましょう。今日は、ヒゼキヤ王様のお話をします。ヒゼキヤ王様は、南ユダ王国の王様です。先週学んだ預言者ヨナの時代から数十年後の王様です。
ある時、南ユダ王国よりも大きくて強い国であるアッシリアからラブ・シャケという将軍がエルサレムにやってきました。ラブ・シャケは、大きな声で南ユダ王国の人々を馬鹿にしました。「おーい、お前らよく聞けよ。ヒゼキヤは、頼りにならない王様だぞ、南ユダはアッシリアに勝てないし、お前たちの信じている神もアッシリアからお前たちを救い出す事など出来やしない。実際に、前たちの同族である北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされたじゃないか。すぐに降参しろ!!」
これを聞いたヒゼキヤ王は、神様に祈り、そして神様の預言者イザヤに連絡をして、祈ってもらいたいと要請をしました。イザヤは、「恐れる事はない。」と神様の言葉を伝えます。
それでもアッシリアの将軍ラブ・シャケは、しつこく、しつこく、南ユダ王国を馬鹿にして、アッシリアの王センナケリブの手紙までよこしました。ヒゼキヤ王は、アッシリアの王の手紙を読んで、それを目の前に広げて、「神様、どうか私の祈りを聞いてください。そしてセンナケリブがよこした手紙を見てください。苦境に立たされている私たちを助けてください。」と祈りました。ヒゼキヤは、心からの叫びを祈りました。神様は、ヒゼキヤの祈りをお聞きになり、アッシリア軍を全滅させてくださいました。神様は、ヒゼキヤの祈りに答えて、ご自身のみわざを行って助けてくださったのです。
ヒゼキヤ王様は、主なる神様こそ、信頼すべき神様であり、必ず助けてくださると心から信じていました。今週の聖句を一緒に読みましょう。これは、ヒゼキヤ王様の祈りの言葉です。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」列王記第二19章15節。
ヒゼキヤ王の信じていた神様は、天と地の全てのものを造られたただお一人の神様です。神様は、ヒゼキヤ王の祈りを聞いておられました。それだけではなく、神様は、ヒゼキヤ王がどれほど困っているのか、そのすべてを知っておられたのです。
神様は、僕たちのことを知っていてくださり、皆がどんな思いでいるのかも知っているのです。主なる神様は、神様に祈る僕たちの祈りを聞いてくださいます。そして神様は、僕たち一人ひとりを助け、導いてくださるのです。僕たちは、神様を信じて祈り続けましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヒゼキヤ王の祈りを聞き、全てを知っておられた神様、あなたは今も僕たちのことを知ってくださり、祈りを聞いてくださることを信じます。僕たちは、神様により頼み歩みます。どうか僕たちを導き助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」
列王記第二19章15節
<適用>
東京で開催されている世界陸上2025は、今日が最終日となります。110mハードルや400mで日本の選手が決勝に進んでいました。今後の活躍が楽しみです。棒高跳びでは、同じ選手が大会のたびに世界記録を更新していて、今回も更新されました。棒高跳びや走り幅跳びややり投げ等の競技を見ていると、選手たちは自分の競技が終わるとすぐにコーチのところに行って、どうだったのか確認し、助言を求めています。そこには、コーチとずっと練習を積み重ねてきた選手のコーチへの信頼があるように思います。そしてコーチは、選手の信頼に答えるように選手と一緒に考え、適切な言葉かけをしているのです。
私たちは、いつでも神様に尋ね求めることが出来ます。私たちは、神様により頼み人生を生きることが出来るのです。
Ⅰ;心に神の御言葉を
私たちは、心に神の御言葉をもって、神により頼む人生を送ることが出来ます。南ユダのヒゼキヤ王の信仰の姿に目と向けてみましょう。
イスラエルの国は、ダビデ王とソロモン王の時に最盛期を迎えました。ソロモンの後、イスラエルの国は北イスラエルと南ユダに分裂してしまいました。北イスラエルの王は、神様に背を向けて罪を犯し続けました。そのために、神様は、エリヤなどの預言者を通して悔い改めを勧め、神様の裁きがあることを語って来られました。それにもかかわらず、北イスラエルは、悔い改めることなく、神様のさばきを受けて、アッシリアに滅ぼされてしまいました。列王記第二17章5-6節「アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハコラと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。」
そのような歴史の流れの中で、南ユダ王国もまた神様に背を向ける時代がありました。しかし、神様に対して誠実な信仰をもって歩んだ王様もいました。そのうちの一人が、ヒゼキヤでした。
ヒゼキヤについては、「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った(Ⅱ列王18:3)」と言われています。また、「高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。…彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(Ⅱ列王18:4‐5)」と言われています。ヒゼキヤは、国中にあった偶像や祭壇を壊し、モーセの時代に作られた青銅の蛇を壊しました。モーセによって荒野を旅していたイスラエルの民が神様とモーセに対して不平不満を言った時、神様は蛇による裁きを下します。その時モーセが青銅の蛇を作ったのです。蛇にかまれても、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見ると死なずにすんだのです(民数記21:4-9)。南ユダの人たちはこの青銅の蛇も礼拝の対象にしていたのです。どのような経緯でそんなことになったのか分かりませんが、ヒゼキヤは、このような人の手で作られた偶像をことごとく打ち壊し、主なる神様に頼り、主の教えに従っていました。神様も彼と共におられました。
このような信仰の基盤として大切なことが、列王記第二18章6節に書かれてあります。ヒゼキヤは「主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った」のです。ヒゼキヤの生きていた時代は、アッシリアという大国が攻め込んでくるという非常に厳しい時代でした。そのような中でヒゼキヤは、心に神様の御言葉を持ち、御言葉に従い、神様により頼んでいました。だから神様は、ヒゼキヤと共におられ、成功を与えてくださったのです。
私が聖書学院で学んでいる時、私はたくさん出される課題のためにどうしたら良いか分からなくなりました。私は、どの課題から取り掛かるべきか分からず、頭の中を整理する必要がありました。でもどうしたら良いのか分からなかったのです。私は、心を静めて冷静に考え一つの方法を見つけました。それは、ディボーションをすることです。私は、まず聖書を読んで祈ることによって、神様の御言葉を中心に全てのことを組み立てることから始めました。すると私は、心が落ち着いてくることを感じました。そして何を優先的にするべきかを考えることが出来るようになりました。
私たちは、自分の人生をどのように生きていこうと考えるでしょうか。私たちは、神様により頼み人生を進めることが出来るのです。その時、神様は、ご自身の御言葉によって私たちを確かに導いてくださいます。
Ⅱ;神様こそ唯一の神
私たちは、神により頼む人生を歩むことが出来ます。神様こそ唯一の神だからです。
ヒゼキヤが南ユダ王国の王となったのは、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされるという時代でした。さらにアッシリアの脅威は、南ユダにまで及びました(Ⅱ列王18:13~)。アッシリアの将軍ラブ・シャケは、その大軍でエルサレムを包囲しました。けれどもすぐに攻め込むのではなく、ラブ・シャケは心理作戦を繰り広げました。列王記第二18章19節からその言葉が始まります。それは、ユダの人々を馬鹿にする言葉であり、信仰を否定する言葉でした。そして彼らが信じている神様を愚弄する言葉でした。ラブ・シャケは、言います。「おまえたちの神はアッシリアの神に勝てるはずがない。アッシリアは多くの国々を打ち破ってきた、それはアッシリアの神々が強いからだ。おまえらの神は、何をしてくれる。何もしてくれはしない。アッシリアに降伏すれば平和がやって来る。」
これを聞いてヒゼキヤは何をしたでしょうか。彼は、主に祈りました。そして預言者イザヤに祈りの要請をしました。ヒゼキヤは、何を言われても、苦境に追い込まれても、まず主の前に出たのです。ヒゼキヤは、ひたすらに祈り、主の導きを求めました。愚かなことでしょうか。ラブ・シャケは、「そんな愚かなこと」と馬鹿にしました。けれどもヒゼキヤは、これこそ、唯一の解決策であると知っていて、信仰をもって祈るのです。彼の祈りが19章14節から記されています。「主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」ヒゼキヤの信仰告白と主に全く信頼する信仰の現われです。ヒゼキヤの言葉は続きます。「主よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼らの手から救ってください。・・・(19:17-19)。」と、ヒゼキヤは、主なる神様の力あるみわざを求めて祈ります。
私たちは、今日の礼拝を「召天者記念礼拝」として行っています。それは、神様が小川教会に導いてくださり、信仰に導かれ、共に主を礼拝した方々を偲び、その信仰の姿を思い起こすためです。私たちの信仰の先輩、信仰の友、主にある家族の一人ひとりは、様々な状況の中で神様と出会い、神様への信仰をもって主を見上げて歩んでいました。その歩みは、神様を信じていても問題がなかったわけではなかったでしょう。実に多くの問題や困難に直面していたのではないでしょうか。しかしそれでも、その人たちは、信仰を捨てず神様を見上げつづけ、礼拝し続け、神により頼み続けました。それは、自分の信じている神様こそ、天と地を造った唯一の神であることを知っていたからです。私たちは、その信仰の姿を思い起こし、模範として歩みましょう。
アッシリアの将軍ラブ・シャケは、南ユダの人々への言葉の中で「今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか(列王記第二18:20)」と問いかけました。この問いかけは、南ユダの人々やヒゼキヤ王の信仰を馬鹿にするために言っている言葉です。目に見えない神になど頼ったところでどうにもならないだろう、という意味が込められているのです。
しかし私は、この問いかけは、実に重要なものだと思っています。いったい私たちは、「だれに、何により頼む」のでしょうか。ある人は、「お金さえあれば」と思うかもしれません。しかしお金は、使えばなくなりますし、お金が人生のすべての問題を解決するわけではありません。地位や名誉、高価な物に頼る人がいるかもしれません。私は、地位や名誉を求めることは悪いことだと言い切ることは出来ないと思います。でも、もし地位や名誉を得ることが全てだと考え、高慢になり神様を忘れるとしたらそれは間違っています。ある人は、目に見える物に頼ることがあるでしょう。目に見える物とは、人が作った神々であり、偶像のことです。それらは人間が作り出したものですから、何の力もなく私たちの問題を解決することなど出来ません。占いなども同じです。
皆さん、いかがですか。皆さんは、何により頼む人生を送りますか。私たちの信じる神様は、天と地を造り、人を造り、私たちを愛し私たちの祈りの声に聞いてくださり、救い出すことが出来るお方です。苦難の中で祈っても神様の答えが分からないという事もあるでしょう。いったい神様は、何をしているのだろうかと感じてしまう事もないわけではありません。私たちは、苦難の中で自分の弱さに気づき、自分の罪が指摘されることもあるかも知れません。この気づきも神様からの答えです。その時には、私たちは、素直に悔い改めて主に立ち返り、信仰を新たにして、神様の救を求めて祈るのです。神様は、私たちの祈りに耳を傾け、必ず答えてくださいます。
週報にある今週の聖句を一緒に読みましょう。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」列王記第二19章15節
次の御言葉も確かな約束を私たちに与えてくれます。
詩篇121篇1-2節
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」
ピリピ人への手紙4章6-7節(昨年度の御言葉でした)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
私たちは、神様の御言葉を心に持ち、唯一の神様を信じて、神様により頼む人生を歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちは、御言葉を心に持ち、唯一の主なる神様だけを見上げて、神様により頼みます。私たちの日々の歩みを導いてください。私たちの信仰を引き上げ、主の御名を求めて歩ませてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」