マタイの福音書6章5-15節 「『主の祈り』を祈る」 説教者:赤松勇二師
<子どもたちへ>
小学校では運動会が迫ってきていますね。練習は進んでいますか?ケガをすることなく練習が進み、本番を迎えることが出来るように祈っています。学校では、運動会だけではなく、持久走大会(マラソン大会)がありますよね。練習をしている中で、もう少し速く走るためには、どうしたら良いのだろうかと思うことがあるでしょうか。そんな時、僕たちはどうしたら良いのでしょうか。たぶん、速く走ることが出来る友だちに、「速く走るためにはどうしたら良いのか」と聞いて教えてもらうことが必要になりますね。そして教えてもらったことを実際にやってみることで身についていきます。
今日は、イエス様の弟子たちがイエス様に「どうやるのですか」と質問したことについて見ることにしましょう。弟子たちは、イエス様のある行動をずっと見ていました。その行動と言うのは、イエス様が忙しくても疲れていても、どんな時でもいつも静かなところで、神様にお祈りしているというものでした。弟子たちは、「イエス様は、いつもおひとりで静まってお祈りしている。どんなことをお祈りしているのだろうか。イエス様は、どのように祈っているのだろうか」と話し合っていたのだと思います。ある時弟子たちは、「イエス様、私たちにもお祈りの仕方を教えてください。」とお願いしました(ルカ11:1)。この時、イエス様が弟子たちに教えたお祈りが、毎週の礼拝で僕たちがお祈りしている「主の祈り」です。今日もお祈りしましたね。
まずイエス様は、「天にいます私たちの父なる神様」とお祈りを始めることを教えてくだいました。僕たちは、誰かに話しかける時に聞いてもらいたい相手に呼びかけるでしょう。お母さんに話を聞いてもらいたい時には「お母さん」と呼ぶし、友だちなら友だちの名前を呼ぶことでしょう。同じように僕たちがお祈りする時、お祈りを聞いてくださる天の神様を呼ぶのです。しかもイエス様は、天の神様のことを「天のお父さん」と呼ぶことが出来ると言うのです。お祈りは、僕たちと神様との大切な会話です。僕たちは、イエス様の十字架の救いを信じ、罪を赦され神の子としていただけます。だから僕たちは、「天の父なる神様」とお祈りすることが出来るのです。
そして次には、天の父なる神様を信じ、心から賛美し礼拝する祈りをします。主の祈りでは、「御名があがめられますように」と祈ります。この部分は、「御名が聖なるものとされますように」と言う言い方も出来ます。その意味は、神様が神様として礼拝され、賛美されますようにと言うことです。そして自分は、そのように神様を信じますと言うことでもあります。
「御国が来ますように、みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と言うのは、神様によって世界が支配されるように、神様がしていることが、天の御国だけではなく地上でも行われるようにと言う祈りです。そして僕たちの心が神様によって支配され、神様の願っておられることに従うことが出来るように助けてくださいと言う祈りです。
そしてさらにイエス様は、僕たちの毎日の生活のためにも祈りなさいと言われました。「日々ごとの糧を、今日もお与えてください」と言うのは、毎日の生活に必要なものを与えてくださいと言う願いです。神様は、皆に必要なものを与えて助けてくださるお方です。
また僕たちは、罪からの救いを祈り求めることが出来ます。イエス様は、僕たちの罪のために十字架にかかってくださいました。僕たちはイエス様によって罪の赦しを与えられ、神様の愛を受けることが出来ます。僕たちは、イエス様に赦していただいたように、周りの人たちのことを赦すのです。時には「あ~、もう赦せない!」という気持ちになることもあるでしょう。イエス様は、そのような僕たちの気持ちをご存じで、「神様、周りの人を赦すことが出来る力を与えてください」と祈るようにと勧めているのです。
最後の願いは、「試みにあわせないで、悪からお救いください」と言う祈りです。これは、悪魔の誘惑に負けることなく、神様の教えから引き離そうとするどんな悪からも守ってくださいと言う祈りです。
この「主の祈り」は、毎週礼拝で祈っていますが、僕たちは、心から自分の言葉として祈りましょう。また、毎日の生活の中で「天におられる父なる神様」と祈り続けましょう。神様は、僕たちの祈りを喜んで聞いてくださいます。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、弟子たちに教えてくださったお祈りを学びました。イエス様、僕たちがいつでも神様にお祈りすることが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」
マタイの福音書6章9節
<適用>
何かを習得する時、私たちは、とにかく真似をすることから始めることがあります。私は、小学生の時に少年野球に入っていました。いつも補欠でしたが、守備練習では外野に出ていました。私は、ボールを投げることは得意だったので、外野からホームベースまで届くように投げることが出来ました。しかし問題があったのです。私が投げるボールは、ホームベースから右にズレてしまいベンチのほうに曲がってしまうのです。コーチからまっすぐ投げる方法を教わり、その投げ方の真似をするのですが、なかなか上手くいきません。最終的に出された指示は、左の方向に投げるということでした。私が投げるボールは右にズレていきますので、左方向に投げればカーブしてホームベースに行くだろうと言うことです。私は、言われた通りに少し左方向に力強く投げました。するとその時だけ真っすぐ投げることが出来ることがあるのです。私は、いったいどこに投げたらよいのか分からなくなることがありました。いつも補欠だった理由がここにあります。
イエス様は、弟子たちから祈りを教えてくださいと言われた時に、「主の祈り」を教えてくださいました。これは、私たちが模範とするべき祈りであり、心から祈り続けるべき祈りだと思います。この祈りは、私たちがどのように生きるべきなのかも示している言葉となっています。ご一緒に見ていきましょう。
Ⅰ;天の父に祈る
私たちは、天におられる父なる神様に祈ることを覚えて「主の祈り」を祈りましょう。イエス様は、祈りの最初に「天にいます私たちの父よ。」と祈ることを教えて下さいました。イエス様は、このことを通して、祈りは、天におられ私たちを見ていてくださる父なる神様に祈ることであると明確に教えておられるのです。私たちは、神様を「お父さん」と呼ぶことが出来るのです。この呼び方は、弟子たちにとっては新鮮なことであり、驚きだったことでしょう。弟子たちは、神様のことを「お父さん」と気軽に呼ぶことなど思いもつかなかったことでしょう。しかしこの呼びかけは、祈る私たちに大きな希望を与えます。なぜなら神様は、私たちから遠く離れて私たちを眺めているお方ではないことを示すからです。天地の造り主であり、永遠に存在し、人を造り、私たちを愛し導いて下さる唯一の神様は、私たちの呼びかけを喜んでくださり、私たちの祈りに耳を傾けてくださるのです。
イエス様は、父なる神様が「隠れた所で見ておられる」と言われましたが、何も神様が私たちの事をこっそり覗いているのではありません。神様は、私たちの心の隅々まで、隠れた部分までも知っていてくださり導いて下さると言う事です。そのような神様は、私たちが祈るより先に私たちの願いを知っておられ、私たちの必要も知っておられます。ある人は、神様がすべてを知っておられるなら、祈らなくても、神様が何とかしてくれると言うかもしれません。おそらくそうかもしれません。しかし私たちは、祈るのです。私たちは、祈ることを通して私たちの必要を神様に願います。神様は、私たちの祈りに答えると言う形で私たちの必要を満たして下さるのです。すると私たちは、確かに神様が私たちを導いて下さっていると言う事実を知ります。そして神様への感謝をするのです。だから私たちは、父なる神様に祈るのです。
その時の態度についてもイエス様は、教えて下さいました。私たちは、祈る時心を神様に開き、神様に集中して祈りましょう(5‐6)。そして祈る時私たちは、自分の言葉で心から祈ることが大切です(7-8)。「同じ言葉を繰り返してはいけない」とは、同じ祈りをしてはいけないと言う事ではありません。私たちは、同じ祈りを何度となく繰り返します。主の祈りもその一つでしょう。しかし、その繰り返しもただ繰り返しているのではだめで、その度ごとに、心からの願いとして祈ることが大切なのです。このようにして私たちは、私たちの祈りを聞いて下さる唯一の父なる神様に祈るのです。
Ⅱ;神の栄光を祈る
私たちは、父なる神様の栄光を求めて、「主の祈り」を祈りましょう。イエス様が教えて下った祈りの具体的な内容は、まず何よりも父なる神様の栄光を求める祈りでした。
一つ目は、「御名が聖なるものとされますように」です。この部分私たちは、「御名があがめられますように」と祈っています。「あがめられますように」の部分は、「聖とする、聖なるものとして特別に取り扱われるように」という意味の言葉が使われています。分かりやすく言えば、私たちが、神様を神様とするということであり、神様を他の何物にも比べず、どんなものからも区別して、神様だけが聖なるお方として特別に賛美されるようにということなのです。私たちの周りでは、主なる神様が無視され、軽んじられているという現実があります。ですから私たちは、まず、神様が聖なるお方としてあがめられ、神様の御名だけが賛美されるようにと祈りましょう。
二つ目は、「御国が来ますように」です。この祈りは、神様の支配がこの地に到来しますようにと言う願いです。そして神様の支配が私の心の中に溢れるようにと言う祈りです。
三つ目は、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」です。これは、神様のみわざが天でも地でも行われ、神様の栄光が現されますようにと言うことです。そしてこの祈りは、「私は神様の御心を求めます。私は、神様の栄光が現わされることを切に願います」という信仰告白の祈りでもあります。
この神様への賛美、神様の栄光をほめたたえる祈りを祈る時、それは私たちの生き方となって現れるのではないでしょうか。パウロは「どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです(ピリピ1:20)」と語りました。パウロは、何をするにも自分のすることを通してキリストがあがめられ、神様の栄光が現わされることを願っていたのです。実は、イエス様が教えてくださった主の祈りの最初の部分は、そのことを切に願うようにという勧めでもあるのです。神様は、ご自身で栄光を現し示すことが出来ます。当然です。けれども神様は、ご自身の栄光を現すために私たち一人ひとりを用いようとしておられるのです。主の祈りで私たちは「天にましますわれらの父よ。・・・」と祈ります。それは、「神様の栄光のために私を用いてください。多くの人々が、神様を崇め、神様だけを賛美するように、神様のみわざが地の上に満ち溢れるために、私を整えてください」という祈りでもあるのです。
Ⅲ;私たちの必要を祈る
「主の祈り」を祈る、という事は、私たち自身の必要を祈ることを教えています。この部分についてもイエス様は三つのことを教えてくださいました。
一つ目は、「日ごとの糧を、今日もお与えください」です。読んで字のごとく、私たちの日々の食物のことです。そしてもっと視野を広げて考えれば、私たちの健康が守られ、働き支えられ、収入を得ることが出来るように、全ての必要が満たされるようにと言う祈りでもあります。さらには、私たちの心が神様によって満たされ、御言葉を喜び、魂の平安をもって生きることが出来るようにと言う祈りなのです。このように考えると、私たちは、生きることの全てにおいて神様の助けを必要としていることになります。
二つ目は、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」です。これは、私たちが人からされたことを赦すということが、神様の赦しの条件のように理解されてしまう言い方です。もし私たちが、「私は、人の悪を赦したのだから、神よ、あなたは私を赦すべきだ」と言ったとしたら、何と高慢な態度ではないでしょうか。神様が私たちを赦してくださるのは、私たちが何かその条件を満たしたからと言うことではありません。私たちは、神様に罪を赦していただく交換条件として人を赦すのではないのです。この部分は、神様に赦された者として、人を赦すことが出来るようにと言う祈りなのです。私たちは、愛されたようにしか、人を愛することが出来ません。私たちは、教えられたようにしか教えることが出来ないのです。それと同じで、私たちは、赦されたようにしか、人を赦すことが出来ないのです。
神様は、悔い改める私たちを無償の愛をもってキリストの十字架のゆえに赦してくださるのです。イエス様は、神様に赦されていることを感謝し、人を赦すようにと教えているのです。このように祈ることが勧められているのは、私たちには人を赦すことが難しいからです。私たちは、「神様が自分のような者を忍耐し、愛し、赦してくださったように、私も忍耐と愛をもって赦すことが出来るように力を与えてください」と祈る必要があるのです。
三つ目は、「試みにあわせないで、悪からお救いください」と言う祈りです。「試み」とは、「誘惑」のことです。私たちは、誘惑にめっぽう弱いものです。私たちは、サタンの誘惑が日常の中に溢れていることを知る必要があります。それを必要以上に恐れる必要はありませんが、自分の生活にはそんなに誘惑はないと過信することも危険なことです。サタンは、私たちが神様から離れ、罪に支配されるようにと常に罠を用意しています。ですから私たちは、誘惑にあわないように、すべての悪から救い出してくださいと祈るのです。
最後の頌栄の部分は、もっとも古い写本には書かれていないようです。これは、主の祈りが教会で祈られるようになった時に整えられて加えられたと考えられていますが、主の祈りの最後としてはふさわしいものです。
私たちは、毎週の礼拝で「主の祈り」を祈ります。私たちは、どのような心で祈っているでしょうか。私たちは、天の父なる神様が聞いてくださることを信じて、主なる神様の栄光を求め、そして私たちの必要が神様によって満たされることを信じて、信仰をもって心から「主の祈り」を祈り続けましょう。そしてさらに私たちの普段の祈りは、まず、神様の栄光を求める祈りであることを心に留めましょう。私たちの祈りの中に神様の栄光をほめたたえる言葉を用意しましょう。私たちは、自分の必要を祈ります。その時にも、私たちのすべてが神様の御手の中にあることを感謝し、すべての必要のために祈るということを忘れないようにしましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が教えてくださった『主の祈り』をありがとうございます。私たちは、心から信仰をもって『主の祈り』を祈ります。また、私たちは、いつも神様の御名を賛美し、主の栄光を求め祈ります。そして私たち自身の日々の生活のためにも祈ります。神様、私たちの祈りを導いてください。私たちが、祈りを通して神様の御心の中を歩み、主の栄光を現し、神様からの恵みを感謝することが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」