2025年11月9日(日)礼拝説教 使徒の働き17章1-15節 「聖書に基づいた歩み」 説教者:赤松由里子師

使徒の働き17章1-15節 「聖書に基づいた歩み」

<子どもたちへ>
 おはようございます。寒くなってきました。町はクリスマスの飾りつけをしているところもありますね。教会では11月の最後の日曜日からアドベント(クリスマスを待ち望む期間)が始まります。それまで今日を含めてあと3回、教会がどんな風に生まれて行ったのか、学んで行きますよ。
 今日のお話にも、パウロさんとシラスさんが出てきます。旅行をしながらイエス様のことを伝えて、信じた人たちの教会が出来たのでした。先週は、2人がピリピの町で牢屋に入れられたけれど、見張りの人とその家族がイエス様を信じたお話でした。次に行った町が2つあります。そこでのお話、よく聞いてくださいね。

 パウロとシラスが次に行ったのは、テサロニケでした。大きくて立派な町です。「よし、いつものようにユダヤ人が集まる会堂に行こう。」2人はそう言って、イエス様のお話をしました。「皆さん、熱心に神様を礼拝していますね。でもイエス様を知って下さい。十字架で死んでよみがえったイエス様こそ、救い主です。」そう説明しました。すると大勢の人がイエス様を信じました。でも…怒っている人たちもいました。ユダヤ人たちです。仲間を横取りされた、と思ったのかな?ローマの役人のところに行って、こう言いつけました。「こいつらはイエスと言うべつの王様がいる、と言って、ローマの皇帝様に逆らわせようとしています!」でもパウロとシラスは何とか夜のうちに町を出て、無事に次の町に行くことが出来ました。

 次に行ったのが、ベレアという町です。ここは前に行ったピリピやテサロニケより小さい町です。こわい目にあった2人が隠れるにはちょうどいい感じでした。でも、2人はそうしませんでした。ここでもユダヤ人の会堂に行ってお話をしたのです。「皆さん、神様は救い主を送るよと聖書で約束しておられました。イエス様こそ、その救い主なのですよ。」
 こう教えてあげると、ベレアの人たちはみんなで話はじめました。「何だって?イエス様が救い主だなんて聞いたことなかったぞ」。「聖書の約束が実現したというけど、本当かな?確かめてみよう!」そして、巻物を開いています。そう、聖書です。会堂に毎日集まって、聖書を読んでは調べていったのです。「ここにも、あそこにも、パウロが行っていたことが書いてあるぞ」「聖書にちゃんと書いてあるから、パウロの話は本当だね」。そうしてたくさんの人がイエス様を信じました。

 皆さん、聖書って「大人が読むものじゃない?」と思っていませんか?いいえ、子どものみんなも含めて神様が下さった、お手紙のようなものです。聖書を読むと、神様が私を大切に愛して下さっている、と伝わってきます。そしてみことばは、他では手に入らない大切なものを与えてくれます。今日のみことばを読みましょう。
 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネ21章31節

イエス様を信じて欲しい、と神様は願っておられます。それは、子どもでも大人でも罪があり、そのままでは天国には入れないからです。でもイエス様が身代わりになって下さったよ、信じるなら罪を赦されて天国に入れるよ、というメッセージです。子どもにも大人にも本当に必要な元気は、みことばがくれるんですね。
 だから私たちも、ベレヤの人たちのように励まし合って、みことばを読んでいきましょう。「おうちでここを読んだよ」とか「このお話を聞いたよ」と教えてくださいね。神様が聖書がよくわかるよう助けて下さいますように。

<祈り>
 「神様、聖書をよく読むことの大切さを知りました。聖書を毎日、喜んで読んで行けるように助けてください。そして聖書がよくわかるようにして下さい。私たちの心に本当の元気、神様のいのちの力をお与え下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」                        ヨハネの福音書21章31節

<適用>
 先週はピリピ、今週はテサロニケとベレアが舞台となっております。私たちにとってはいささかなじみの薄い地名かもしれません。この3か所はいずれもローマに支配されたマケドニア州の町でした。16:9の「マケドニアに渡って来て、私たちを助けて下さい」という幻。そして始まった、マケドニア宣教の中でのエピソードになります。
 本日のテキストにはマケドニアの州都テサロニケも含まれますが、主としてベレア宣教と呼ばれています。ベレアはテサロニケに比べれば小規模な町であり、ベレア教会宛の書簡も聖書には収められていません。しかしながら、聖書はベレヤの信仰者たちを、暖かい眼差しで特筆しています。聖書に良く聴き聖書から大きな恵みを得た彼らの姿から、聖書に基づいた歩みに注目して学んで参りましょう。

1.聖書に基づいて歩む

 17:1にはパウロとシラスがピリピの牢から釈放されてテサロニケに行った、と知らされています。「すべての道はローマに通ず」と言われたように、エグナティア街道(イグナチオ街道、とも)が主要な町々を通っていました。彼らもその道を利用したと思われます。「マケドニアの叫び」と呼ばれるあの幻を胸に、彼らはその州都テサロニケの地を踏んだのです。
 彼らの宣教の手法が2、3節に書かれています。「いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った」。パウロたちはユダヤ人の会堂で安息日礼拝をしている人たちのところに行くのを宣教の足掛かりとしていました。聖書を読み、イエス様こそキリストであると伝えたのでした。その結果、ユダヤ人もギリシャ人からも主を信じる人たちが起こされました。

パウロたちの働きはごくシンプルです。「聖書に基づいて」、イエスの十字架とよみがえりを語るというものです。しかしこの「聖書に基づいて」ということを、私たちは今日大切なこととして覚えたいのです。それは神のことばそのものに力があるからです。
 へブル4:12には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」とあります。
 そのことを信じてパウロは聖書に基づいて語りました。このことから教えられるのは、みことばを示すことそのものに意味があるということです。生きているみことば自体が、力をもって働き始めてくれるからです。

 また別の点から言いますと、私たちの存在自体が「キリストの手紙」と言うことが出来ます。パウロはコリントの信徒を「私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙」と呼びました(Ⅱコリント3:3)。手紙である私たちの日常の言動が、聖書に基づき聖書に根差したものとなることはとても大切です。教会とクリスチャン生活の中心に、常にみことばがあることが大切です。「聖書はこう言っている。だけど、こっちのやり方をしよう」という自分軸の歩みでは「キリストの手紙」がぼやけてしまいます。「聖書はこう語っている。だからこう生きよう」と歩んでいくことを、神様は待っておられるのではないでしょうか。生きていて力あるみことばを、私たちの口にも日々の歩みにも携えて歩みましょう。

2.心開いて聖書に聴く

 二番目に目を留めたいのは、心を開いて聖書に聴く姿勢です。それはベレアのユダヤ人たちに見られたものでした。
 11節「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」とあります。この「素直」という言葉は「寛大である、偏見がない」という意味も持つことばだそうです。聖書はこのベレアの人たちの資質に注目し、特筆しています。暴動を起こしたテサロニケの人たちは、彼らと比較されてしまいました。

 子どもたちが小さい頃、群馬に引っ越して2人ともこども園のような施設に入りました。幼稚園と保育園の両方の機能がありました。遠足の時のことです。埼玉から転園をして知り合いがいないということで、役員の方が何かと世話を焼いて話しかけて下さいました。でもだんだんと話の雲行きがあやしくなってきました。その方はこの園がいかに素晴らしいかを伝えたかったようで、「一般の保育園の子は何も経験させてもらえなくてかわいそう。ただ預けられているだけなんて、差がつくだけだもの」と言われたのです。埼玉で通わせていた保育園では様々な経験をさせてもらってきましたから、「他をご存知ないんだな」と思いました。偏見なしに物事を見る、というのは年代問わずなかなか難しいことなのかもしれません。

 先ほども見ましたが、テサロニケでもベレアでも、パウロの宣教内容はほぼ同じだったと思われます。しかし一方は妬みに駆られて暴動をおこし、片方は非常に熱心にみことばを受け入れました。この違いはどこから来たのでしょうか。
 へブル4:2にはこうあります。「というのも、私たちにも良い知らせが伝えらえていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結び付けられなかったからです」。
 ベレアの人たちは柔らかい開かれた心の態度で、信仰をもってみことばに聴きました。その心の姿勢こそがベレアの人たちに救いの恵みをもたらしたのです。

みことばを私たちに結び付けるのは信仰です。みことばを「私たちを縛るもの」とか、「厳しすぎるもの」として見ているとしたら、それは偏見かもしれません。罪のない者はただの一人もいないことは、神様は百も承知であられます。弱さがあることを先に知っておられます。だからこそ、一人子イエス様を十字架にかけることさえして下さったのです。そんな私たちへのみことばは、愛とあわれみと恵みに満ちています。偏見ではなく、ベレアの人たちのように信仰をもって、み言葉に心を開いて聴きましょう。それは私たちに真の益をもたらすからです。

今日のみことばを読んで終わりましょう。
 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ21章31節)

<祈り>
 「天の父なる神様、御名をあがめます。生きていて力のあるあなたのみことばをあがめます。またそれは愛とあわれみと恵みに満ちたものであることを、信仰をもって受け留めます。ベレヤの人たちのように偏見のない心で、信仰によってみことばと結びついて歩めますようにお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」