使徒の働き19章8-20節 「人生の方向転換」
<子どもたちへ>
学校では、教育実習生が来ることがあると思います。教育実習生は、ずっと学校にいるわけではなく、一定の期間で終わってしまいます。教育実習生の人と仲良くなってもすぐにいなくなってしまい寂しい気持ちになることがあるかもしれませんね。
パウロたちは、第2回目の伝道旅行の時にエペソと言う町に立ち寄って神様の事を伝えました。イエス様を信じる人たちがいて、パウロにもっと教えてもらいたいと願い出ましたが、パウロはアンティオキアに帰る必要があったので、エペソをすぐに離れました。
しばらくしてパウロたちは、もう一度伝道旅行に出かけることにしました。この第3回伝道旅行で向かったのは、エペソの町でした。「パウロ先生たちがやって来たよ。会堂でお話をされるようだよ。」「聖書のお話を聞きに行こう」大勢の人々が集まりました。目を輝かせてパウロのお話を聞いている人がいる一方、眉をひそめて頭を振りながら聞いている人たちがいました。ある人たちが、パウロたちに反対して、イエス様の事を悪く言ったのでパウロたちは、ユダヤ人の会堂で話すことをやめました。
そしてエペソの町にあったティラノと言う人が教えていた講堂で教えることにしました。大勢の人がパウロについてきて、毎日ティラノの講堂で聖書を学ぶこととなりました。
神様は、パウロを通して不思議なことも行ってくださいました。パウロが身につけていたタオルとかエプロンを病気の人や悪い霊につかれた人に当てるとみんな癒されて元気なったのです。これは、神様がパウロを通して、ご自身の力あるわざを行っていたのです。けれども神様を信じないで魔術を行っていた人たちは、「パウロの真似をすればもっとお金儲けが出来るかもしれない」と考えたのでしょう。彼らは、悪い霊に支配されている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって命じる」と言ってみたのです。すると悪い霊に支配されている人は、魔術師に襲いかかって、魔術師は逃げ出していきました。このことが人々の間に広まって、パウロが伝えているイエス様こそ本当に力がある救い主だと信じるようになりました。
その中の多くの人がパウロの所に来て悔い改めをするのです。「パウロ先生、僕たちは、たくさんの魔術を行ってきました。それが大きな間違えであったことを知りました。イエス様こそ救い主であることを信じます。神様を信じて信頼するべきだと信じます。」「僕の持っている魔術の本を焼き捨てます。」一人またひとりと皆が魔術の本を持ってきて火の中に投げ捨てました。こうしてエペソの町では、大勢の人たちがイエス様を信じて、罪から離れて、神様に従うことにしたのです。
今日の聖句を読みましょう。「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」エペソ人への手紙5章8節
エペソの人たちは、罪という暗やみから、イエス様による光に包まれて生きていくように方向転換をしました。イエス様は、僕たちの救い主です。神様の悲しまれることをしてしまい、罪を犯す僕たちの身代わりに、イエス様は、十字架にかかり死なれ、三日目によみがえりました。僕たちが、「神様、ごめんさない」と素直にお祈りする時、神様は僕たちの罪を赦してくださいます。しっかりイエス様を見上げて、悔い改めて、罪から離れましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様の十字架の救いによって罪が赦され、神様の子ども、光の子どもとしてくださることをありがとうございます。僕たちは、イエス様を信じます。僕たちの罪を赦してください。光の子どもとして歩むことが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」 エペソ人への手紙5章8節
<適用>
皆さんがご存じのように、教会の前の道路は2輪車以外の車は、一方通行です。私は、時々、一方通行を逆走している車を見かけます。私は、出来るだけ声をかけるようにしています。一歩通行を教会の前まで逆走してくると、あと数メートルで大通りになります。でもその数メートルでも、逆走は逆走なので私は、安全を確認しながら声をかけます。私が、手を広げて車を止めると運転手の人は、「何んかヤバい奴が車を止めようとしている」と思っているような表情をします。でも私が、「ここは、一方通行なので、逆走しています」と伝えると、「あっ、そうでしたか」と運転手は自分の間違いに気づき、Uターンをして正しい方向に走りだすのです。そうではない人もいるのですが、教会の前の道は、気を付けないといけませんね。
パウロがエペソで伝道していると多くの人が、人生の方向転換をする恵みを受けることが出来ました。
Ⅰ;聖霊に満たされて
エペソのクリスチャンたちは、聖霊に満たされて「人生の方向転換」を具体的に進めることが出来ました。
第二回伝道旅行の帰り道、エペソに立ち寄ったパウロたちは、第三回伝道旅行の時に再びエペソにやって来ました。パウロたちのエペソ到着は、聖霊に導かれた神様のグッドタイミグでした。使徒18章24節に伝道者アポロが出てきますが、彼は「ヨハネのバプテスマしか知らなかった(25)」と言われています。アポロは、エペソでイエス様のことを伝えることが出来ましたが、「助け主の聖霊」については知らなかったのです。だからプリスキラとアキラが、アポロに福音のことをより正確教える事となりました。この様な経緯があり、エペソのクリスチャンたちの中には、福音に対する理解が不十分な人たちがいたのです。聖霊なる神様は、その欠けを補うために、パウロをエペソに導いたのです。
「聖霊がおらえるのかどうか、聞いたこともありません。」と答える12人に対してパウロは、バプテスマのヨハネのこと、ヨハネが予告したイエス・キリストはすでに来られて、十字架と復活によって救いが完成していることなどイエス様について話しました。当然その中でパウロは、約束の聖霊についても語ったことでしょう。聞いていた12人は、パウロの解き明かしを聞いてイエス様を信じ、「主イエスの御名によってバプテスマを受けた」のです。その時、彼らは聖霊を受けました。エペソの人々は、聖霊の導きの中で、パウロの語る言葉を受け入れ、信仰を明確にしました。聖霊なる神様は、今も御言葉を聞く一人一人に働き、御言葉を理解させてくださいます。また聖霊なる神様は、私たちを信仰告白へと導いてくださるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)」と言われている通りです。
私たちは、聖霊を受け、聖霊の導きによってイエス様を信じる信仰に導いていただくことができます。その結果私たちは、キリストの中に生かされる者となり、私たちの心の中に聖霊が住まわれるのです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(Ⅰコリント6:19-20)。」
私たちは、聖霊なる神様に心を満たしていただきましょう。
Ⅱ;神様への畏れをもって
私たちは、神様への畏れをもって、正しく人生の方向転換をすることが出来ます。パウロは、エペソに長い間滞在する事となりました。その期間の最初の頃、パウロは、ユダヤ人の会堂に入ってイエス様のこと、旧約聖書にある神の国について語り、ユダヤ人を説得しようとしました。しかし、彼らの中のある人々は、心をかたくなにして不信仰な態度を示したので、パウロは、そこから離れてティラノの講堂で伝道することにしました。パウロのエペソでの伝道の大半はこのティラノの講堂で行われました。
ティラノの講堂は、ティラノという哲学者もしくは教師が使用していた講堂だと言われています。講堂と訳されたギリシャ語「スコレー」は、「学校」の語源です。当時は、時間のある人々が集まって、講義を受けたり、さまざまなことを論じ合って時間を過ごす場所を講堂と呼んでいました。パウロは、このティラノの講堂を間借りして、伝道していました。おそらくパウロは、午前11時から数時間この講堂を使っていたと思われます。当時の習慣で人々は、日中の炎天下を避けるために午前11時から午後4時まで、昼寝などの休憩をして過ごしていたと思われます。ですからパウロは、休憩時間を利用して伝道し、人々も昼寝の時間を割いてパウロの語ることに耳を傾けていたということになります。このような伝道方法が約2年続きました。その間福音は、エペソだけでなく、エペソに集まって来たアジア州の多くの人々に伝えられました。エペソは、アジア州の伝道センターの役割を果たすこととなりました。ヨハネの黙示録に出て来る7つの教会は、この第3回伝道旅行の時に誕生したと思われます。
エペソでのパウロの伝道は、言葉だけによるのではなく、驚くべき奇跡が伴いました(11)。しかしこれは、パウロにそのような力があったのではなく、神様ご自身が働かれた結果です。けれども、エペソに間違った見方をしている人たちがいました。現在でも何か不思議な事があると、それをしたその人自身に力があるかのように思われてしまいます。エペソにいた魔よけ祈祷師は、パウロの行う奇跡を魔術の一つと受けとめました。またパウロが祈る言葉「イエスの御名によって」を、何かの呪文の一種として聞いていたのです。この魔よけ祈祷師は、「ためしに」主イエスの御名をとなえて魔よけ祈祷を行いました。彼らはイエス様の御名を自分たちの都合の良い目的のために利用したのです。その結果は、悲劇的なものとなりました。
この出来事は、エペソの人たちを主への畏れに導きました。なぜなら、「主イエスの御名に」力があることが分かったからです。エペソの人たちは、主イエスこそ救い主であり、神様こそ礼拝されるべきお方であると知ったのです。それは、主なる神様への正しい畏れ、信頼と信仰の表明となっていきます。
今私たちは、正しい心で主なる神様を畏れ敬う信仰を持っているでしょうか。「畏れ敬う」と言うのは、天地の造り主である主なる神様を「私の神様」と信じる事です。私たちを導いて下さる神様の御力を信頼しへりくだって礼拝することです。私たちが、神様を畏れ敬う時、私たちは自分が向くべき正しい方向を知ることが出来ます。
Ⅲ;悔い改めの実を結ぶ
私たちは、悔い改めの実を結ぶことで、人生の方向転換をしていきましょう。
魔よけ祈祷師の敗北を聞いたエペソの人々は、キリストの御名を軽々しく扱うべきではない事を知り、畏れを抱き、二つの反応を示しています。
一つ目の反応は、すべてをさらけ出して罪の告白がなされたということです。エペソのクリスチャンたちは、主のみ前に自分の心を偽ってはいけないと示されたのです。また彼らは、魔よけの様な間違った信仰をもっていた事を告白するのです。それが次の反応となりました。ともかく、彼らは、様々な欲望に支配されて生きるのではなく、主を信じ、従う生き方を選び取っていったのです。皆さんの心の中に、告白していない罪はないでしょうか。隠すのではなく主の前に告白し赦しを得ましょう。
もう一つの反応は、実際に魔術を行っていた多くの者が、魔術をやめ、それに関する書物を焼き捨てることでした。魔術の本を持っていた人たちは、信仰に導かれて人たちです。彼らは、イエス様を信じていても、それまでの習慣をやめる事が出来ず、魔術的なことを行っていたのです。けれどもそれが愚かな事であり、神様の御前に罪であることが分かり、捨てる決心をしました。焼き捨てるという行為は、公にその教えを否定し、決別するという意味を持つ行為です。
このようにしてエペソでの伝道は、拡大し、多くの人が信仰に導かれ教会が誕生しました。
私たちは、「さらけだして告白し」、「焼き捨てなければならない」ような、ひそかに行っている罪はないでしょうか。私たちが普段考えていること、習慣的に行っている事は、神様の御前に受け入れられ、喜ばれることでしょうか。もし思い当たることがあるならば、エペソの人たちのように主なる神様の御前に悔い改めることが必要です。そしてその罪を捨て、離れる事です。そのようにして私たちは、自分自身の心の方向転換をすることが出来るのです。
エペソの人たちは、イエス様を信じる前は、罪の暗闇、魔術という闇に覆われていました。彼らは、自分たちが闇に支配されていることを知りませんでした。イエス様の十字架の救いは、彼らの心の闇を照らし、闇から光に変えてくださったのです。エペソの人たちは、闇から光に方向転換をすることが出来ました。
イエス様は、今も私たちの心を照らし、闇から光へと方向転換を導いてくださいます。私たちは、光の子どもとして歩み続けることが出来るように聖霊の助けを受け、神様の畏れ敬い、悔い改めの実を結ばせていただきましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、以前は暗やみでしたが、今はイエス様の光に照らされて、罪の赦しを与えられ、光の子どもとして歩むことが出来る恵みを感謝いたします。私たちは、正しい心で神様を畏れ敬い従います。そして私たちは、自分の罪を告白し心から悔い改めます。神様、私たちは信仰をもって歩んでいても道を踏み外してしまうことがあります。その時に、すぐに悔い改め方向転換をして、しっかりと神様を見上げることが出来るように助け導いてください。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
